外山寅太と大崎彦助

 河井継之助を師とも学友とも慕うふたりの若い男がいた。一人は外山(とやま)寅太、もう一人は大崎彦助である。ふたりとも栃尾の庄屋の息子で、継之助の信頼も厚く、波乱の道を歩む継之助を支えてきた。 
只見で継之助の臨終に立ち会ったが、その後の二人の人生は対照的なものであった。
外山 寅太
(外山脩造)
 天保13年(1842)栃尾組小貫村(こつなぎむら)の庄屋の長男として誕生。継之助の15歳年下である。幼くして英才の誉れが高く、16歳で江戸の清川八郎の塾に入門した。
遊学から帰った寅太は、家業の造り酒屋の用事で長岡に行った時に、継之助と運命的に出会い、当時外様吟味役の継之助に師事することになった。
遊学した継之助を追って江戸に出た寅太は、難関である幕府の昌平黌に合格する。その後、郷里に帰った寅太は、藩の重役になった継之助の改革を助ける。

 慶応4年(1868)軍事総督となった継之助は、小千谷の慈眼寺で西軍と和平に向けて会談したが決裂、長岡城の攻防戦となり重傷を負う。
継之助は只見で臨終の今際に枕元に寅太を呼び、商人になって世界を駆け巡る自分の夢を託した。

 その後外山脩造と名を改め、福沢諭吉の慶応義塾で学び、大蔵省、日本銀行経由で大阪の財界に入った。
先進国の状況をよく調査し、銀行や数多くの企業の設立に貢献した。
阪神電鉄の初代社長や大阪麦酒(現朝日麦酒)、大阪舎密(現大阪ガス)の創設などは、寅太の残した代表的な業績である。
継之助の遺志を継ぎ、明治の時代を力いっぱい駆け抜けた寅太を、継之助はやさしく見守っていたに違いない。
大崎 彦助  天保7年(1836)栃尾組来伝村(らいでんむら)の割元庄屋の長男として誕生。母は名家である須原村(現魚沼市須原)の割元庄屋目黒家から嫁いだ。継之助の9歳年下である。11歳から継之助の姉(ふさ)の夫である、佐野与惣左衛門家に寄宿し勉学に励んだ。
継之助が江戸に遊学すると、それを追いかけて江戸にでるなど、継之助を慕う心が強かった。
割元見習いとして常に継之助のそばにあり、宮路村の事件や山中村(現・柏崎市高柳町山中)の騒動に同行している。30歳で割元庄屋となり継之助の改革を助けた。

 長岡城の攻防戦では新政府軍に囚われるが、長岡城の奪回で救い出される。その後、負傷した継之助に付き添い八十里越を只見に向かう。継之助は藩主の若君鋭橘公のフランス亡命を計画しており、彦助、外山寅太など同行5人の選考を終わっていたが、これは実現しなかった。
彦助は継之助の死後、遺骨を持ち会津、米沢、仙台を逃避行することになる。
すでに身柄は新政府軍に手配されており、彦助がこの後いっさいの役職に付かないことを条件に、来伝村に戻ることが許された。

 30歳そこそこで世に出れなくなった彦助は、かっての同僚外山寅太の活躍を聞いて、複雑な心境だったと思われる。明治28年(1895)59歳の一生を終えた。

タイガースは
デトロイトか、
寅太の虎か
造り酒屋の寅太が
創った朝日麦酒
(旧大阪麦酒)
山中村(現柏崎
市高柳町)
集落入口
山中村の騒動があっ
た庄屋徳兵衛宅
(家は建替)
彦助の母の実家
須原の目黒邸
(重要文化財)

 外山寅太が学んだ昌平黌(昌平坂学問所)
御茶ノ水の聖橋から旧昌平黌一帯 孔子を祀る湯島聖堂大成殿 古跡昌平坂の表示

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