歴代藩主とゆかりの寺社
古くは源平の時代に田口成能が阿波水軍として活躍したが、その子孫が三河国宝飯郡牧野村(現豊川市)に住み牧野氏を名乗った。 その中で、牛久保城を拠点とした一族が、長岡の牧野家の始まりである。 永禄3年(1560)、桶狭間で今川義元が織田信長に敗れ、牧野成定と子の貞成は永禄9年(1566)今川の元を離れ、徳川家康の傘下に入った。そして貞成は家康の一字を拝領し、康成と改名した。 家康の関東入部にともない、天正18年(1590)康成は上野国大胡城(前橋市:旧大胡町)の2万石の領主となる。その子忠成は、大坂冬の陣、夏の陣の戦功で、元和2年(1616)越後国長峰(上越市吉川区長峰)で5万石の大名に出世、元和4年(1618)には、越後の戦略拠点長岡に譜代の大名として入ってきた。 天保12年(1841)、川越への転封の危機はあったが御沙汰止みとなり、牧野家は明治3年(1870)の廃藩まで長岡から動くことはなかった。 長岡藩の初代藩主は忠成で、最後の藩主は13代忠毅である。 また、牧野一族は、笠間藩、田辺藩、小諸藩、三根山藩の大名家があるが、長岡牧野家が本家となっている。 |
【牧野家系図】 成定−康成−1忠成(ただなり)−光成−2 忠成(ただなり)−3 忠辰(ただとき) −4 忠壽(ただなが)−5 忠周(ただちか)−6 忠敬(ただたか)−7 忠利(ただとし) −8 忠寛(ただひろ)−9 忠精(ただきよ)−10忠雅(ただまさ)−11 忠恭(ただゆき) −12 忠訓(ただくに)−13 忠毅(ただかつ)−14 忠恭−15 忠篤−16 忠永 −17忠昌(現ご当主) |
ゆかりの寺社であるが、まず牧野家の祖である成定は、発祥の地である牛久保の光輝院にねむっている。つぎは牛久保牧野氏の菩提寺だった御津(みと)の大恩寺である。康成が徳川家康の関東入りに従って牛久保を離れるとき、居邸を寺に寄進したという。この寺は、家康の父松平広忠が大恩がある寺だということで、寺名を大恩寺に改名したという、徳川家ともゆかりが深く、牧野家が徳川家と三河時代からの密接な関係を物語る寺である。 そして大胡(現前橋市)の養林寺には康成がねむっている。 元和2年(1616)に越後国長峰に移る予定であったが、2年後に長岡に入部することになり、家臣と家族3千余人が、大胡から直接長岡の地に移ってきた。 長岡にとっては、牛久保をルーツの地とすれば、大胡はふるさとの地である。 長岡藩初代忠成ゆかりの寺は普済寺(長岡市栖吉)である。長岡が一望に見える寺の裏山に、家臣の墓に守られた忠成の墓がある。関が原の戦いで二代将軍秀忠と信州上田城を攻めた忠成は、関が原に遅れる大失態を招いてしまった。親子謹慎となる一族存亡の危機の中で、ふたたび武功をあげ、越後の中心地を手中にした忠成は、遺言により長岡が見通せる地に埋葬された。 2代忠成から11代忠恭まで(3代忠辰を除く)は、東京都港区三田の高台にある済海寺が菩提寺であるが、昭和58年、墓地の改修工事に伴って、家臣の待つ長岡に戻ってきた。 済海寺にあった藩主と夫人の墓石は、悠久山の蒼柴神社の社殿脇に設置され、忠辰公の墓と並んで建っている。 由緒ある家系にのみ許される宝篋(ほうきょう)印塔が、歴代藩主霊廟地である蒼柴の杜に荘厳な雰囲気を醸し出している。 また神社のご神体でもある忠辰は、池上本門寺から平成7年に移ってきた。 |
光輝院 豊川市光輝町 |
豊川の光輝院 | 牧野家の家紋 | 牧野成定公廟(豊川市千歳通) |
大恩寺 愛知県豊川市御津(みと)町 |
御津の大恩寺 | 大恩寺入口 | 大恩寺の山門 | ||
牧野家の墓所 | 徳川家墓所 | 近くの御津神社 |
