河井継之助愛用の蓮月尼の茶碗

河井継之助が只見で亡くなる時、従僕の松蔵に長年の感謝の気持ちで、一つの茶碗を渡した。いつも継之助が薬を飲む時に、愛用していた茶碗である。
戊辰戦争が終わったあとも、松蔵はしばらく茶碗持っていたようであるが、やがて行方がわからなくなった。
中越地震の後、三条市のある寺を経由して、数奇な運命を持った継之助愛用の茶碗が、慈眼寺に戻ってきた。茶碗のまわりには和歌が彫られている。

 世の中の ちりもほこりも ながれては きよきにかえる かもの川波  蓮月

抹茶碗に詩を浮き出させた「蓮月焼き」で、当時かなりの人気があったようである。
継之助の塵壷には、8月初めの10日間ほどの記録がない。司馬遼太郎はこの間を、京都の高貴でうら若き織部という女の絡みで埋めている。「峠」の最大の妖艶な部分である。

「わたくしです」 その声が、からりとしている。織部の声であった。声とともに障子がひらき、やがて身を入れ終えたらしく、鎖だされる音がした。
継之助は起きあがった。「御用ですか」
女はすぐに答えず、身をさらさらと移動させている。やがて近づき、継之助の間近にすわったらしい。「お伽をつとめて差し上げます」
声がすこしふるえているが、しかしつとめて明るくふるまおうとしている様子が、継之助にもかすかにわかった。
(お伽?) 継之助はこの瞬間ほど生涯でおどろいたことはない。まさか、京の貴族社会の風習ではあるまい。これはどうなっているのか。   (司馬遼太郎 「峠」より)


京都での塵壷の記録がないならば、茶碗を求めるために美しい蓮月尼を訪ねたとすれば、もっともらしく思える。でも越後には不思議に蓮月尼の書も、多いというのである。
継之助愛用の茶碗は、何処で手にいれたものであろうか。
河井継之助愛用の蓮月尼の茶碗
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蓮月尼は大田垣蓮月(おおたがきれんげつ)といい、江戸末期の京都の女流歌人で、越後の貞心尼、加賀の千代女とともに、幕末の三大女流歌人といわれる美しい尼僧である。
若くして夫に死別し、出家して蓮月と号した。
和歌をこよなく愛し、陶器造りにも非凡な才を持ち、抹茶碗に自分の和歌を浮き出させた「蓮月焼き」が珍重された。

戊辰における和平へのエピソードは、ことに有名である。
 
 うつ人も うたるる人も心せよ 同じ御国の 御民ならずや   (蓮月尼)
 あだみかた 勝つも負くるも哀なり 同じ御国の 人と思へば   (蓮月尼)


有栖川宮熾仁親王を大総督とする、東征軍が京都を出立する時、先導するた薩長軍が三条大橋にさしかかると、橋のたもとから蓮月尼が短冊を差し出した。
これを受け取ったのが西郷隆盛で、心を動かされた西郷は、江戸城の無血開城を心に秘めて、勝海舟と会談したというのである。

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