長州に初代長岡市長の碑が

 初代長岡市長牧野忠篤は、貴族院議員のかたわら長く蚕糸会の要職にあった。46歳(大正5年、1916)から65歳で亡くなる直前まで、大日本蚕糸会の会頭、副会頭、輸出の委員など、当時輸出の花形であった日本の生糸業界を文字通り牽引してきた。
この下関に、戊辰戦争で戦った長岡藩の牧野忠恭の子、そして忠訓の弟にあたる忠篤の蚕種渡来地(さんしゅとらいち)記念碑がある。戊辰戦争から間もない頃に、高さ6.3m、重さ37トンの巨大な記念碑が、敵地の下関あるとはにわかに信じがたい話である。

 下関に忌宮神社(いみのみやじんじゃ)という由緒ある社がある。古事記・日本書紀によれば、第14代仲哀(ちゅうすい)天皇が熊襲(くまそ)を成敗するために、この地に仮の皇居である「豊浦宮(とようらみや)」を建て7年間住んだという。
また仲哀天皇といえば、牧野家の元祖である武内宿禰(たけのうちのすくね)が仕えて功績があった天皇である。仲哀天皇は九州で急死するが、后の神功皇后(じんぐうこうごう)は、その後武内宿禰とともに朝鮮に出陣し、新羅、百済、高句麗を平定した。

 今から約1800年前に、秦の始皇帝の子孫が来朝帰化し、豊浦宮に住んでいた仲哀天皇に蚕種(さんしゅ:カイコの卵)を伝えたのが、日本の養蚕の始まりとされている。
幕末から昭和まで、日本の近代化を支えてきた生糸は、輸出が最も盛んだった昭和8年(1933)、この地に蚕種渡来地の記念碑が建てられた。世界の生糸4万5千トンの7割をわが国が生産したというから、生糸は日本の近代化に大きく貢献したことになる。

 碑には大日本蚕糸会会頭正三位勲三等子爵牧野忠篤題字とある。
記念碑の除幕式で忠篤は、境内にある祖武内宿禰が植えたと伝えられている「宿禰の銀杏」と対面したのだろうか。
忌宮神社
神社左手にある大きな碑

下の碑文に牧野忠篤の名がある 蚕種渡来之地
(蚕の旧字)
長岡駅東口の北側に隣接している観昭神社の忠篤の字体と酷似

会津・北越戦争における新潟港の戦略的重要性については、同盟軍および新政府軍とも当初から考えていた。一時、榎本艦隊が新潟港を封鎖し、新政府軍の補給路を断つ約束があったと記録にはある。
慶応4年には数多くの最新式武器を、同盟軍は新潟港から陸揚げした。

 では武器の資金をどうやって調達したのでろう。この答えが蚕種なのである。
戊辰戦争の前年の蚕種の輸出高は約30万両、現在の金額に換算すると百数十億円になり、エンフィールド銃だと約2万丁購入できる。このように東北地方の蚕種は、日本最大の輸出品であった。

 武内宿禰については、数年前に面白い体験をした。近鉄のバス旅行に参加し山陰の旅をしたが、鳥取の近くの国府町(現鳥取市)の宇倍神社(うべじんじゃ)が観光コースに組み込まれており、「たけうち」姓(武内、竹内など)の乗客に記念品が贈られていた。
この町は因幡の国府が置かれたところで、宇倍神社は因幡一ノ宮ともいわれ、終戦までは由緒ある国幣中社(宮内庁からささげられた社格)を名乗っていた。祭神はこの地で亡くなった武内宿禰である。
 宇倍神社は明治32年(1899)に、全国の神社で初めて祭神の肖像と社殿が5円紙幣の図柄となったことでも知られている。大正、昭和でも5円、1円紙幣の図柄にたびたび登場する。
また仲哀天皇の后の神功皇后は、本格的な肖像入り紙幣として、明治14年の1円紙幣に登場し、かつ紙幣に載った最初の女性である。また一説には神功皇后は邪馬台国の卑弥呼と同一人とも言われている。

 武内宿禰はわが国で初めて太政大臣になった人で、五代の天皇に仕え350歳???の長寿だったという。従って宇倍神社は長寿、金運、立身出世などで参詣者が絶えない。この神社の麒麟獅子舞は県の無形民族文化財になっている。

宇部神社 紙幣 武内宿禰 神功皇后 麒麟獅子

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