忠犬“しろ”のものがたり

 中興(ちゅうこう)の名君として知られている三代藩主牧野忠辰公は、中沢村の庄屋善兵衛から大きくて勇敢な白い犬(秋田犬と思われる)を譲り受けた。“しろ”と名づけられたこの賢い犬は、参勤交代で江戸に赴(つ)くときも新しい主人の籠(かご)を追った。
殿様はことのほか喜び“しろ”をたいそう可愛がった。

 ところがあるとき、江戸の牧野家屋敷の前を尾張候の大きな唐犬が通りかかり、“しろ”に襲い掛かった。それまでじっと耐えていた“しろ”は、果敢に反撃し唐犬を追い払った。
ときは貞享年間(1684〜1687)のこと、生類憐みの令が発布された前後の四代綱吉の世のこと、犬の喧嘩(けんか)といっても、相手は将軍家の親戚の尾張候の犬である。
殿様は“しろ”に、「こんなことをするようでは、江戸の屋敷においておくわけにはゆかぬ」ときつくしかった。“しろ”は大好きな殿様に国元に帰るように命じられたと思い、参勤交代で通った道をとぼとぼと長岡に向った。

 よく朝、殿様は“しろ”がいないことに気づいた。問われた家臣は、「しかられて長岡に戻ったのではないか」と申し上げた。
殿様は「ふびんなことをした。もし長岡に戻っていたらいたわってやれ」と家臣に命じた。

 江戸から約76里(300km)、長岡にたどり着いた“しろ”は、元の飼い主である中沢村の善兵衛の家に行った。しかし善兵衛は、「殿様に差し上げたのだから、殿様の許しがなければ家には入れられないのだよ」と城に戻るよう諭(さと)した。
“しろ”は善兵衛を何度も振り返り城の方向に向った。しかし“しろ”は城には戻らず、中沢村から少し離れた丘で、数日間悲しく鳴いていた。

 まもなく江戸から“しろ”が長岡に戻ってないかという問い合わせが城に届いた。家臣は城内をくまなく探し、善兵衛の家にもやってきた。
江戸でのいきさつを聞いた善兵衛は、数日前に鳴き声のした方向を探すと、小高い丘の上ですでに息たえていた。
善兵衛ははるばる江戸から戻ってきた“しろ”を哀れに思い、亡くなった丘に塚を築き手厚く葬ったという。悠久山に向う途中にある「白狗(しろいぬ)の塚」がその塚といわれている。

 それから約100年後の天明元年(1781)、殿様の忠辰公は蒼柴神社に祀(まつ)られることになり、この塚とは目と鼻の先に移ってきた。きょうも“しろ”は大好きな殿様と悠久山を駆け回っているのだろうか。
白狗の塚 白狗の碑

 こちらは渋谷の忠犬ハチ公

 一方、全国的に知られている忠犬ハチ公は、東京大学の上野英三郎博士に可愛がられた秋田犬である。上野博士の自宅は渋谷駅から5分位の距離にあったが、毎日博士を渋谷駅や駒場キャンパスに送り迎えした。
ある日、博士は急逝(きゅうせい)するが、ハチ公は博士の死を理解できず、渋谷駅の改札口で連日のように待ち続けるのが目撃された。

 これが報道され、忠義な犬ということで大きな反響を呼んだ。昭和9年には銅像建設の機運が盛り上がり、「忠犬ハチ公の夕」には三千人が集まったという。
よく昭和10年に13歳でハチ公は亡くなり、遺骨は青山墓地の上野博士の墓のそばに埋葬された。戦前には修身の教科書にも載ったが、太平洋戦争では銅像が金属として供出されるという憂(う)き目を見ることにもなった。

 戦後の昭和22年に有志により再建され、これが現在JR渋谷駅前にある銅像である。ハチ公のふるさと秋田の大館市にも銅像が建っている。
忠犬ハチ公

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