薩摩藩邸焼討ちと勝・西郷会見の地


JR田町駅の構内から、地上におりるエスカレータの脇に、巨大な壁画がある。通勤客で振り向く人はいないが、歴史好きには見落せない「西郷南州・勝海舟会見の図」の壁画である。江戸城無血開城の舞台はこの田町にある。

左が西郷隆盛、右が勝海舟、右の上方に咸臨丸が見える

三田の地には長く勤めたが、今は芝という地名であるが、新住居表示になる前は三田四国町であった。四国の阿波徳島藩(蜂須賀松平家)、土佐高知藩(山内家)讃岐高松藩(松平家)、伊予松山藩(久松松平家)が住んでいたことで、四国町と教えられたが、松平阿波(蜂須賀家)は確認できるが、大半を占めているのは薩摩であり、水野左近(監物)は出羽山形藩である。今では4つの国の屋敷があったので、四国町と命名されたと思っている。なお、水野監物は赤穂浪士の幕府の沙汰を待つために、お預けになった藩邸の一つで、藩邸のあった慶応仲通りの一角に赤穂浪士に因む灯籠がある。この時の水野家は岡崎藩で、熊本藩細川家と同じように、浪士の扱いが丁寧だったといわれる。その一方、時代が下り浜松藩の水野忠邦の時代に天保の改革の失政、三方お国替失敗で、住民から石を投げられたという藩邸でもある。
薩摩藩は最初は桜田に上屋敷があったが、手狭になったことで三田に上屋敷を構えるようになった。その他に高輪に中屋敷、渋谷に下屋敷、白金に抱屋敷などがある。また三田の海岸沿いには蔵屋敷もあった。
左下の薩州が上屋敷、上の中央が蔵屋敷

薩摩藩の屋敷で幕末に登場するのは、三田の上屋敷と蔵屋敷である。地図の上では上屋敷は左下、蔵屋敷は現在の田町駅を含む海岸にあった。鳥羽伏見の戦いの原因になる薩摩藩邸焼き討ちは、この上屋敷に対し、江戸を警備していた庄内藩を中心に行われた。主力は庄内藩であるが、幕府のお雇い武官のフンスのブリューネや上之山藩や鯖江藩なども参加している。
焼き討ちで江戸を荒らしまわった浪士はかなり討ち取られたが、逃げた浪士は蔵屋敷の裏から薩摩の軍艦で逃げ去った。
一方、勝海舟と西郷隆盛の会見は、上屋敷が前年の焼き討ちで焼かれていたので、蔵屋敷が使われた。床の間を背に座る勝海舟、左には刀が置かれている。この図だけでも西郷隆盛の大きさがわかる。
小千谷の慈眼寺では、上座を背に踏ん反り返る岩村精一郎、下座でひれ伏す河井継之助、この構図から決裂は火を見るよりも明らかである。
左下の隅に会見の碑、建物は三菱自動車 左に西郷隆盛、床の間を背に勝海舟
薩摩藩蔵屋敷、両雄会見の地
薩摩藩上屋敷はセレステインホテルからNECの一帯

薩摩藩上屋敷はセレステインホテルからNECの一帯である。NECは明治30年代からこの地にあり、関東大震災で多くの犠牲者を出したことから、当時としては珍しい4階建のどんな地震にも耐えるビルを建てた。太平洋戦争でも延焼することなく、焼け野原に堂々と立っていた。新しい高層ビルに作り直す時、敷地の一部を開放し、その一角に薩摩屋敷跡の碑を建てた。
NECの敷地内に薩摩屋敷跡の碑 中央にロケット形のNECビルが見える

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