飯寺に散った若き大隊長山本帯刀

 慶応4年(1868)の戊辰北越戦争で長岡藩随一の勇者といえば、24歳の若き大隊長の山本帯刀(たてわき)である。開戦の榎峠の戦いから常に先陣にあり、今町の戦い、八丁沖の戦いでも、河井継之助の前にはいつも帯刀がいた。継之助が負傷してからの会津への転進では、今度は一転して最も危険な八十里越の鞍掛峠で殿軍(しんがり)を務め、8月6日から約20日間、多くの同盟軍兵士や藩士の家族そして領民を守り抜いた。

 帯刀は常在戦場を旗印とする長岡藩の武門の象徴である家老の山本家を継ぎ、幼くして神童と言われ、あらゆる武術に優れていた。
継之助の改革を率先垂範して実行し、もし帯刀がいなかったら継之助の名声は後世には残らなかったと思われる。

 「大隊長の山本帯刀は、譜代家老で、齢はまだ数えて二十四でしかない。少年のころから継之助を尊敬し、長ずるとほとんど門人のようになった。好学のひとで気性がいかにもすずやかであり、それに名門の当主であるために一軍の隊将としてはきわめて適格とされていた。」(司馬遼太郎「峠」より)

 新政府軍が会津城下に入った知らせが入り、城下に急ぎ8月27日には鶴ヶ城の西側の柳津で新政府軍と戦う。会津城下に入ってからの山本部隊は、新政府軍が充満するなかで、常に死と隣り合わせの遊撃隊となった。
慶応4年(1868)9月8日、その日は濃霧の中を同盟軍と示し合わせて、会津城下の南にあたる飯寺村(にいでらむら)の新政府軍を攻撃した。長岡城の奪回戦でも異なる藩による同盟軍の連携は難しいものがあったが、ここでも連携の拙さが露呈することになる。
飯寺方向に突撃した山本隊は濃霧の中で敵陣に孤立することになる。敵味方の判らぬ状態では攻撃することもできず、次々に銃撃された。山本隊は壊滅し、大隊長山本帯刀をはじめ三十余名が生け捕りにされた。
会津の本光寺の墓地にある越後長岡藩士殉節の碑

 山本帯刀の捕縛の知らせは越後口総督府にもたらされた。北越戦争の実質的な責任者でありながら長岡で足止めを食った山県狂介の本営はまだ越後の新発田城にあり、やっと先鋒隊が会津に入った段階であった。
慈眼寺の会談にも岩村精一郎とともに会談に参加した薩摩藩の淵辺直右衛門を含む3人の軍監は、帯刀の人物を惜しみ助命のために降伏せよと迫ったが、「藩主われに戦いを命ぜしも、未だ降伏を命ぜず」とがんとして降伏を拒否した。

 帯刀をはじめ長岡藩士の斬首が決まり、藩主そして長岡の方向に別れを告げ、粛々と異郷の地に散っていった。
くしくも慶応から明治に改元された9月8日のできごとである。

 帯刀の家僕の渡辺豹吉は越後から主人と行動を共にしてきた。豹吉は主人の死を見届け、遺骸を埋めてから死を賜りたいと懇願し、新政府軍の責任者も忠孝に免じこれを許したという。
戦争責任を負わされ、ここに三河以来の武門の名門山本家は途絶えることになる。

 鶴ヶ城の北東に建福寺という寺がある。信州高遠藩主保科家の菩提寺の一つで、初代保科正之公に従って高遠から移ってきた。長岡藩主が会津で滞在した寺であり、継之助は只見の塩沢で亡くなり、荼毘にふされて後この建福寺に運ばれた。鶴ヶ城では戦争中にもかかわらず会津藩主松平容保公が臨席し、盛大な葬儀が執り行われたという。
継之助が仮埋葬された墓は、新政府軍の目を避けたのか、建福寺から少し登った山中にある。
飯寺の本光寺 長岡藩士の墓入口 長岡藩士殉節の碑
長岡藩主が滞在した建福寺 継之助の墓地は少し登る 河井継之助君埋骨遺跡

 藩主牧野家のたっての願いで山本家が復活するのは大正5年(1916)のことである。継いだのは高野五十六(後の山本五十六元帥)であった。会津で尊敬する養父を失い、会津藩士の娘を妻にした五十六にとっては、この地は第二のふるさとであろう。

 また渡辺豹吉の弟は、15歳で北越戦争に従軍し、後にオーストリアに渡り法律を学び、帰国して帝国憲法、皇室典範の制定に尽力し、行政裁判所評定官、貴族院議員になった渡辺廉吉である。

 長岡の悠久山に山本帯刀の碑がある。山田方谷の弟子三島中州(毅)の撰文に「順逆は一時のみ、その成敗はいうに足らんや。帯刀の死は長岡武士の心意気。これを百代に伝えて、長岡藩の士風を表する」とある。
悠久山の山本帯刀碑(長岡市) 招魂社の河井・山本の両雄 山本家菩提寺の長興寺(長岡市)
 
 「山本帯刀・渡辺廉吉の碑」
 山本帯刀は、長岡藩士安田家に生まれ、長岡藩家老山本家の名跡を嗣いだ。幼い頃から読書を好み、号を竹塘と称した。
 剛毅英邁・槍刀弓馬いずれも練達の武士であった。戊辰の役においては河井継之助にしたがい、常に先陣をつとめ、また殿軍の大隊長として奮戦した。
 会津飯寺で濃霧により判断を誤り西軍に捕らえられたが降伏を拒み、家臣渡辺豹吉とともに斬首された。
時に明治元年9月9日、帯刀24歳、豹吉27歳であった。
 篆額は榎本武揚、撰文は三島中州である。
 渡辺廉吉は、豹吉の弟で苦学ののち外務省書記から累進して行政裁判所評定官となり、貴族院議員に勅選されてその職を辞するまでの法理の研究に努め、大正14年2月14日歿した。享年72歳。
 篆額は徳川家達公爵・撰文牧野忠篤・碑陰は長岡出身の鋳造家田中後次である。
                         
                               長岡市教育委員会

 「山本家の墓」
 長岡藩家老職山本家は、武田信玄の軍師山本勘助の血脈。代々藩主牧野氏に仕え、治政、文政に尽した。
 特に老迂齋精義は、名家老と賞賛され、歴代の藩主を50年にわたってよく助けた。幕末帯刀義路は、北越戊辰戦争で大隊長として奮戦。会津飯寺で痛恨の死を遂げた。
 山本五十六元帥は、旧長岡藩士高野家から山本家を継いだ。はやくから航空機の重要性を説き、連合艦隊指令長官として、近代戦を指揮したが、昭和18年4月18日、南冥に散華した。

                                長岡市教育委員会

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