長岡藩のルーツ牛久保を歩く

 長岡藩牧野家と家臣のルーツは、三河国宝飯郡牛窪(牛久保)である。戦国時代の牧野家は今川、武田、松平(徳川)に挟まれて常に緊張状態に置かれていた。
永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで織田信長が今川義元を討ち取ったことが、三河の土豪に大きな変化をもたらした。
牧野成定・貞成父子は今までの今川を離れ、徳川家康の傘下に入った。貞成は家康から一字を賜り康成と改名した。

 天正18年(1590)、数々の戦いで華々しい武功をあげた康成は、2万石で大胡城主となった。
慶長14年(1609)に康成が逝去したあとも、子の忠成は大坂冬の陣・夏の陣で戦功をあげ、元和2年(1616)に5万石で越後国長嶺城主となる。
長嶺城の築城中の元和4年(1618)、長嶺より戦略性の高い長岡の地に異動が命じられ、牧野家主従は大胡から直接長岡に移った。
牧野家は徳川家と争った時代もあったが、牛久保で徳川家の傘下に入ったことで、譜代大名としての地位を確実なものにした。
 長岡藩のルーツともいえる牛久保の地を歩いてみた。
牛久保史跡巡り

JR飯田線牛久保駅はむかし牛久保城のあった場所で、近くに牛久保城址の石碑がある。
駅の周りはNHK大河ドラマ「風林火山」に合わせ、「山本勘助ゆかりの地」豊川市牛久保町の幟が乱立している。
今回は駅近くの牛久保城址に寄らず、大聖寺に向かうこととする。
スタートはJR牛久保駅 山本勘助「風林火山」の幟が歓迎

 大聖寺は今川義元公墓所で知られる。今川義元は永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで織田信長に討たれ首を取られたが、家臣は胴体を背負い駿河に退却する途中で、大聖寺の境内にひとまず葬った。
3年後に義元の嫡子氏真により三回忌が営まれ宝塔が建てられた。
義元の隣に牧野家以前にこの地を治めた一色城主、一色刑部の墓がある。その近くの駐車場の隅に一色城址の碑がある。
今川義元公墓所のある大聖寺 今川義元公墓所遠景
今川義元公墓所 一色城址

 八幡社は奈良時代に大飢饉が発生し、仁徳天皇を祭ったのが始まりとされる。
大の字になって路上に寝転ぶ奇祭として知られる「うなこうじ祭(若葉祭り)」は豊川市の無形文化財で毎年4月上旬に八幡社で開催される。

「常盤通り」を少し戻り、右折した「牛久保駅通り」の駐車場の隅に「大林勘左衛門貞次、山本勘助養父屋敷跡」の表示がある。
勘助が牧野家家臣の大林家に養子となり、若い多感な時代を送った屋敷の跡である。
幟がたっているので分かるが、予備知識がないと見逃しそうである。
八幡社の入口 「うなこうじ祭」で知られる八幡社
山本勘助養父屋敷跡 勘助が青春を過ごした屋敷跡

 山本勘助養父屋敷跡から「牛久保駅通り」を北西に進むと寺院がたち並ぶ寺町で、勘助の墓があるのは通りに面した長谷寺である。
風林火山の勘助を画いた一際大きな幟が入口の両側にたっている。武運山長谷寺とは戦国時代を物語るような勇ましい寺の名前である。

寺の縁側に勘助の守護神であった摩利支天像の写真が張ってあり、像は休日に公開と書かれている。
寺の奥の大きな木の下に勘助の墓がある。勘助は念宗和尚と親交があり、遺髪と摩利支天像を和尚に託した。永禄4年(1561)、川中島の戦いで戦死した知らせを聞き、その死を悼んで五輪塔を建立し遺髪を納めたのがこの墓である。
墓前は花で飾られ、綺麗に清掃され、勘助の人気が分かる。
武運山長谷寺の入口 摩利支天像を中に安置
幟の奥の大木の下が勘助の墓 大林勘助の遺髪を納めた墓

「千歳通り」と「南大通り」の交差点の近くに天王社があり、入口の一段高まった位置に牧野成定公廟がある。 廟の前には柏の木が植えられ、大きな松が見下ろしている。
ここは説明文にまかることとする。
「牧野成定公廟」                     市指定史跡

 牛久保二代城主牧野成定は、成時(古白)の孫で、はじめ今川氏に属していました。
桶狭間合戦後、今川氏を離れ徳川家康の配下に入り、永禄8年(1565)酒井忠次と共に吉田城を攻め落としました。
こうして家康の東三河支配に力をつくしましたが、翌年10月23日、42歳で病死し、光輝院に葬られました。(昔はこのあたりまで光輝院の境内でした)
その子康成も家康のためにつくし、天正18年(1590)大胡城主(2万石)になり、また孫の忠成は長岡城主(7万4千石)に出世しました。
この廟は、忠成の孫で大垣城主戸田采女正の妻となった人が、牧野家子孫繁栄の基をきずいた忠成の菩提を弔うために貞享元年(1684)に建てたものです。

                              豊川市教育委員会
牧野成定公廟と説明文 牧野成定公廟

ここから「南大通り」を牛久保駅の方向に戻ると、途中に牧野家菩提寺の光輝院(光輝庵)がある。
この寺には牛久保城の城下古図が伝わっており、牛久保城、光輝院、長谷寺、家臣の名前と場所が書かれている。
この古図により勘助養家の位置が分かった。

牛久保史跡巡りも、牛久保城を残すだけとなり駅の方向に向かう。
牛久保城は享禄2年(1529)、牧野成勝により築城され、二重の堀をめぐらせ、城を取り囲むように城下町がつくられた。
元禄13年(1700)、廃城となり現在は城跡を示す碑が建っている。

城に向かう途中で、牛久保小学校を覗いて見たら、「参州牛久保の壁書」の立派な石碑に出あう。
「礼儀廉恥と云う事」、「何事にても根元と云う事」。
確かに壁書の一部で、牛久保小学校では児童が通る正面入口の庭に置かれていた。
牧野家菩提寺の光輝院 駅の近くの牛久保城址

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