司馬遼太郎の慈眼寺と榎峠

 司馬遼太郎は「峠」の取材活動で小千谷市を訪ねている。慈眼寺を訪れたのは昭和40年8月のことである。
 河井継之助の風姿を知らんがために慈眼寺に来る 山ねの蝉声をききつつ 
     昭和四十年八月  司馬遼太郎

と書き残した。
「峠」にはこうある。不思議なことに1年の開きがある。
 昭和39年の夏だったが、筆者はにわかにこの寺を訪れたくなり、小千谷へ行った。真昼というのにせまい街路には人通りがまれで、道を聞くのにこまるほどであった。やっと老人を見つけた。老人は法事の帰りといった風体で、絽の羽織をつけ、麦わらの固い帽子をかぶっていた。
慈眼寺はどこですか、ときくとだまってうなづいてついてきてくれた。「長岡から継之助がやってきたというのも、こうゆう暑い日だったらしい」と老人は突如いった。 司馬遼太郎「峠」より


 榎峠も崩壊した旧国道17号線の復興で山肌が大きく削り落とされている。司馬遼太郎が「峠」に描いた険しい峠ではなくなりつつある。

 先日、高校の同級生が榎峠の貴重な写真を提供してくれた。子供のころ家族と小出島から長岡の新政府軍が上陸した長岡の中島まで、川下りをした時に撮ったものという。
切り立った崖に水穴があり、吸い込まれるような恐ろしさで近づけなかったという。

削り取られる榎峠 司馬遼太郎が描いた榎峠
(画像クリックで拡大)

 古い写真の奥が妙見で、ここから榎峠に上る坂がある。

 出発にあたり継之助は「一挙に奪(と)れ」と命じた。〜中略〜(敵はあれだけの要地を軽視している)と思った。〜中略〜 十日町を発し、六日市、妙見を経て榎峠の坂をのぼった。坂の右手は信濃川に落ち込む断崖である。 司馬遼太郎「峠」より

 昭和34年に撮影された榎峠は、継之助の時代の峠とほぼ同じであろう。自らを青い龍と呼んだ継之助が、小千谷を去るとき対岸の三仏生の新政府軍に見せた、北越の野に放たれた虎を連想させる厳しい峠である。
そして司馬遼太郎が「峠」で描いたのも、この榎峠と思われる。

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