長岡藩本陣の光福寺
長岡市摂田屋にある光福寺は、長岡藩の本陣が置かれた寺である。 5月2日、慈眼寺での会談が決裂した。継之助は再度の面会を求めて山門に立ち、同行した二見虎三郎に諸藩を通じて取り持ちを頼んだが、全て徒労に終わった。。それでも諦めきれない継之助は、虎三郎から諸藩へ依頼し、その回答を信濃川のほとりにある旅籠野七で待った。 さらに従者松蔵をつれ、深夜に新政府軍の陣地を訪れた。 翌5月3日、本陣に戻った継之助は、前島に駐屯している川島(三島)億二郎を訪ねた。新政府の要求であった3万両と、継之助の首を新政府軍に届けるように頼んだ。人望厚く非戦派の億二郎は、継之助の要請を聞かず、生死を共にすることを誓った。 ただちに長岡藩の諸隊長を本陣の光福寺に集め開戦を告げた。そして長岡藩は奥羽列藩同盟に入る。朝敵でない長岡藩が遂にたった知らせは、北越の地に轟いた。 昨日まで北越の地で苦戦を続けていた会津藩、桑名藩そして幕府衝鋒隊を長岡藩領に迎え入れ、幕府兵は歓喜をもって集まってきた。 5月5日、光福寺の長岡藩兵は整列して、この友軍を迎えたのである。直ちに同盟軍は軍議を開き、藩境にある榎峠の奪取に動いた。 光福寺は凄惨な北越戦争の始まりを告げる寺である |
長岡藩本陣が置かれた光福寺 (長岡市摂田屋) |
長岡藩本陣の碑 (長岡市摂田屋) |
光福寺入口 (長岡市摂田屋) |
『戊辰戦争長岡藩本陣』 幕末の風雲は、長岡藩に嵐となって襲ってきた。 慶応4年(1868)5月3日夕刻、長岡藩の諸隊長は、本陣の光福寺に集合した。軍事総督河井継之助は新政府軍に対し、開戦の決意を諸隊長に演説した。 小千谷会談の決裂ののち、「我藩の面目を保ち、藩公に殉じよう」と熱誠を弁じ、新政府軍の無法に抵抗した継之助の無念が偲ばれる。 昭和62年(1987)建立 長岡市 |
もどる |