新選組のふるさと多摩(W)−壷伊勢屋事件−

多摩の三郡のなかでも、八王子の歴史は古く、深みがあって面白い。今回は武田家の遺臣の大久保長安が築いた八王子宿(横山15宿)と幕末に八王子宿で起こった壷伊勢屋の事件に迫ろうと思う。
八王子宿の探索では大久保長安の武田家復興の隠された秘密を感じた。そして新選組の隠れたスポンサーである日野の名主佐藤彦五郎が、暴徒捕縛のために踏み込んだ壷伊勢屋事件が、明治26年4月1日の三多摩が神奈川県から東京に移管される事件の引き金になった。

 八王子宿でみた大久保長安の野望
高尾山の頂上で冬至の日に、富士山の山頂に夕日が沈むダイヤモンド富士が観察される。太陽の沈む位置と富士山の相対関係であるから、両者を結ぶ線上より北では冬至より早く、南では遅くなる。この線上では当然のことながら冬至の日になる。
多摩地区でダイヤモンド富士の見られる日を地図上に描いていたら、不思議なことに気付いた。冬至の線が甲州街道のイチョウ並木と一致したのである。甲州街道の追分で陣馬街道と分かれ、高尾まで直線でほぼ南西に伸びている。
追分に建っている道標では左甲州道中高尾道、右案下(あんげ)道になっている。高尾道のまっすぐ先には高尾山が見え、案外道の入口には千人同心屋敷跡の碑がある。

高尾山の山頂からの富士山 冬至に見られるダイヤモンド富士
八王子宿の前方に見えるのは連行峰 甲州街道の追分、車の左に案下道
左高尾道、右案下道の道標 八王子千人同心屋敷跡の碑
高尾道のまっすぐ先が高尾山 黄色は高尾道の銀杏

薬王院の伽藍配置図、奥に富士山が描かれている

八王子宿を設計したのは武田の遺臣で、徳川家康に抜擢された大久保長安である。八王子宿の甲州街道は東西に水平ではなく、やや西側が北に偏っている。そして追分から右の高尾道は高尾山薬王院に向かっている。

薬王院は正式には真言宗智山派有喜寺薬王院で、れっきとした寺であるが、明治初期の神仏分離を上手く乗り切り、神社の風格も感じる。山門から本堂があり、その奥は鳥居のある仁王門をくぐり飯綱権現を祀る本宮、そして長い石段の上に奥の院がある。一般にはここまでで良いのであるが、大久保長安を語るにはその更に奥にある浅間社が注目される。

追分から浅間社を結ぶ直線は、高尾山を通り富士山に向かっている。
では甲州街道のゆれは何であろうか。甲州街道の八王子宿を背に追分に立つと、まっすぐ前が連行峰である。厳密ではないが、地図をつなぎ合わせて八王子宿の街道の架空延長線は、武田滅亡の地の天目山を通り、躑躅が崎の館につながるのである。案下道も入口はこの線上にあるがすぐに北に少し振れる。現在は案下道の旧道は陣馬街道と一緒になっているが、追分からかの延長線は武田の霊峰大菩薩嶺を通るのである。

いま一度整理すると、追分で八王子宿を背にして立つと、左の案下道は高尾の浅間社を通り富士山へ、まっすぐ進めば天目山から躑躅が崎へ、右は大菩薩嶺を指しているのである。
大久保長安は追分の地で三方向に向かって何をいのったのであろうか。

薬王院本堂 飯綱権現堂
奥の院 浅間社
高尾山の頂上から富士山へ 八王子宿近辺の地図

謎を秘めた追分
追分の仮想線に何があるのか

武田家の猿楽師だった長安は、武田信玄に見出され鉱山開発に力を発揮した。武田の滅亡後は徳川家康に重宝され、関東の代官の統括、八王子千人同心の統括、そして全国の金山を統括するようになった。長安が失脚するのは彼の死後で、不正蓄財を疑われ、遺体を掘り起こされて首を切られ、家名断絶で7人の遺子も切腹となった。
追分の近くの信松院に信玄の娘の松姫を庇護し、追分で何を祈っていたのか興味が尽きない。

追分の近くの信松院 信松院の門前に立つ松姫
大久保石見守の陣屋跡 陣屋跡は今は産千代稲荷神社
躑躅が崎の館跡の武田神社 たなびく風林火山の軍旗

 なぜ三多摩は東京都なのか(壷伊勢屋事件)

三多摩が神奈川県から東京に移管されてのは、明治26年であるからもう120年も前のことである。
その移管の原因となった事件が八王子宿に眠っている。

慶応3年12月15日、何か赤穂浪士の討入を思わせる日の出来事であるが、韮山代官江川太郎左衛門の指示で、日野の名主佐藤彦五郎以下7名が八王子宿の旅館壷伊勢屋に投宿した暴徒を急襲した。
江戸を荒らし回っていた薩摩の浪人12人が、狼藉を働きながら江戸から西に移動し、八王子宿の壷伊勢屋に入ったのである。彦五郎などは暴徒の放つピストルにもめげず大半を捕縛した。この翌年、彦五郎は近藤勇らと甲陽鎮撫隊を結成して甲府に向かった。
暴徒の中心人物某が、裏の淺川沿いに逃げたことが、後年に多摩の運命を大きく変えることになった。

八王子宿で見つけた壷伊勢屋 昔と同じ場所の壷伊勢屋
佐藤彦五郎記念館 記念館入口
新撰組の落款と「京都近藤勇」 彦五郎の末裔の書いた本

佐藤彦五郎は近藤勇や土方歳三よりも強いと言われる剣客である。暗闇の中からピストルの閃光にもめげずに突進した。この時に使った刀が記念館に展示されているが、柄の部分に銃弾の跡が残っている。彦五郎の末裔が館長であるが、壷伊勢屋事件のことを聞くと、館内の年表に事件は書かれているが、質問を受けたのは初めてとのことである。

三多摩が神奈川県から東京都に移管されるのは明治26年(1893)であるが、移管の理由は玉川上水の水源確保である。この数年前には取水口上流でのコレラ騒動(誤報)があり、北多摩と西多摩の移管理由がもっともらしくなった。ここに登場するのが神奈川県知事某で、自由民権運動の対策に苦慮していたこともあり、南多摩を含む三多摩の移管が実現した。当時の知識層が多く住む三多摩の東京移管を積極的に進める不思議な出来事である。

県知事某は幕末から明治の業績が高く評価され、貴族に列席するのであるが、いくつかの本によれば、県知事某は壷伊勢屋から逃亡した暴徒某と同一人物というのである。命からがら逃げのびた南多摩は、一刻も早く手放したかったと言うことであろうか。
暴徒の中心人物は淺川沿いに逃げる 彦五郎の館は日野宿本陣

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