越の大橋と「峠」文学碑

 越の大橋(妙見堰)は平成2年に建設省(現国土交通省)とJRの共同事業として完成した。地元では、榎峠の脇を通っていた旧国道17号のバイパスとしての役割は良く知られている。しかし、信濃川の流量を調整することによる河床侵食の安定化、長岡市民の飲料水供給、福島江の農業用水確保、そしてJR小千谷発電所の流量調整により首都圏の朝夕ラッシュの緩和に貢献、などの多目的の堰であることはあまり知られていない。

 長岡市の妙見側には妙見記念館と広場があり、住民に開放されているので知る人も多いが、西詰めの小千谷市高梨の小さな公園に、司馬遼太郎の代表作「峠」文学碑があることを知る人は少ない。
7月30日の小千谷新聞に、文学碑建立の経緯が紹介されていた。

 (小千谷新聞より抜粋)
「越の大橋建設の付録的な存在として、西詰めに小公園を建設することになった。そして小公園に何か石碑でも建立することになったらしい。建設省の意を受けた小千谷市は、市にゆかりのある西脇順三郎文学碑を考え、文学に詳しい山本清氏に検討させた。氏は越の大橋西詰めの地が順三郎にゆかりがなく、むしろ河井継之助を描いた『峠』の舞台を望む場所だと指摘した。ならば氏に司馬遼太郎との交渉も全権委任することとした。

 全権委任されても、文学碑建立がメイン事業でないため予算が少なく、除幕式も謝礼もない状態で交渉に臨んだ。
電話には福田みどり夫人が応対し、『何もない』ことを話すと、『いいじゃないか、その話』と受話器から離れた所から遼太郎の声が聞こえてきた。
氏は礼を尽くし、改めて訪問して依頼したい旨を伝えると、『いい話だ。気に入った。あなたも忙しいだろうから、全て宅急便でやろう』との伝言が夫人から伝えられた。
(中略)
 司馬遼太郎の文学碑建立となれば、どこでも大々的な事業として取り組んでいる。それが当市ではドサクサまぎれの形でスンナリ了承を得て、オリジナルな書き下ろしの碑文を入手できた。
この奇跡とも言うべき幸運は何か。司馬遼太郎が河井継之助の生き様を最大限評価しており、その思いを込めた小説『峠』だったからであろう。

 文学碑の碑陰に刻まれている『峠のこと』の文章の中にそれは明らかである。継之助、長岡藩のことを誉めちぎっている。『武士の世の終焉にあたって、長岡藩ほどその最後を見事に表現しきった集団はいない』。『峠』文学碑は市民のまぎれもない宝である」


 復興に立ち向かう小千谷市民が、たくさん来館していた天然温泉「ちぢみの湯」で、ぐうぜん小千谷新聞により、「峠」文学碑の建立経緯を知った次第である。

越の大橋(妙見堰)。左が榎峠 雪の文学碑から榎峠 榎峠と信濃川
越の大橋と建物は妙見記念館 榎峠に正対する「峠」文学碑 裏面は「峠のこと」

もどる