幕末の陽明学者『山田方谷』
破綻寸前だった備中松山藩をよみがえらせた山田方谷は、文化2年(1805)に生まれている。 農民の出身ながら、幕末の激動の中を老中板倉勝静を支えたが、新政府の度重なる要請には耳を貸さず、表舞台から去った。 生誕200年のいま、改革者方谷にふたたび熱い眼差しが向けられている。 ここでは方谷の財政改革の一端を紐解いてみる。 |
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負債の整理 | 最初に取り組んだのが負債の整理である。松山藩は多額の借金とその利息返済で破綻寸前だった。就任した方谷は10万両の借金先である大阪に向かった。 今まで隠してきた藩の財政を商人に全て公開し、経済再建の計画を示し、必ず返すからと利息返済の延期を申し入れた。 元締め自らの説明と、緻密な経済再建計画を語る方谷の誠意は、大阪商人の心を動かし、利息の免除と50年の返済期限を承諾した。 |
たたら製鉄 | 大阪商人に示した経済政策の一つが「たたら製鉄」の振興である。備中地方は良質な砂鉄の産地である。方谷はこの鉄に目を付けた。 全国から鍛冶屋を集め、昔からこの地方に伝わる「たたら」という手法で鉄釘、鉄器、農具などを生産した。 農民出身の方谷は、農民の意見を聞きながら農具を開発し、この中から「備中鍬(びっちゅうぐわ)」というヒット商品を開発した。 備中鍬は歯が3本で、従来品に比べ深く掘れしかも土の抜けがよい優れ物で、たちまち全国に伝わった。 また農作物の特産品作りに力を入れ、煙草、茶、高級和紙、こうぞ、菓子、そうめん作りを奨励し、商品に「備中」の名前をつけて売り出した。「魚沼産こしひかり」に見られるようなブランド品の先駆けである。 |
産地直送 | ブランド品の販売についても、当時誰もが考えなかった方法を編み出した。山間の小さな松山藩が外国船を購入し、直接江戸に運び込んだ。いわゆる産地直送である。 当時の西国の藩からの出荷品は、まず大阪に卸すのが常識だった。 中間マージンがなくなり、安価で高品質の備中ブランドは口コミで、売り上げを急速に伸ばした。 藩内に「撫育局」を新設し、生産・流通・販売を全て藩の直営とした。商業が低く見られる当時としては画期的なことである。 方谷の教えを受けた河井継之助が江戸を引き上げる時に、江戸で米や銅銭を買い集めて外国船に積み込み、北海道や新潟で売り払って莫大な利益を上げた。只見では死の直前に外山寅太(脩三)に商人になることを勧めた。 このあたりの着想も、松山で見聞したことが原点になっているのであろうか。 |
お札を焼く | 藩札は藩が発行する紙幣で、本来は幕府の出す貨幣と交換できるだけの量を発行する。しかし財政難の松山藩では藩札を乱発し、このため藩札の価値は著しく下落し、藩の信用を落としていた。 方谷は領内に出回っている藩札を幕府の貨幣と交換し、回収した大量の藩札を領民の見ている河原で焼いた。これを見た領民は新しい藩札を信用し、経済の混乱は収まったという。 |
賄賂の禁止 | 継之助方谷は農民からの取立てを減らし、武士には節約を命じ給料を減らした。武士にも鍬を持たせ、積極的に山地の開墾に従事させた。
横行していた賄賂を禁止し、自らの給料も下級武士並みにしかもらわなかった。自分の家計簿を他人に任せ、藩内にも公開した。 しかし減給を下級武士には及ぼさなかったり、領民からの饗応を禁止するなど弱者保護が一貫している。 継之助の改革でも賄賂の禁止や、家老になっても自らの給料を上げなかったことなど共通点が多い。 |
軍政改革 | 江戸時代では前例のない、農民の志願兵である「里正隊(りせいたい)」を組織した。 早くより洋式兵法の優秀さを知っていた方谷は、最新式のイギリスの銃を持たせ、洋式の軍事訓練を実施した。 長州の久坂玄瑞は洋式訓練を見て驚愕した。そしてこの軍隊が奇兵隊のモデルになったという。子孫の家には久坂玄瑞、桂小五郎(木戸孝允)などと交流した書簡が数多く残っている。 |
教育改革 | 多くの学問所を設け、武士だけでなく、農民、商人に学問の機会を与えた。そして身分に関係なく優れた生徒は役人に抜擢した。 方谷は新政府の誘いを断り、晩年も松山で子弟の教育にあたった。「義」と「誠」に貫かれた方谷の教えは、三島中州など多くの弟子により受け継がれている。 |
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