間に合わなかった山県狂介

 長州の山県狂介((山縣有朋)と薩摩の黒田了介(黒田清隆)が率いる北陸道軍は、京都所司代桑名藩を鯨波の戦い(鯨波戦争)に破り、桑名藩領飛地の柏崎を占領した。
慈眼寺の会談を聞き、柏崎から急ぎ峠を越えて小千谷を目指した。しかし、和平を賭けた会談はすでに決裂していた。彼らが眼下に見たものは、轟き渡る砲声と村々の燃える煙だったに違いない。

 それより早く、東山道軍の岩村精一郎は越後三山方面から会津領に攻め入り、小出島、芋坂・雪峠の戦いを制して、破竹の勢いで会津藩預かりの天領小千谷に入った。柏崎市の金倉山から見ると、慈眼寺や会談決裂後の最初の戦場となった榎峠、朝日山は、浅草岳の手間方面、長岡城は粟ヶ岳のやや左方面に位置する。

 長岡城をめぐり落城、奪回、再落城と続いた激しい戦いの末、長岡勢は会津を最後の戦場に決める。会津は守門岳の左山すそから山の後ろをまわり、守門岳うしろの難所八十里越の向こうである。八十里越の鞍掛峠では追撃する新政府軍を、殿軍(しんがり)をつとめる若き大隊長山本帯刀が一歩も通さない。

 北越の地で釘付けとなった山県と黒田が、目的地の会津に入った時には、すでに会津との戦いの勝敗は決していた。薩摩、土佐を中心とした新政府軍に会津が降伏する姿を複雑な想いで見守るしかなかった。
金倉山から後ろの日本海側を見ると、長州毛利家先祖の地「佐橋の庄(佐橋荘)」北条(きたじょう)、南条、安田条はすぐ下に、そして勝海舟先祖の出身地である長鳥(ながとり)は北側に見下ろせる。信越本線が通り、「長鳥」、「北条」、「安田」の駅名が続く。

 戊辰戦争から約140年が経過したが、会津と長州の怨念は消えない。長岡市や小千谷市が毎年のように両者の話し合いの場と提供しているが、まだ和解するまでには至っていない。
山県狂介率いる奇兵隊などの長州の主力部隊は、北越で足踏みしており、会津の攻防戦には間に合わなかったはずである。
もし長岡藩の参戦がなかったら、長州の会津に対する報復で、それこそ悲惨極まりない修羅場となったことだろう。
会津参戦に遅れたことが、和解の鍵になってくれと願うばかりである。会津がいまも許せないと思っているのは、戊辰戦争そのものでなく、戦争後に権力を握った長州がとった会津への徹底した報復ではないかと感じる。
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