甲子園にあった外山脩造の銅像

「財界にいがた」の2010年10月号に、興味あるというか驚くべき記事が載っていた。泉田裕彦新潟県知事、小林勝喜関西新潟県人会会長、高澤敏夫アサヒビール新潟支店長の鼎談、「関西経済界の礎を築いた越後人“外山脩造の凛とした生き様に学ぶ”」の記事の中に、阪神甲子園球場前にかって外山脩造の巨大な銅像があったというのである。
阪神電鉄の初代社長は外山脩造であるが、脩造が河井継之助に従っていたころの名前は寅太であり、こんなことからタイガースの虎は、初代社長の名前から取ったと、期待を込めて主張してきた(阪神タイガース生みの親「外山脩造」)が、甲子園球場前に銅像が現われるに至っては、もはや疑いのないところであろう。
しかし残念なことに、銅像は太平洋戦争で供出されたというのである。
小林関西県人会会長に、貴重な写真のご提供と、かって外山脩造の銅像があった場所を教えていただいた。

鼎談で熱く外山脩造を語る 新装なった阪神甲子園球場、右上が銅像があった所

阪神甲子園球場を背にする外山脩造の巨大な銅像
小林勝喜氏提供(画像使用厳禁)

この鼎談は、アサヒビールの創業120周年で、設立者の一人である外山脩造の功績が改めて見直され、脩造を生んだ新潟県ということで県知事、そして関西の県人会会長が鼎談を開いたようである。
ここ数年、関西の財界を牽引した外山脩造が見直されている。テレビで取り上げられたり、栃尾小貫の脩造が建てた生家の見学なども盛んのようである。

「タイガースの名は寅太から・・・「財界にいがた」

「寅や」
と、外山脩造にいったのも、そのときであった。
「このいくさがおわれば、さっさと商人になりゃい。長岡のような狭い所に住まず、汽船に乗って世界中をまわりゃい。武士はおれが死ねば最後よ」
継之助の担架はさらに会津若松にむかい、8月12日、同藩領塩沢村に入り、同村の医家矢沢氏の屋敷を宿所とした。
ここがかれの地上における最後の場所になった。
(司馬遼太郎「峠」より)

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