江戸の長岡藩邸めぐり


 司馬遼太郎の「峠」に、江戸の長岡藩邸がたびたび登場する。幕末の江戸切絵図には、西ノ丸下に上屋敷、愛宕下に中屋敷、渋谷と深川に下屋敷が牧野備前守の名前で載っている。その屋敷跡は現在どうなっているのか、「峠」の記述とともに歩いてみる。

 最初に登場する藩邸は、河井継之助が暮れの大雪の中を長岡を発って、正月に江戸に入る場面に登場する。安政5年(1858)、継之助は33歳の誕生日を目前にした旅立ちであった。

「道中で年が明け、江戸についたときは正月の六日になっていた。すぐ西ノ丸下の藩邸にあいさつにゆくと、江戸家老の牧野頼母が、『まるで親のかたきでも追ってきたようだ』」と、越後の大雪を知っているだけに、それを踏破してきたこの男のいこじさにあきれてしまった。」(司馬遼太郎「峠」より)

 ここはまさに江戸城の一角(イ)の位置で、皇居正門や二重橋に近い皇居外苑の中である。先日の紀宮さまの結婚式で、二重橋の鉄橋から石橋(しゃっきょう)を通って車が出てきた所だ。
ここに約8400坪の広さの屋敷を拝領していた。
先々代の忠精が老中を務めていた文政11年(1828)の絵図には、なんと東京駅丸の内中央口から北口にかけて(ロ)の位置に、約7100坪の屋敷を拝領していた。
「峠」の後半では呉服橋藩邸になっているので、西ノ丸下から呉服橋門内に動いたのだろうか。呉服橋も東京駅の東側から永代通りにかけて(ハ)の一帯で、広さは約4000坪である。
 河井継之助はこの上屋敷で、十一代藩主牧野忠恭に拝謁し、「弓矢を守るは藩を失う、これからは砲と軍艦を整えるのが急務だ」と述べた。九代忠精、十代忠雅に続いて、忠恭は将来老中が約束される英才の藩主であるが、継之助の言葉の意味するところを、その時は理解できなかった。

 長岡藩上屋敷

上屋敷は江戸城の一角、幕末には上屋敷は数度移動している

 江戸には全国の大名の屋敷がある。大名の妻子は江戸に常住し、大名は参勤交代で江戸と国元の領地に交互に住んだ。大名は上屋敷、中屋敷、下屋敷、抱え屋敷などのいくつもの屋敷を持っていた。
上屋敷は大名の拝領した屋敷で当主が居住した。幕府の役職により屋敷が移動することも多い。特に老中などの重職にあった牧野家では、短期間に何度も上屋敷が動いている。
中屋敷は大名の隠居や世子の住居である。そして下屋敷は大名の別邸である。

 江戸では将軍直属の旗本六千人、御家人一万七千人が、それぞれの屋敷を持っていたので、江戸の土地の70%は武家地で、寺社地が14%、江戸の人口の半分を占める50万の町人は、わずか16%の土地に住んでいたことになる。

この中に上屋敷があった。現在の皇居は西ノ丸にある

左手前が西ノ丸下、その奥が西ノ丸、右に本丸が見える。
右端の5層の天守閣は幕末にはない


 安政6年(イ)  忠恭の時代
幕末
 北:大名家
 東:大名家
 南:大名家
 西:(表門側)西ノ丸大手御門
 広さ:約8400坪
現在
 北:皇居外苑
 東:皇居外苑
 南:皇居外苑
 西:
皇居正門と二重橋
北側:皇居外苑と左は東御苑の木立
西側:皇居正門と二重橋、手前が
石橋奥が鉄橋、遠くに伏見櫓
西ノ丸下上屋敷跡は現在は皇居
外苑、この内堀通りも屋敷の中
東側:皇居外苑と東京駅方向のビル
南側:皇居外苑と霞ヶ関方向のビル


 慶応4年(ハ)  忠訓の時代
「継之助は御服橋藩邸にいる。そうしたある日、江戸の会津藩邸から使いの者がきて、あす、大槌屋にて会合をひらきたい。ぜひ貴藩代表のご参加をのぞむ。との旨の回状ががもたらされてきた。継之助がひらくと、文章のはげしさは類がない。薩長は奸賊である。」  (司馬遼太郎「峠」より)

 戊辰戦争が始まったこの時点では、長岡藩は呉服橋の上屋敷に移っている。前年に忠恭が隠居し、藩主は忠訓に代わっていたが、まだ江戸城の外堀の内側にいたことになる。
会合の開かれる大槌屋では、備中松山で知り合い、会津藩で最も親しい関係にあった秋月悌次郎に会うことになる。この翌朝、藩主忠訓はおそらく戻ることのない上屋敷をあとにして長岡に発った。

 継之助は上屋敷に、小諸、三根山、笠間、田辺の支藩と別れの宴を開くため使いを出した。

「花については、梛野にもくろみがあった。この藩邸の北隣りが伝奏屋敷になっている。伝奏とは京の公卿の役職で、幕府との接触を主要任務とする。」  (司馬遼太郎「峠」より)

義兄の梛野嘉兵衛が、藩邸の北隣の伝奏屋敷に、生花の桜の枝を貰いに行くから、位置からするとこの時の上屋敷は(ロ)だったのかも知れない。

幕末
 北:道三堀
 東:(表門側)呉服橋御門
 南:大名家
 西:大名家
 広さ:約4000坪
現在
 北:交通公社ビル方面
 東:朝日生命ビル方面
 南:八重洲1丁目ビル方面
 西:東京駅の日本橋口
北側:交通公社ビルと中央は永代通り
西側:東京駅日本橋口 上屋敷は東京駅から永代通りの一帯 東側:朝日生命ビル
南側:八重洲1丁目のビルが並ぶ


 文政11年(ロ)  忠精の時代
幕末
 北:大名家
 東:大名家
 南:大名家
 西:(表門側)大名家
 広さ:約7100坪
現在
 北:新丸ノ内ビル方面
 東:丸ノ内センタービル方面
 南:東京駅ホーム
 西:東京中央郵便局方面
北側:新丸ノ内ビル
西側:中央の5階建の低い
建物が東京中央郵便局
上屋敷は東京駅前広場から丸の内
北口、東海道線ホームの一帯まで
東側:丸ノ内センタービル、
右は東京駅丸の内北口
南側:東海道線ホームから見た
上越新幹線スーパーマックス


 上屋敷付近
桜田二重櫓 桜田門 皇居外苑の楠木正成公
伝奏屋敷跡はビル建設中 呉服橋跡は見落としそう 呉服橋跡説明文の一部

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