山本有三の米百俵誕生秘話

 「米百俵」の故事が全国的に知られるようになったのは、昭和18年(1943)山本有三の戯曲「米百俵」の発表によるものである。1月に「主婦之友」に掲載され、6月には東京劇場で上演され、同じ月に新潮社から出版された。長岡を周辺とする地域的にしか知られていなかった故事が、一躍全国に知られることになった。おりしも太平洋戦争は悪化の一途をたどり、4月には山本五十六連合艦隊司令長官がソロモン諸島の空に散った。こんな時代背景の中に山本有三の「米百俵」は、偶然誕生したいきさつがある。

 この当時、有三は「真実一路」、「路傍の石」などで、国民的な作家になっていたが、ここで成城高校(旧制)教授の星野慎一と運命的に出会うことになる。星野は米百俵で設立された旧制長岡中学(長岡高校)から東京大学文学部独文科をでた新進気鋭のドイツ文学者であった。有三も同じ独文科をでており、昭和14年に同窓のよしみもあって、「真実一路」をドイツ語に翻訳することから知り合った。おりしも太平洋戦争の開戦前夜で、有三は日独伊三国同盟に反対した海軍次官の山本五十六(当時は大将)を尊敬していた。星野にとっても五十六は長岡中学の最も尊敬できる先輩であり、二人は意気投合することになる。

 星野は五十六を生んだ郷里の偉人として河井継之助と小林虎三郎を熱く語り、五十六が尊敬して止まない河井継之助の執筆を有三に勧めた。有三は戦争に踏み切った継之助よりも、戦争に反対し食えないから学校を建てたという虎三郎に関心を示した。
「真実一路」が取り持った縁で、有三の「米百俵」が誕生することになるのである。

 有三は、戊辰戦争で敗れた越後の小藩から、きら星のように人材を送り出す長岡の秘密に迫ろうとした。有三の現地調査により、語られてきた「米百俵」の逸話はすべてが事実に裏づけされたもので、隠れた先覚者小林虎三郎の実像を知ることになった。
「真実一路」、三国同盟に反対した山本五十六、星野との独文科の同窓のいずれが欠けても、「米百俵」の誕生はありえない。

 「米百俵」誕生秘話を生んだ武蔵野
小林虎三郎 山本有三記念館
(三鷹市)
星野慎一や安倍総理ゆかりの
成蹊大学(武蔵野市)

 昭和17年、有三はラジオ放送(東京放送)で、「隠れた先覚者小林虎三郎」の講演を行った。昭和18年に出版された山本有三の「米百俵」(新潮社)は、前半部分は二幕の戯曲であるが、後半は有三の調べ上げた学術論文と言っても良い。
はしがきには
「米をつくれ。」「船をつくれ。」「飛行機をつくれ。」と、人々は大声で叫んでおります。もちろん、今日の日本においては、これらのものに最も力をつくさなければならないことは、いうまでもない話であります。しかし、それにも劣らず大事なことは、「人物をつくれ。」という声ではありますまいか。長い戦いを戦いぬくためには、日本が本当に大東亜の指導者になるためには、これをゆるがせにしたら、ゆゆしき大事と信じます。
(中略)
ここまで書いてきた時に、はからずも、山本元帥の壮烈な戦死の知らせを耳にして、私は言葉が出ませんでした。きょう、このいたましい放送を聞いて、かしらを垂れなかった日本国民は、ただのひとりもいないと信じます。私は元帥のお名まえをこの本のなかになん回となく引用させていただいているだけに、ひとしお胸を打たれました。英霊に対したてまつり、ここに限りなき敬慕と哀悼のまことをささげます。
  昭和18年5月21日                      山本有三

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