全国藩校サミットin長岡(視察研修)
第8回全国藩校サミットの2日目は、長岡市内の視察研修である。 管理人には行ったところだけではあるが、大会事務局に全国からの参加者が多く、長岡の関連者が少ないコースを希望したら、一日コースに決まった。 以下、主なところを紹介する。 (2009.6.21) |
蒼柴神社 |
最初の視察場所は、牧野家の霊廟がある蒼柴神社(あおしじんじゃ)である。長岡藩3代忠辰(ただとき)公は、牧野家でも中興の祖といわれる明君であるが、4代藩主忠寿(ただかず)はその志を継がんと、城内に社を造営し霊を弔った。 9代藩主忠精(ただきよ)は、「中庸」より「悠久」の言葉を選ばれ、権現造りの神殿を長岡の東に建立し、城内から遷座した。 祭神は蒼柴大明神で、これは忠辰公の神号である。 戊辰戦争では、三の鳥居に掲げられた蒼柴大明神の額が、光格天皇の勅額であったので、戦火を免れた。 |
蒼柴神社の牧野家霊廟 |
三代藩主忠辰公「蒼柴大明神」を祀る蒼柴神社 | 戊辰戦争と西南の役の御霊が眠る招魂社 |
長岡市郷土資料館 |
悠久山公園に聳える長岡城を模した建物は、長岡市郷土資料館である。ここ注目されるのが、長岡藩士の写真が多いことである。 長岡藩は朝廷に嘆願書を持参し、国内で戦う時世ではなく、一致団結して国防に当たるべきと訴えたが、そのまま戊辰戦争に突入した。長岡藩士はそのまま大坂の玉津橋の警備に付いた。 この写真はそれより1年早い慶応2年に、第2次長州征伐で長岡藩は大坂に結集したが、将軍家茂が急死し、長州征伐が中止になった時に撮ったものが多い。 藩士は時間を見つけて、西洋の新しい文明に触れ、写真鏡(写真)に自分の姿を写した。 右下にガラス原版が見えるが、河井継之助とともに慈眼寺の談判に同行した、長岡藩きっての剣士二見虎三郎である。 壁の掛け軸は、「あだ守る とりでのかかり火 影ふけて 夏も身にしむ 越の山風」、山県有朋の書である。 山県有朋と黒田清隆の西軍主力部隊は、慈眼寺の談判を蹴ったがために、4ヶ月北越に足止され、彼らに越の山風は厳しかった。 |
戊辰戦争を闘った長岡藩士の写真と、厳しい北越の戦いを嘆いた山県有朋の詩 |
郷土資料館の資料から「雪中勢揃いの図」 | 展望室からの眺め、今年の国体開催の準備が進む |
米百俵の群像 |
戊辰戦争で敗れた長岡藩に、支藩の三根山藩から百俵の米が到着した。大参事小林虎三郎は、「きょうの食べ物もなく厳しいが、今こそこの米を売って、未来の若者を教育しよう」と説く。 左の少年と母親はこれを見つめる長岡の未来の象徴である。いわば近代長岡の原点はここにある。 小林虎三郎は佐久間象山に学び、吉田虎次郎と象門の二虎といわれる。「松陰の胆略と虎三郎の学識、皆稀世の才なり。ただ天下に事を成すのは松陰で、わが子の教育をせしむべき者は虎三郎ただ一人である(佐久間象山)」。事実、象山は自分の子供の教育を虎三郎に任せた。 小泉純一郎総理が就任の所信表明演説で、「米百俵」の故事を引用した。でも長岡の米百俵は武士(役人)に我慢をさせたが、民衆には優しかった。小泉米百俵は、議員に優しく、国民に我慢を求めた。 同じ米百俵でも、かなり違ったものになったと感じている。 |
ひもじいがこの米を売って子供の教育をしようと説く小林虎三郎 |
米百俵の群像前で記念撮影する視察研修参加者 | 視察研修はバスで移動、後ろは昼食をとった越州 |
新潟県立歴史博物館 |
長岡市の関原にある県立博物館で、平成12年に完成している。館内では新潟県の歴史や民俗を紹介しているが、この地区が火炎土器の出土地に近く、そのため縄文文化のコーナーが充実している。 常設展示と特別企画展示があるが、上杉関連の時代ものの特別企画展示があると入場者が多いとの統計がある。 偉大な漢学者諸橋轍次は、となりの下田村(現在は三条市)の出身で、自らの出自は能登から来た直江兼続の子孫だという。 |
完成まで30年かかった諸橋轍次の大漢和辞典 |
西山丘陵に建つ新潟県立歴史博物館の外観 | この付近で火炎土器が発掘された |
与板・兼続お船ミュージアム |
今年の大河ドラマ「天地人」の直江兼続は、長岡の与板城主である。御館の乱を勝ち抜いた上杉景勝は功績のあった樋口与六を筆頭家老に抜擢した。 お船は与板城主で上杉家の重臣である直江景綱の娘であるが、婿の信綱が御館の乱の論功行賞に巻き込まれ亡くなった。この後に、上杉景勝の命により、樋口与六を迎え直江兼続と名乗った。 お船は兼続より3つ年上の賢夫人と言われる。 |
ミュージアム前に立つ直江山城守の像 |
常盤貴子がドラマで実際に使用したお船の衣装 | 兼続の妻はお姉さん女房 |
河井継之助記念館 |
米百俵の小林虎三郎と人気を二分している。でも長岡を良く知る人は、河井継之助の盟友で、長岡の復興に尽くした三島億二郎を挙げる人もいる。 継之助は長岡を戦火に巻き込んだことで、評価と同時に反対派もいたため、長らく記念館ができなかったが、継之助の屋敷跡の土地の持ち主が、現状を変えないことを条件に、市に譲り渡すことで記念館の建設が進んだ。 平成19年12月、かって雪の長岡を、継之助が再度江戸に遊学したと同じ日にオープンした。 市内は無論であるが、河井継之助の人気は全国レベルで、記念館訪れる人は多い。 戊辰戦争、太平洋戦争で長岡は焼け、城下町の面影はないが、継之助の庭の石灯篭だけはこの場所に奇跡的に残った。 昭和30年代までは、継之助の号「蒼龍窟」の名に因む大きな松があったが、風雪害でなくなった。 現在は、右下の画像の右上に見えるが茶色の幹の、2代目「蒼龍窟」の松を移植中である。 |
蒼県外者が多く訪れる河井継之助記念館、友の会員は県外者も多い |
ガトリング砲、日本に3門あったが2門は長岡藩 | 奇跡的に残った河井継之助の庭、奥に2代蒼龍窟の松 |
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