吉ヶ平から八十里越へ

 7月25日、長岡軍は八丁沖から新政府軍を奇襲し長岡城を奪回した。しかしこの戦闘で軍事総督河井継之助が左膝下に被弾し、戦線から離脱してしまった。担架に乗せられた継之助は昌福寺、見附、文納、葎谷を経由し、吉ヶ平に入った。ここから先が会津への険路、八十里越である。
継之助の担架は八十里越を越えてゆく。継之助は敗戦を嘆き、我が姿を自嘲した。
 八十里 こしぬけ武士の 越す峠

 このときはじめて咆えた。「置いてゆけ」頼むからおれを戦場に置いてゆけ、という。きかずに担架をすすめた。担架は松蔵がつくったもので、ちょうどベットに屋根をつけ、棒を渡して大型の辻駕籠のようにしつらえたものであった。底には戦利品の毛布(ケット)をたっぷり敷いて、衝撃を緩和するようにしてある。
見附へゆき、そこから東方の烏帽子山をのぞみつつ幾日もかかって山村を通過してゆく。8月3日吉ヶ平に着いた。このさきは会津へ越える国境の八十里越である。
置いてゆけ。と、ここでも激しくむずかった。   (司馬遼太郎「峠」より)

継之助を乗せた担架は守門川を渡る
旧下田村(現三条市)の吉ヶ平は、昭和45年過疎化により集団移転し、現在は無人の集落になった。吉ヶ平小学校を改造した吉ヶ平山荘があるだけで、道端には草に埋れては墓石などの石の建造物が昔の集落の名残をとどめている。
また中越地震前の集中豪雨により街道はいたるところで寸断されている。

 守門川にかかる橋を渡り、「馬場跡」、「詞場」を過ぎると、いよいよ八十里越の急な坂道である。しばらく進むとはるか前方に番屋山が見え、吉ヶ平から約2時間半で標高735mの「椿尾根」の標識に到着する。

眼下に建設中の八十里越の新道と清水
 椿尾根から約2時間で「番屋乗越」に着く。吉ヶ平6.7km標高895mと標識にはある。
街道からはるか下に建設中の国道289号線の新道が見えて、かなり高い所を歩いていることが実感できる。
吉ヶ平から8km、鞍掛峠へ6.1km「火薬跡」の標識に出会う。
あたりはブナ林が多くなり、沢沿いに清水が流れ、「ブナ沢」と呼ばれている所である。
小川の少し上に、平地になった一角があり「空堀小屋跡」の標識が建っている。少し進むと「空堀」標高763m、吉ヶ平から11.4km、鞍掛峠へ2.7kmの標識がある。
番屋乗越から空堀は道も悪く約3時間半である。

烏帽子岳と田代平が見えてくる
 遠くに烏帽子岳が見え絶景である。越後の山ともお別れが近づいてきた。
空堀から約2時間で標高965mの「鞍掛峠」に着く。
30分ほど進むと「小松横手」で、このあたりからは前方が開け、山すそを通る平坦な道になり「田代平」が遠くに見える。
鞍掛峠から約2時間で標高845m「木の根峠」に着く。木の根峠の標識にならんで「木の根茶屋跡」、「県境八十里越」の標識がある。木の根茶屋は継之助が山中で一泊した小屋で、これから先は会津となるが、まだ長い八十里越の中間点である。
馬場跡 椿尾根 番屋乗越
火薬跡 空堀小屋跡 鞍掛峠
小松横手 田代平 木の根峠

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