栃尾の静御前の墓

 11月20日夜、NHKの大河ドラマ「義経」の結び「義経紀行」で、栃尾の伝説が全国に紹介された。長岡市の中心部で源平時代の伝説はあまり聞かないが、市の周りの山間部にはいろいろ残っている。
その中でも、栃尾にある静御前の墓と、それを守った那須与一の伝説はかなり知られている。義経紀行では、佐藤継信、忠信兄弟の母乙和御前にゆかりのある小貫の羽黒神社の伝説も紹介していた。

 今年、小貫(こつなぎ)の地名は、阪神タイガース優勝により阪神電鉄の創業者外山脩造の出身地として注目され、今回また義経伝説の地として知られることとなった。

 
 義経と静は女人禁制の吉野山で別れた。そのあと静は頼朝の追っ手に捕らえられて、鎌倉に送られる。

   吉野山 峰の白雪踏み分けて 入りにし人のあとぞ恋しき
   しずやしず しずのおだまきくりかえし 昔を今に なすよしもがな


 静は母磯の禅尼と鎌倉から京に戻ったと伝わっているが、その後は伝説の世界である。
栃尾に伝わる伝説では、静は義経を追って平泉を目指してこの地にきた。鎌倉の警戒が厳しい関東をさけ、越後から八十里越を通り会津に抜けようとした。この峠を越えれば奥州藤原氏の土地である。静は八十里越を目の前にして、栃堀で力つきたという。

 静が越えたかった八十里越は、その約7百年後、負傷した河井継之助が越えたくなかった峠である。



  静の供をしてきた侍女は、墓に近い栃堀に庵を建て菩提を弔った。その寺が高徳寺と言われている。現存する墓は、後年静の墓の存在を知ることになった北条氏が建替えたと伝わっている。付近には見られない宝篋(ほうきょう)印塔の歴史を物語る立派な墓である。

静御前の墓の近くの岡に、那須与一が墓を守ってきたと伝わる古城跡がある。屋島での与一の活躍は多くの人が知っている。しかしその後の話は伝わっていない。一説によれば、義経を陥れたのと同じ梶原景時の讒言にあい、左遷されて栃尾に来たとされている。付近には那須姓を名乗るものもいるという。

 NHKの「義経」では、弁慶と並んで、佐藤継信、忠信兄弟の活躍が注目された。屋島の戦いで義経の身代わりに兄継信が戦死し、京都では弟忠信が平泉行きを助けて討ち死にしている。息子を思う母の乙和御前は、二人を弔うため妙照尼という尼になった。ある夜、羽黒権現が現れ、「越後に霊場あり。その地に至りて国土を守り、諸人の願望を満たしめよ」とお告げがあった。この地が小貫であるという。小貫にやってきた妙照尼は羽黒神社を建立したという。

 上杉謙信と伝説の町栃尾の名前が、1ヵ月後(2006年1月1日長岡市に合併)に消える。長岡に戻ってきた喜びとともに、言い表せない寂しさがある。

(義経伝説、詳しくは栃尾市のホームページで)
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