140年ぶりに慈眼寺に戻る(二見虎三郎)

慈眼寺に140年ぶりに長岡藩士二見虎三郎が戻ってきた。虎三郎は慈眼寺の会談に河井継之助がただ一人連れて行った軍目付である。
慈眼寺は会談だけでなく、薩摩藩の宿舎になった所でもあり、継之助の肖像画は敵に囲まれている。ここに写真ではあるが、強い味方の虎三郎が140ぶりに戻ってきた。
虎三郎の名は、いまでは米百俵の小林虎三郎が知られているが、当時は軍目付で藩きっての剣の達人の二見の方が知られていた。
二見は慈眼寺の会談の約3ヵ月後の8月25日に、会津城下で戦死したとの記録があるが、慈眼寺の会談の様子を誰にも語らず、ほとんど資料が残っていない。そんなことから写真が見つかるまでは、「幻の二見」と言われた謎の多い剣豪である。
慶応2年8月22日大坂で撮影(無断使用禁)
(長岡市立科学博物館に使用許可済)

(これは、どうもちがう)
と、継之助の添役である二見はおもった。この朝、本営で感じた官軍の印象とはまるでちがってしまっているのである。ひと戦があったからだろうか。
山門をかためている兵士の人数だけで百人以上はいる。それがせまい道路をわざとせまくし、継之助らを通りにくくしている。彼らの持つ銃にはことごとく剣が付けられ、剣は氷のように光り、文字どおり白刃の林をかきわけてゆく思いがあった。
河井継之助は平然と歩いてゆく。山門をくぐると、境内はひろく、立木はふるく、蝉の声が梢のほうから降っていた。  (司馬遼太郎「峠」より)

虎三郎の写真が明らかになったのは、昭和52年のことである。北海道在住の虎三郎の子孫が大切に持っていた。極めて珍しいガラス板の写真で、蓋には「慶応二年寅年八月二十二日 於大坂表写し 写真鏡 二見虎三郎正直 行年三十一歳」とある。
長岡藩は第2次長州征伐に参加し、大坂に結集するも将軍家茂が大坂城で急死したことにより、長州征伐が事実上中止となった。この時に撮影して長岡に持ち帰り、長岡城の落城により会津に向かうときに子供に形見として残した。
虎三郎は会津で銃創を受けたが死んではおらず、会津落城により逃れた山形で、傷が原因で戦うことができず自刃したようである。
写真からは、継之助を一人で護ろうした剣豪に相応しい鋭い目をしている。左肩には三河時代から牧野家が使ってきた五間梯子が縫い付けてある。(上に登る縁起の良い紋章なので、長岡市内で五間梯子のバッジを売っている)
写真原板(ガラス板)は、江戸時代の貴重な資料として、現在長岡市立科学博物館が保管している。画像は子孫の了解のもとに、科学博物館から「ポジフイルム」から焼増をした。
二人が通った山門(地震前)    会談の部屋(地震前

慶応四年閏五月二日 小千谷談判の会見者
【西軍】
 山道軍軍監 岩村精一郎(土佐)、杉山荘一(長州)、白井小助(長州)、淵辺直右衛門(薩摩)
【長岡藩】
 家老 軍事総督 河井継之助、隣部屋控 軍目付 二見虎三郎

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