河井継之助終焉の地
司馬遼太郎「峠」にでてくる河井継之助のクライマックスシーンは2箇所ある。 それは小千谷の慈眼寺会談のシーンと、かれの終焉の地となった只見での最後のシーンであろう。 幕末の激動の時代でなかったら、時代が彼の登場を求めなかったら、彼も百余石取りの平凡な藩士で終わったことだろう。そして長岡の城下町は、北越戦争も太平洋戦争の空襲にも遭遇しなかった。 いまの長岡駅の場所には、堀に囲まれた長岡城の御三階がそびえ、城から西に城下町が連なり、信濃川の近くの中島に長岡駅があったことだろうと想像してしまう。 河井継之助の逃避行、「吉ヶ平から八十里越へ」の後半部分である。 8月4日、継之助は会津の国境にある木の根峠で一泊し、ふたたび担架は八十里越の険路を進む。翌日、叶津番所を通り、目明し清吉の家に入った。 |
八十里越の叶津番所 |
8月5日、会津領只見村に入ったが、継之助の容態がいよいよ悪化したため、ここでしばらく滞在することになった。この宿所で、松蔵は思い切って継之助に懇願した。 「奥様から」と、泣きながらこの男はいう。 かねて松蔵は継之助の妻おすがから、「旦那様の身に万一のことがあれば御遺髪は持ちかえるように」と命ぜられていた。〜中略〜 継之助は、落城以来、はじめて笑った。「よう見定めて剪りゃい」といった。 (司馬遼太郎「峠」より) |
継之助終焉の地はダムの中 |
「寅や」と、外山脩造にいったのも、そのときであった。 「このいくさがおわれば、さっさと商人になりゃい。長岡のような狭い所に住まず、汽船に乗って世界中をまわりゃい。武士はもう、おれが死ねば最後よ」 継之助の担架はさらに会津若松にむかい、8月12日、同藩領塩沢村に入り、同村の医家矢沢氏の屋敷を宿舎とした。ここがかれの地上における最後の場所になった。 (司馬遼太郎「峠」より) |
矢沢家の終焉の間を河井継之助記念館に移設 |
継之助が只見に入った知らせは長岡藩主、会津藩主に届いた。そして鶴ヶ城に滞在していた幕府の名医松本良順を只見に派遣させた。 継之助も良順の訪問をことのほか喜び、「久しぶりに豪傑の顔をみた」と終始上機嫌であった。 藩公の世子のフランス亡命、長岡藩が今後とる道を細かく指示した。13日、14日も終日談笑し、まわりもわずかな望みをつないだ。 しかし、継之助は松蔵を呼び、かってない優しさで礼を言った。 「ながなが、ありがたかったでや」松蔵はおどろき平伏した。 「いますぐ、棺の支度をせよ。焼くための薪を積みあげよ」と命じた。 松蔵はおどろき、泣きながら希みはお待ちくだされとわめいたが、継之助はいつものこの男にもどり、するどく一喝した。 「主命である。おれがここで見ている」 松蔵はやむなくこの矢沢家の庭さきを借り、継之助の監視のもとに棺をつくらざるをえなくなった。 松蔵は作業する足もとで、明かりのための火を燃やしている。薪にしめりけをふくんでいるのか、闇に重い煙がしらじらとあがり、風はなかった。 「松蔵、火を熾(さか)んにせよ」と、継之助は一度だけ、声をもらした。そのあと目を据え、やがて自分を焼くであろう闇の中の火を見つめつづけた。 夜半、風がおこった。 8月16日午後8時、死去。 (司馬遼太郎「峠」より) |
木の根峠から叶津へ | 八十里越 | もうすぐ叶津 |
叶津番所の上段の間 | 叶津番所の中 | 叶津番所の屋根裏 |
河井継之助記念館 | 医王寺 | 医王寺の河井継之助墓 |
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