保科正之が残した会津藩の家訓

 長岡藩には「常在戦場の四文字」に始まる「牛久保の壁書」が存在する。
家中にもめごとが起こった時は、参州牛久保以来伝わってきた壁書が全てを解決してくれた。
三根山藩から贈られた米百俵の処分をめぐり争いが起きたときも、その日の米を求めた藩士に対し、小林虎三郎は「常在戦場」の掛け軸を取り出し、藩士をいさめ学校建設という解決案をだした。

 同じように会津藩には藩祖保科正之が残した15条からなる家訓(かきん)が存在する。藩士は城中で年に3回この家訓を拝聴することを慣わしにしたという。
その第1条が、「大君の義、一心大切に忠勤を存すべく、列国の例を以て自ら処るべからず、若し二心を懐かば、則ち我が子孫にあらず、面々決して従うべからず」とある。大君は徳川将軍家で、列国とは他藩のことである。
すなわち「将軍家に対する忠勤は、他藩の例をもって満足してはならない。もし二心を懐けば我が子孫ではないから、家臣は主君に従ってはならない」ということである。

 会津藩主松平容保は美濃高須藩から養子に入り、それだけに家訓に忠実になろうとしていたが、政治総裁職の福井藩主松平春嶽と将軍後見職の一橋慶喜は、家訓の第1条を持ち出して京都守護職受諾を巧みに衝いてきた。

 山川浩の「京都守護職始末」には、「会津藩には家訓があるそうな、小生泣いて申し上げる。台徳院様(将軍秀忠)、土津公(はにつこう:保科正之公)がご存命であれば、必ずや京都守護職を受けられたであろう」と書かれている。春嶽は藩祖正之の神号まで持ち出し、会津藩の心の中にまで入り込んだのである。
ついに、「もはや議論無用、宗家に殉ずるのみ」と火中の栗を拾う決心をして、幕末の困難な京都守護職に就いた。

 その時は、やがて最後の将軍となる慶喜からは江戸城登城停止となり、官軍(新政府軍)に変心した福井藩からは賊軍(幕府軍)と呼ばれ、戦死者の埋葬も許さない非道を受けようとは夢にも思わなかった。
会津藩家訓
 15条の家訓から
1.法を犯す者は許すべからず
1.主を重んじ、法をおそるべし
1.賄賂を行い、媚を求めてはならない
1.えこひいきをしてはならない     
などは現代にも通じるものである。

 家訓の中で注目を引くのは、3条と4条に登場する
1.兄を敬い、弟を愛すべし
1.婦人女子の言、一切聞くべからず   
であろうか。

 藩祖正之は慶長16年(1611)、2代将軍秀忠と側室の間に生まれている。しかし秀忠との間には生涯父子の名乗りはなかったという。秀忠の正室は織田信長の妹であるお市の方の三女お江与である。お江与は秀忠よりも八歳も年上で気性の激しい女性と伝わっている。
3代将軍の座をめぐっては、お江与の推す忠長との争いがあり、春日局の計らいで大御所家康が裁定し家光に決定された経緯がある。

 祝福されない運命にあったご落胤は、信州高遠藩の保科正光の養子となり正之を名乗ったが、いつもお江与の追求の手が迫るのか恐れていたのか。
異母兄の3代将軍家光と対面し、破格の取立てを受けるのはその後のことである。
兄同志が演じた将軍の座をめぐってのかっとうを見てきた正之が、会津藩の家訓に残した将軍家への忠誠心、兄弟愛の大切さ、そして女性への恐れは自身の誕生秘話からくるものだろうか。
保科正之の父徳川秀忠(東京:増上寺) 秀忠の正室お江与(増上寺)
三代将軍家光の乳母春日局(九段下) 家光の正室孝子(伝通院)
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