阪神タイガース生みの親『外山脩造』

 阪神タイガースが快進撃を続けている。今年は阪神電鉄の創業100周年、阪神タイガースの誕生70周年、そして神戸震災10周年の節目の年である。このまま最後まで突っ走って欲しいものだ。

 明治38年(1905)4月12日に阪神電鉄の一番電車が走った。このとき阪神電鉄初代社長の外山脩造は、創設の無理がたたって病気になり、自宅で祝賀の花火の音を聞いていた。「寅や、頑張ったね」、どこかで恩師である河井継之助の声が聞こえたような気がした。

 和平をかけた小千谷の慈眼寺での会談が決裂し、継之助は最新鋭の兵器で武装した長岡軍を指揮し、圧倒的な数の新政府軍と対等に戦った。いったん落城した長岡城を、八丁沖の奇襲で奪い返した。しかしこの戦いの中で、継之助は外山寅太(脩造)の目の前で左膝に流れ弾を受けた。

 偉大な指揮官を失った長岡軍の義の戦いもここまでであった。担架に乗せられ長岡城から野戦病院の昌福寺へ、そして栃尾、吉ヶ平から八十里越の険しい道を通り会津領只見に着いた。

 死を悟った継之助は、従者松蔵に自分を焼く棺を作らせ、枕元に寅太を呼んだ。「寅や、もう武士の時代は終わる。これからは商人の時代がくる。推挙状を書いておいたので、慶応義塾の福沢諭吉に学んで、お前は立派な商人になれ。」と遺言した。
阪神タイガース 朝日麦酒 脩造のふるさと
栃尾の謙信公
脩造の心の中に生き
続けた継之助

 外山脩造と名前を改め、慶応義塾で学んだ脩造は、日本銀行経由で大阪の財界に入り、多くの企業の設立に貢献した。阪神電鉄、朝日麦酒、大阪ガスなどはその中でも代表的な会社である。三ツ矢サイダー(今は朝日麦酒に吸収)は継之助が創ったといううわさを聞くことがある。では阪神タイガースはどうなのか。

 阪神タイガースの誕生は、阪神電鉄創立の30年後の昭和10年(1935)である。チームのニックネームは阪神電鉄の社内公募により、阪神工業地帯とよく似た工業都市であるデトロイトをフランチャイズとする、デトロイト・タイガースからとったとされている。でも選考の過程で、偉大な初代阪神電鉄社長の寅太の「虎」が応募者と選考委員の頭をよぎったと思う。

  慈眼寺の会談が成功しておれば、継之助は日本の企業の歴史に名を残したはずである。
大正5年(1916)、継之助の分身である脩造は74歳で人生を閉じる。このとき脩造の中に生き続けた継之助はすでに89歳になっていた。

 −追記−
   2011年2月、甲子園球場の前に、かって外山脩造の巨大な銅像があったことがわかった。
     甲子園にあった外山脩造の銅像
脩造が最初に学んだ
清河八郎の墓
(東京・小石川)
八郎墓がある伝通院。
近藤、土方等浪士はここ
に集合し京都に向かった
徳川家康の母・於大の墓
(伝通院は於大のこと
千姫と家光正室孝子の
墓もある(伝通院)
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