江戸の長岡藩邸めぐり 長岡藩下屋敷
 長岡藩下屋敷
 長岡藩下屋敷は、渋谷と深川の2ヶ所にあった。

「藩の演習場は渋谷にある。そこまで出かけてゆく。それぞれ弁当が用意されていた。小者がそれを一同にくばると、『冗談じゃない』と、一同がさわぎだした。武士たる者が駆けだしの大工のように弁当を腰にぶらさげて街をあるけるか、ということであった。」(司馬遼太郎「峠」より)


 渋谷区東3丁目の広尾小学校から、広尾2丁目にかけた(イ)の一帯に、約7100坪の長岡藩下屋敷があった。当時は周りを畑と広大な敷地の寺に囲まれていたので、格好の演習場になった。調練の総大将は山本帯刀で、まだ24歳ながら譜代家老の当主であった。継之助はこの名門の若い当主をこよなく愛し、帯刀も継之助を慕い、日常の行動規範にしていた。

下屋敷の敷地(イ)には区立広尾小学校、区立広尾幼稚園などが入っている


幕末
 北:伯太藩渡辺家中屋敷
 東:東北寺
 南:(表門側)畑と表門通路
 西:宝泉寺
 広さ:約7100坪
現在
 北:都立広尾高校
 東:民家と東北寺
 南:マンション
 西:民家と宝泉寺
北側:都立広尾高校と駒沢通り
西側:民家を挟んで宝泉寺が現存 敷地の大半は広尾小学校 東側:民家を挟んで東北寺が現存
南側:高層マンションが乱立


 広尾小学校周辺
学校は関東大震災復興事業の貴重な
コンクリート造りの建造物
玄関に文化庁登録の
有形文化財の表示
広尾小学校前の歩道橋

「『相撲の両国に留守居させよう』ということであった。どの大名でも、捨て扶持をあたえていわばお抱えにしている力士というものがいる。長岡藩の場合、越後出身の両国がそうであった。」 (司馬遼太郎「峠」より)
「深川の藩邸は、霊巌寺のそばにある。すでに相撲の両国関に番をさせていた。が、別にひとつ、あずかり屋敷がある。」(司馬遼太郎「峠」より)


 江東区平野1丁目の清澄庭園と浄心寺に挟まれた(ロ)の一帯に、約2600坪の下屋敷があった。
六代両国梶之助は、長岡藩領の小国町小栗山の出身である。慶応2年に上屋敷の河井継之助を訪ね、晴れて長岡藩のお抱え力士になった。番付の長岡の文字と、継之助に贈られた梯子をデザインした化粧回しは、長岡の敗戦とともに消えた。
159cm、83kgで関脇まで昇進した両国は、引退後に人に語ったという。「あんな優しい人、あんなに人を魅きつける人にはあったことがない」と。

 支藩の田辺藩牧野家は、すでに江戸を払っていたので、近くにある深川の中屋敷を長岡藩があずかっていた。墨田川に面した萬年橋の南の一帯で、一同ここに集合して、30艘の船で川を下り、品川沖でスネルの船に乗り換え海路帰国した。



幕末
 北:霊巌寺などの門前町
 東:浄心寺
 南:旗本秋田家屋敷
 西:関宿藩久世家下屋敷
 広さ:約2600坪
現在
 北:民家と寺を挟み霊巌寺
 東:民家と浄心寺
 南:民家とマンション
 西:民家を挟み都立清澄庭園


清澄庭園は紀ノ国屋文左衛門、久世家を経て三菱・岩崎家に渡った
北側:民家を挟み霊巌寺、寺は寛政改革の白河藩主松平定信の菩提寺
西側:関宿藩久世家の下屋敷跡の
清澄庭園は東京都の名勝指定1号
民家とマンション 東側:民家を挟み浄心寺
南側:民家とマンション


 清澄庭園周辺

 霊巌寺周辺

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