財賀寺 豊川市財賀町(調査中) |
全明寺 豊川市牧野町(調査中) |
先求院(知恩院塔頭) 京都市東山区(調査中) |
高野山 明王院 和歌山県伊都郡高野町 |
明王院 | 五大堂 | 初代忠成公墓 |
養林寺 前橋市堀越町(旧大胡町) |
鎌倉初期に大胡氏の居所があった由緒あるこの地に、江戸時代初期に牧野康成が寺を建立し菩提寺とした。牧野家墓地には成定、康成、忠成三代の石塔があるが、7基の石塔の中で実際に葬られているのは、中央の康成とその右にある康成の室、そして左にある成定の室である。 |
大胡の養林寺 | 古い石塔が七基 | 養林寺の近くの大胡城跡 |
済海寺 東京都港区三田 |
元和7年(1621)、牧野忠成が建立した。牧野家および伊予松山藩松平久松家の菩提寺である。安政6年(1859)、日仏通商条約締結でフランス公使館が置かれた。 安政4年(1857)までは忠雅が老中として開国をすすめていたことと、河井継之助が長岡落城のときには、藩主をフランスに亡命させようとしていたので、菩提寺にフランス公使館があったことは興味深い。 |
三田の済海寺、付近は再開発中 | 済海寺のフランス公使館跡の碑 | 久松家の墓石が多数残る |
近くの西郷・勝の会見地 | 福沢諭吉がつくった慶応大学 | 泉岳寺も近い |
池上本門寺 東京都大田区池上 |
日蓮上人が、弘安5年(1282)に亡くなられた聖地に建てられた寺で、日蓮宗の大本山である。紀州藩祖頼宣の母であるお万の方の墓など、紀州徳川家にゆかりの寺である。 五重塔は徳川秀忠の寄進と伝わっている。現在、屋根瓦の葺替と耐震工事を実施中(平成18年現在)である。 長岡藩3代忠辰の墓はここにあったが、平成7年に歴代が待つ悠久山に移された。 |
池上本門寺の山門 | 工事中の大本山池上本門寺 | 天明4年建立の経蔵 |
加藤清正公室の層塔 | 二代将軍秀忠建立の五重塔 | 慶長13年建立の重要文化財 |
花岳院 東京都港区芝公園 |
牧野家の歴史に名を残しているのが初代忠成の妹の昌泉院である。徳川家康の養女として、豊臣家の重臣だった福島正則に嫁いだ。正則はその後改易となるが、愛宕下で隣どうしだった屋敷の受け取りは、昌泉院の兄である忠成が命じられた。正則は信頼してきた牧野家に、福島家の武勇の証である20領の「赤坊主」の鎧を託した逸話がある。 (赤坊主20領の中の1領は、小諸市郷土博物館に現存する) 昌泉院の死後、徳川家と牧野家は、増上寺の塔頭として昌泉院を建立した。現在は花岳院に昌泉院の宝篋印塔がある。 近くの増上寺は徳川家の菩提寺で歴代将軍の墓がある。その中に20歳で亡くなった14代将軍家茂に寄り添うように和宮の宝塔がある。和宮の亡くなるときには、すでに幕府は崩壊し、将軍の御台所と呼ぶ時代でなくなっていたので、静寛院宮親子内親王と表記されていた。歴史に翻弄された二人ではあるが、和宮の遺言は「将軍のお側に」であったという。徳川家霊廟は入口の鋳抜門で閉ざされ公開されていない。 |
花岳院の入口 | 昌泉院のねむる花岳院 | かすかに読める昌泉院 |
徳川家菩提寺の増上寺 | 霊廟は厳重な門で閉ざされている | 寄り添う親子内親王(左)と家茂 |
栄松院 東京都文京区向丘 |
初代藩主牧野忠成の長男は光成である。三代将軍家光の一字を拝領し、二代藩主として期待されていたが、寛永14年(1637)24歳で亡くなった。忠成は後継者に困り、光成の長男でわずか5歳の忠盛(18年後に藩主となり初代と同じ忠成を襲名)を嫡子として幕府に届け出た。 栄松院には若くして亡くなった光成の墓がある。宝篋印塔には清厳院、寛永十四丁丑年六月二十二日の文字が解読できる。牧野家の証である柏のご紋も刻まれている。 この付近は寺町で、その中でも曹洞宗の吉祥寺は異彩を放っている。栴檀林(せんだんりん)と呼ばれた修行所は移転し駒沢大学となった。 吉祥寺には榎本武揚や二宮尊徳の墓、円乗寺には八百屋お七の墓がある。井上円了の東洋大学もすぐそばである。 |
