牧野家のふるさと(今橋城とその周辺)


牧野城から瀬木城、一色城に勢力を拡大した牧野古白(成時)は、次の拠点として豊川の南に進出した。この地は交通の要所でありその後激しい争奪戦が続くことになる。

豊川周辺図(クリックで拡大

今橋城(のちの吉田城)

豊川を背に防御性の高い吉田城

永久2年(1505)に古白は今橋城30(のちの吉田城)を築いて城主となった。豊川が南に大きく蛇行する所に防御性の高い城で、交通の要所でもあり、その後激しい争奪戦が繰り広げられ、皮肉にも古白は天正3年(1506)にこの城の争奪戦で討死することになる。対岸には城の争奪戦で討死した牧野一族の塚がある。
じつはこの塚を探すのに1時間はかかった。ガイドマップでは豊川が蛇行する河原に書かれている。そかし実際は土手の道路より内側にあたのである。河原は公園になっており、遊ぶ少年に聞いてもわからない。旅から帰って気付いたのであるが、画像の塚の背後に民家が写っていた。後の祭りで、苦労した思い出にガイドマップの画像を借用した。
江戸時代からは三河吉田藩の城となり、短期間で多くの大名が入れ替わって統治した。笠間牧野家でも牧野成春が下総関宿から入り2代後に日向延岡に移った。この城下町が現在の豊橋市である。
今橋城の跡地はいまは豊橋公園になっているが、発掘などで古白の時代の遺構がでてきているとのことである。

吉田城の説明

城の背後は豊かな豊川の流れ 1時間は探した吉田城主牧野一族の塚
吉田城の大手の石垣 この位置に櫓が立つのは江戸時代から
城の塀を思わせる吉田城の説明 今橋城の遺構は豊橋公園の地下に眠る


聖眼寺(しょうげんじ)

聖眼寺の入口の葵の紋

吉田城の対岸にある聖眼寺35は、牧野成定が酒井忠次に従って吉田城を攻める時に、戦勝祈願の扇子を2本献上した。そのうちの1本が徳川家康に譲られ、家康はこの扇子を馬印にしたという伝説が残っている。(家康の馬印には諸説がある)
境内の本堂左に松葉塚と芭蕉句碑が建つ。句は「こを焼て手拭あぶる寒さ哉」。貞享4年(1687)、芭蕉はこの地に立ち寄って詠んだ句と伝わる。「こ(ご)」は松の枯れ落ち葉のことらしい。
寒さで手拭まで凍ったんですね。

聖眼寺本堂 こを焼て 手拭あぶる 寒さ哉(芭蕉)

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