山本勘助系図と長岡
2007年のNHKの大河ドラマは「風林火山」で、人気の高い戦国時代を背景にしたことと、俳優陣の豪華さもありかなりの視聴率のようだ。 長岡藩を知るものには主人公の山本勘助は、戊辰戦争の長岡藩大隊長の山本帯刀や太平洋戦争の山本五十六元帥の祖先であると思いながら、上杉謙信と同様に長岡にゆかりのある人物としてドラマを見ている。 しかしながら山本勘助が架空の人物と思われた時代が長く、長岡にゆかりを持つ者でも長岡と勘助の結び付けに苦労する。 勘助の実在否定の根拠としては、江戸時代に書かれた「甲陽軍鑑」以外に納得できる文献が少ないことと、勘助が武田晴信(信玄)から貰った「晴幸」の「晴」の文字が、晴信自身が元服の時に将軍足利義晴から一字を賜ったもので、それを臣下に与えることがないことなどの理由により、歴史の上では架空の人物説が根強かった。 ずいぶん前のことになるが、昭和44年のNHK大河ドラマは「天と地」であった。大河ドラマそのものの娯楽性が高かったことと、若き日の石坂浩二が上杉謙信、高橋幸治が武田信玄を演じ人気があった。 この年に今まで否定されてきた勘助の実在を示す文書が発見された。それは北海道から発見された「市河文書」である。 この文書は弘治3年(1557)第三回川中島合戦の最中に、武田晴信(信玄)が信濃国境地帯の豪族市河藤若あてに出した感謝状で、長尾景虎(上杉謙信)を撃退した感謝の言葉と、その末尾に「猶可有山本菅助口上候」(山本菅助(勘助)が口上で伝える)と書かれていた。 市河家は武田家の滅亡後は、上杉景勝に仕え、景勝とともに会津そして米沢へ移る。そして明治以降の市河家の子孫は北海道に移り住んだという。 |
どこも風林火山ブーム | 牛久保の長谷寺 | 山本勘助の墓(長谷寺) | ||
今川義元公墓所(大聖寺) | 牛久保の古図(光輝庵) | 大林勘助屋敷跡 | ||
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井上靖原作の「風林火山」では、勘助は駿河国山本村(現富士宮市)で生まれ、父は山本貞幸、兄は藤七(貞久)で三河国牛窪(牛久保)の牧野家家臣の大林勘左衛門の養子になり、諸国を修行し牛久保(現
豊川市)に戻ったが、大林家ではその間に男子が生まれ、勘助は大林家から去ったとなっている。 武田家の軍師として知られる勘助の誕生地には諸説があり、上記の駿河説や三河の賀茂(現豊橋市)説、牛久保説などである。 しかし、一時、大林勘左衛門の養子になった点では不思議と一致する。 |
系図の上から勘助を追ってみよう。 NHKは「駿河山本村生誕説」にほぼ準じている。父を貞幸、兄を藤七(貞久)としている。 長岡藩山本家との関係も、今まで明確にはしていない。 NHKが山本村生誕説でドラマを放映したことに対し、三河賀茂説を信じてきた豊橋市賀茂町から抗議があったという。 NHKは番組の後で賀茂町生誕説を紹介をすることで切り抜けたようだ。 地理的に近い賀茂町と牛久保町との間では、余り生誕地に関しては異論がないように思われる。 賀茂町の山本家の菩提寺の本願寺や牛久保町の長谷寺の説明文には、賀茂町で生まれ、牛久保の大林家の養子になったとある。 賀茂町の生誕地の説明文には更に詳しく書かれている。 |
【武田の軍師 山本勘助晴幸生誕の地】 「山本勘助の先祖は清和天皇の後裔、新羅三郎義光の三世山本遠江守義貞から出たといわれています。 家は代々駿河国富士郡に住み、山本伝次郎幸綱になった時、三河国八名郡賀茂荘の二千五百石を与えられ、賀茂の照山に住み着きました。 この人が山本家第一代で、現在本願寺に墓があります。第二代が山本帯刀といい、前記を領して賀茂神社の神官をしていました。 第三代が山本藤七郎光行といい鶴巻に住むようになりました。 この人には三人の男の子があり、長男を清七、次男を清助、三男を源助といいました。この源助が勘助の幼名です。 山本勘助は、明応9年(西暦1500年)8月15日にこの地で生まれました。(木陰の草より)」 |
賀茂町の生誕地 | 賀茂町の本願寺 | 勘助の先祖が眠る墓 | |
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賀茂町の説明文は、三河・賀茂生誕説(1)の系図とほぼ符合する。 次に三河・賀茂生誕説(1)と、蒼柴神社に伝わる「諸士由緒記」を参考に作成した系図が三河・賀茂生誕説(2)である。 山本五十六が継いだ長岡藩初代山本勘右衛門家は、山本勘助同家、山本帯刀左衛門成行実孫と出てくる。そして帯刀左衛門成行の兄が山本勘助と伝わるのである。 牛久保町には牛久保城牧野家の菩提寺である光輝庵があり、牛久保城古図が伝わる。 古図には牛久保時代の主だった家臣が30数名載っており、山本姓は山本帯刀、山本勘右衛門、山本市左衛門、山本三蔵などが読み取れる。山本勘助養父大林勘左衛門も載っている。 このことは勘助がくる以前から牛久保には山本一族が住み着いていたことを物語っているようだ。 そして長岡藩のルーツの牛久保で、山本家と大林家が極めて近い関係にあったであろうことをうかがわせる。 山本家は、帯刀(帯刀左衛門)、勘右衛門を代々名乗っているので、古図に出る名前は誰であろうか。 また古図に見える長岡藩の古い家臣である稲垣、野瀬(能勢)、真木(槙)などが牛久保から大胡(現前橋市)へ、そして長岡に移ってきたが、大林家はどこに消えたのかは謎として残った。(勘右衛門成政、四郎兵衛などは長岡藩の記録に残されているが、大林が記録から見えてこないのは、大胡へ移らずに牛久保へ残ったと見るのが妥当であろうか) そして上記の生誕地に加え、近江生誕説、四国生誕説を検証するには、市河文書に匹敵する新文書の発見が待たれる。 |
長岡市の中央図書館文書資料館に、注目すべき文書がある。永禄8年(1565)の山本系譜で山本成行の異母兄に勘助の存在を記述している。勘助は永禄4年(1561)の第4回川中島の合戦で亡くなるので、そのわずか4年後の文書となる。 |
長岡市中央図書館の文書 |
山本勘助襟掛本尊「摩利支天像」 山本勘助は25歳の時、高野山で武芸上達を祈願し、この像を授けられ、以来襟に掛けて守り本尊とした。 武田信玄に仕えた勘助は、合戦に出陣し戦場で討ち死にして本像が人手に渡ることを憂い、親しい長谷寺の念宗和尚に託した。 永禄4年(1561)の川中島の戦いで戦死した知らせを聞き、和尚は託されていた遺髪を納めた五輪塔を建立した。 摩利支天像は5.5センチで豊川市の文化財に指定されている。 |
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摩利支天像 |
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