長岡開府400年(後編)

式典会場のシティホールプラザ内では、第3部「長岡から全国で活躍する若者の祭典」がつづいていたが、外の様子も気になり建物からでてみた。
100年前の長岡開府300年祭は大正6年(1917)に開催され、まだ娯楽の少ない時代のこと、各所での様々な催しで大勢の観客でにぎわったと記録にはある。
今回は観客が少ないのでは心配したが、アオーレ入口から長岡駅までの大手通りは人でいっぱいであった。
アオーレの入口 ぎわう大手通り、向こうは長岡駅
大手通りの一角では高校生による演奏 長岡で発掘された火炎土器の複製
御三階の模型も登場 長岡城跡の石碑が建つ二の丸跡

「常在戦場」の手拭いを買う
「常在戦場」は参州牛久保の壁書の最初にある言葉で、長岡武士が命よりも大切にしてきた。
式典会場のシティホールプラザがあるアオーレ長岡は長岡城の二の丸跡である。
アオーレ長岡以前は宝田石油本社、公会堂そして厚生会館と姿を変えてきた。管理人が高校生のころは厚生会館で何度も試合をした思い出がある。
数年前に厚生会館を取り壊し、アオーレ長岡建設で長岡城の数多くの出土品があった。それでも発掘はほんの一部で、戊申北越戦争で焼け落ちた長岡城の遺構は今も地下に数多く眠っている。
ひときわ人が集まっているのは、高校生による「書道パフォーマンス」である。
アオーレ長岡建設に伴う出土品 大手通り再開発に伴う出土品
市内高校生の書道パフォーマンス この高校が選んだ文字は「希望」

長岡市の山古志地区と小千谷市は錦鯉の産地である。
金魚のような大衆性はないが、近年は海外からは錦鯉の美しさは大きく賞賛されている。
錦鯉よりも知名度のあるのは長岡の酒である。各種の集まりでは乾杯は条例により日本酒で行うのを制定した徹底ぶりである。
多く並んだ酒蔵のブースから管理人も2銘柄を飲んだ。一つはかって牧野家が造り酒屋だった銘柄「柏露(はくろ)」を引き継いだ柏露酒造の、開府400年限定酒「牧野家」、そして実家の近くの朝日酒造の「久保田万寿」である。
限定酒「牧野家」のポスターの右端に衣冠束帯姿の牧野忠昌氏が見える。
    錦鯉も長岡の伝統
泳ぐ宝石とも言われる錦鯉 中には1台に評価が付く逸品もある
中越の中でも長岡は酒どころ かって造り酒屋だった牧野家

かって日本三大銘菓と呼ばれた菓子は、金沢「森八」の「長生殿」、松江「風流堂」の「山川」そして長岡「大和屋」の「越乃雪」である。今回は牧野家の三つ柏紋が入った越乃雪が店頭に並んでいた。
    日本三大銘菓「越乃雪」
伝統を受け継ぐ「越乃雪」 越乃雪「牧野家」バージョンも

別の会場では茶道宗へん流によるお茶が振る舞われていたが、時間が重なり参加できなかった。
茶道には流が500を越えるほどがあると言われるが、よく知られたのが3千家である。すなわち表千家と裏千家そして武者小路千家で、 利休の孫、宗旦から生まれた流派である。
長岡では9代藩主牧野忠精公が宗へん流の奥義を究めたことから藩士や町人に広がり、現代でも盛んな流派である。
    長岡藩主・牧野家と茶道宗へん流

長岡は開府400年であるが、千年の歴史を持つものが長岡にはある。国指定重要文化財の山古志の「牛の角突き」で開府400年に馳せ参じた。
「牛の角突き」の歴史は古く、一説には千年と言われるが正確な記録がない。江戸時代の文豪滝沢馬琴の「南総里見八犬伝」に登場する。

さていよいよこの日の行事を締めくくるトリの蹴鞠である。江戸時代の牧野家では大名同士の婚姻が多かったが、明治以降は公家との婚姻も増えてきた。
高倉家や飛鳥井家などである。
高倉家は古文書や装束の家柄であるが、装束は衣紋道として山科家と双璧である。先年の伊勢神宮の遷都では、牧野忠昌様は長期に渡り伊勢に出かけ着付けの指導をした。
開府400年でもこの3月に古式ゆかしき「束帯」と「十二単」の着付けを披露した。
来年は改元であるが、また忙しい日々を過ごされることだろう。

一方の飛鳥井家は和歌と蹴鞠の師範を家業とした家である。飛鳥井家と難波家の二つがあったが、現在ではほとんど飛鳥井家流である。
開府400年を記念して、京都から蹴鞠保存会のみなさんが長岡にやってきた。
国指定重要文化財の山古志の牛の角突き 勝負を付けないのが牛の角突き
蹴鞠をご覧になる牧野忠昌様 平安の雅にふさわしい蹴鞠

   長岡の歴史を簡単な文章で紹介した「長岡城ものがたり」

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