戊辰を演出した薩摩藩

 関が原で敵中を中央突破した薩摩藩は、幕末でも西国の雄藩としてその名を残す。ある時は会津と手を結び、ある時は宿敵長州と手を結び、したたかに激動の維新を乗り切った。

関が原の敵中
突破が原点
島津家の特徴はその武士団の強さにある。豊臣秀吉とも闘い、その軍門には下ったが領土は安堵された。朝鮮の役でも圧倒的に多い朝鮮軍、明軍を打ち破った。

関が原の戦いでは、乱戦の中を敵陣の中央突破で脱出した。千五百人のうち生還したのは八十人という。
毛利家が百十二万石から三十六万九千石に削られたが、島津は六十万五千石を安堵された。
関が原の中央突破が、その後の勇敢な薩摩武士道の原点である。
公武合体派の
薩摩藩
島津斉彬は開明的な藩主で、国を強くするには事業を起こし、外国と貿易することだと考えていた。反射炉、溶鉱炉などの軍儒関連だけでなく、陶磁器、薩摩切子などのような工芸品にも力を入れていた。
鎖国よりも開国が日本の進む道であると信じ、攘夷など全く考えなかった。
公武合体論者でもあり、孝明天皇を援助し、十三代将軍徳川家定には篤姫を嫁がせた。

斉彬は名君だったので後継者争いを心配し、自分の弟久光の子供忠義に継がせることを考え、これを養子にした。久光は忠義の後見人となったが、保守的な性格の人物だった。

文久2年(1862)8月、生麦村で久光の行列を横切った英国人4人を殺傷した。この生麦事件で英国の賠償要求を拒否し、薩英戦争となる。互いの実力を認め合った両者は和解し、また最強の英国艦隊を追い払ったことで、攘夷派である孝明天皇からの評価は上がった。
この時点では久光はまだ公武合体論者であり、会津と薩会同盟を結び、文久3年(1863)、八月十八日の変で長州藩と長州系の攘夷派公卿7人の京から追放した。
維新最大の功労
者西郷隆盛
西郷隆盛は文政10年(1827)薩摩藩士の家に生まれる。才能を斉彬に見出された。
安政の大獄で追われた勤皇僧月照を助け、ともに錦江湾に身を投げ、月照は死んだが隆盛は息を吹き返した。しかし、罪をとがめられ奄美大島に流罪となる。

元治1年(1864)、許された隆盛は京にのぼり、公武合体論者の中心として、禁門の変を起こした長州を京から追求した。
その後、勝海舟と面会した隆盛は、欧米の侵略を許さなくするには、雄藩が連合し新政府を作ることが必要だと知る。そして土佐の坂本龍馬の仲介により、薩長間で密約を交わし、第二次長州征伐を前にした長州藩に対し英国の最新武器を送った。

幕府は薩摩藩にも長州追討の命を下したが、薩摩は動かず、これが幕府軍の大敗北につながった。

朝廷工作は大久保利通に担当させ、王制復古の動きを加速させ、隆盛は雄藩連合の拡大を工作する。安政の大獄で失脚した福井藩松平春嶽、土佐藩山内容堂、宇和島藩伊達宗城を京に集め、雄藩が連合することに成功する。

江戸では益満休之助を中心に、放火や強盗を働き、幕府に挑発行為を続けた。ここで江戸市中見廻りの任務にあった庄内藩は、ついに薩摩藩邸焼き討ちを決意する。

隆盛は維新最大の功労者であるが、戊辰戦争の終結をまたずに薩摩に帰る。戊辰戦争後、大久保利通の要請により、一時新政府に復帰するが、策士の利通と袂をわかつこととなり、明治10年(1877)西南戦争において51歳で自刃する。上野公園の西郷像を思い浮かべるが、写真は1枚も残ってないという。
維新最大の功労者西郷
隆盛(上野公園)
西郷隆盛・勝海舟の会談で江戸城は無血開城。会談の
あった薩摩藩邸跡の会見記念碑(東京・田町駅前)
幕府は勝海舟
(墨田区役所)

幕府軍の総崩れ
と倒幕軍は東へ
薩摩の挑発にのった幕府軍は、鳥羽伏見で戦闘の火蓋を切った。近代的兵器を持った討幕軍に対し、戦国時代以来の刀と槍の幕府軍では勝敗は闘う前から決していた。
淀藩と津藩の寝返りにより、幕府軍は総崩れとなり、西国諸藩と紀州藩が朝廷方へ傾いた。

陣頭に立つと宣言した慶喜は、その夜のうちに大坂城を脱出し、戦場には君主のいなくなった幕府軍が残されたのである。
いよいよ、錦の御旗を先頭に、朝敵成敗の薩長軍が東に向かう。

河井継之助は長岡藩邸の資産を売却し、多量の最新式銃を購入する。
その中に慈眼寺会談の後ろ盾となる秘密兵器ガトリング砲が含まれていた。
慈眼寺会談が決裂し、北越戦争に突入。多くの薩長兵士が眠る船岡公園
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