落花は枝に還らずとも(秋月悌次郎)
河井継之助が会津藩士秋月悌次郎と初めて会ったのは、安政6年(1859)7月28日、備中松山の文武宿「花屋」であった。継之助が松山に入って12日後のことである。悌次郎は花屋で二泊して8月1日西国の旅に発った。 継之助の旅日記「塵壷」によれば、 「28日、晴れ、会藩秋月悌次郎来る。土佐の話などを聞く」 (塵壷より) 師の山田方谷が藩主の老中板倉勝静の命により江戸に向ったので、この期間を利用して継之助は中国、四国そして九州に足をのばした。10月10日、偶然にも長崎で悌次郎に再び会う。 二人で南京屋敷、蘭館、軍艦観光丸などを見学した。継之助はあらゆることに興味を示し、遂にアヘンを吸おうとしたが、同行した悌次郎が止めた。 「山下屋へ移る後は、秋月悌次郎同宿、同間にあらず。秋月は薩摩、その他諸藩についての事を記すこと多し」 「唐館、蘭館を見ること、通詞(通訳)と懇意になることは、みな秋月の取り持ちなり、他日に江戸で会ったら一杯差し上げたい」 「アヘンを吸う匂い香ばしく、好きな匂いなり、唐人勧めれど吸わず。通詞『吸いつけぬと悪し』と止める故なり。通詞は吸いけり」 (塵壷より) 長崎でも女郎に興味を示す継之助と真面目一方の悌次郎の組合せが面白い。後年、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が、「神のような人」、「先生のそばにいるだけで暖かくなる」と称えた秋月悌次郎は、幕末の数奇な人生を歩んだ一人である。 |
河井継之助の旅日記「塵壷」 | 備中松山城 |
悌次郎は会津藩150石の中士である丸山四郎右衛門の二男に生まれた。藩校日新館の成績は抜群で、飛び級で通常より2年早く卒業した秀才に対し、藩から分家「秋月家」の創設を認められた。 藩より江戸留学のお墨付きがでて、幕府の昌平坂学問所に入学した。書生寮に入ったが、布団の中で寝たのを寮生は誰も見たことがないというぐらいに勉学に励んだ。 勉学への姿勢と品行が評価され、間もなく書生寮の舎長に任命された。江戸に学ぶこと14年、退寮にあたり悌次郎の真摯な姿勢に、住んだ部屋は「秋月先生苦学の間」として保存されたという。 安政6年(1859)、悌次郎に「中国、四国、九州の諸藩をまわり状況を報告せよ」と藩命がでた。 若い会津藩主松平容保は、時代が激しく動いていることを察知し、長く昌平坂学問所で舎長を務め全国に学友を持った悌次郎を西国調査の大役を命じたのである。 藩主の京都守護職拝命時、家老横山主税に公用方として抜擢され、容保に随従して上京した。ことに文久3年(1863)の禁門の変の会薩連合は、薩摩藩士高崎左太郎が悌次郎を訪ねてきたことが契機となり、高崎とともに政変の実行に奔走した。 しかし、禁門の変後、悌次郎を登用した家老横山が死去すると、蝦夷地代官に左遷され、斜里代官所に赴任した。斜里に来て2年後の慶応3年(1868)の冬、会薩の修復改善のため京都に復帰を命じられ、厳冬の中を蝦夷地を後にした。しかし、悌次郎が蝦夷地にいる間に、京都では薩長同盟が成立し、翌年には将軍慶喜が大政を奉還することとなる。そして慶応4年(1868)鳥羽伏見の戦いで会津藩は敗走する。 |
会津藩校日新館(会津若松市) | 昌平坂学問所(東京・湯島) | 中村彰彦著 |
継之助ははきものをぬぎ、かまちにあがったところで顔見知りに逢った。顔見知りというよりもはや友人知己といっていいであろう。 やあやあとその男は大声をあげ、継之助に近づいてきた。会津藩きっての名士とされる秋月悌次郎である。色白でひげの剃りあとのあおい、みるからに偉丈夫であった。 秋月は号は韋軒(いけん)。明治後の学会ではむしろその号のほうで親しまれている。 (司馬遼太郎「峠」より) ある日、会津藩の召集で、大槌屋において幕府の主要な藩の会合があり、出席した継之助の前に悌次郎が現れた。長崎で別れて以来の再会であった。 |
会津にもどった悌次郎は、越後口総督の一瀬要人に従って会津領水原代官所に入った。会津の兵糧、弾薬の補給口は新潟港で、そのため越後口は死守せねばならない。最強の佐川官兵衛が率いる朱雀四番士中隊も投入した。 長岡にほど近い加茂で長岡城の再落城と河井継之助の負傷を悌次郎は聞いた。 新発田藩の新政府軍への寝返りは、越後口の戦況に決定的な打撃を与えた。新潟に新政府軍がぞくぞくと上陸し、会津への補給路が完全に絶たれたのである。 戦況は日に日に悪化、ついに若松城下も戦場と化した。 悌次郎は副軍事奉行として籠城戦を指揮したが、ついに会津藩は降伏を決意する。ここでも悌次郎は新政府軍の包囲の中を城を抜出し、米沢藩を通じて土佐藩と調停し、最も困難な降伏・開城を取り仕切った。猪苗代に謹慎中の悌次郎に、西国を周遊したとき長州で会った長州藩士奥平謙輔から連絡が入った。変装しひそかに抜けだし越後の水原に向った悌次郎は、奥平と会い藩の寛容な処分を訴えた。その帰途に、想いなやむ気持ちを詩に託したのが後世に伝わる「北越潜行の詩」である。 行無輿兮帰無家 ゆくにこしなく かえるにいえなし 國破孤城乱雀鴉 くにやぶれて こじょうじゃくあみだる (以下省略) 会津の将来を託する人材として山川健次郎を推薦し、会津の希望の火として奥平に送り届けた。健次郎は白虎隊出の東京大学総長といわれたその人である。 |
八雲が住んだ松江市の松江城 | 八雲が愛した焼津の山口乙吉宅 (愛知・明治村に移設)) |
明治5年(1872)、終身禁固にあった悌次郎は特赦で罪を許され自由の身となった。一時官吏や、帰国して農業に従事していたが、明治15年に59歳で教育を志し東京大学予備門教諭にも就いている。熊本の第五高等学校の教諭となったのは明治23年(1890)67歳の時であった。 翌明治24年11月、英語教師のラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が松江中学校から五高に転勤してきた。維新の苦難に立ち向かった悌次郎の人格は、同僚や生徒達に深い感銘を与え、誰とも分け隔てなく接する姿を見て、「神のような人」とハーンは賞賛した。 激動する幕末の会津藩の中心人物として活躍し、老骨の身を時代を担う若者の教育に捧げた会津武士は77歳で東京の青山墓地に静かに眠る。 「今日の落花は来年咲く種とやら」 一度枝を離れた落花は、その枝に還って咲くことは二度とできない。しかし来年咲く花の種になることはできる (「落花は枝に還らずとも」より) |
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