浄土宗栄松院 | 墓地内唯一の宝篋印塔 | 清厳院と読める |
駒込の曹洞宗の古刹吉祥寺 | 吉祥寺にある榎本武揚の墓 | 円乗寺にある八百屋お七の墓 |
普済寺 長岡市栖吉町 |
普済寺は古志長尾氏と牧野家の菩提寺である。上杉謙信の母は古志長尾氏で、近くの山頂に栖吉城跡がある。 長岡の基礎を築いた初代忠成は、「長岡を見守りたい」との遺言で、長岡が一望できる普済寺裏の急坂を登ったところに埋葬された。 中越地震の直前に、初代藩主牧野忠成候三百五十回忌の法要が普済寺であった。忠孝の文字と花押は、11歳の忠成の自筆である。のびのびした筆跡が美しい。 |
忠成公の五輪塔の前に少年隊士在銘碑がある。碑には西郷勇英人(16歳)、牧野金太郎正英(17歳)、三間豊蔵正英(18歳)の3名の少年の名が刻まれている。牧野金太郎は河井継之助の妹「安子」の長子で慶応4年7月29日、十日町村で山県狂介隊との白兵戦の中で壮絶な討死をした。 |
栖吉の普済寺 | 長岡を見守る忠成公の五輪塔 | 少年隊士在銘碑 |
栄凉寺 長岡市東神田 |
光輝山栄凉寺の名のとおり、牛久保の光輝院と関連がありそうである。 牧野氏が牛久保城主のときに創建し、牧野氏の移封に従い、大胡を経て長岡にやってきた。中央に長岡藩主累代の墓と周りに五輪塔がある。 河井継之助、長岡復興の恩人三島億二郎、慈眼寺にただ一人付き添った軍目付二見虎三郎など、長岡藩士の墓も多い。慈眼寺での会談の生き証人が期待された二見虎三郎は、会津、米沢、庄内と勇敢に戦い続け、右肩の負傷により切腹ができず、止むなく首をつって武士の本懐をとげたと伝わる。 |
牧野家と歩む栄凉寺 | この一帯は牧野家墓地 | 長岡藩主歴代の墓 |
戦いを避けたかった河井継之助 | 長岡復興の恩人三島億二郎 | 剣の達人二見虎三郎 |
蒼柴神社 長岡市悠久町 |
三代藩主忠辰が神道に深く帰依し、京都の吉田家から蒼柴明神の神号を贈られたことに始まる。長岡城内に社を建てて祀っていたが、九代忠精が忠辰の50回忌に当り、天明元年(1781)栖吉の近くの山に、日光東照宮に模した蒼柴神社を建立し、この山を悠久山と名づけた。 境内には三田の済海寺から移した墓石群、戊辰戦争と西南戦争の招魂社がある。 悠久山一帯には公園となり、郷土資料館、河井継之助や数多くの碑が点在し、市民のいこいの場となっている。 |
悠久山の蒼柴神社 | 済海寺から移した宝篋印塔 | 巨大な墓は三代忠辰公 |
蒼柴神社の招魂社 | 近くの郷土資料館 | 河井継之助碑 |
椿沢寺 見附市椿沢町 |
上杉謙信の栃尾城跡や八丁沖にも近い見附市の椿沢(つばきさわ)町に謙信の帰依が厚かった椿澤寺(ちんたくじ)がある。寺の石碑には上杉謙信公祈願寺真言宗智山派秘密山正音院椿澤寺とある。 この寺には牧野家創設の悲しい出来事がいくつか伝えられている。ひとつは初代藩主牧野忠成の弟秀成が暗殺された事件である。 忠成は幕府創設に加わっていたため、家臣に13年遅れ寛永7年(1630)長岡に入った。藩主が不在の間の国元統治は弟の秀成が中心だったとされる。秀成は寛永6年に幽閉され、寛永14年6月6日に暗殺されたという。 寛永8年には忠成の三男で13歳の朝成が同じ椿澤寺で幽閉後亡くなっており、秀成が亡くなった寛永14年の18日後に長男光成が死亡しているので、牧野家と家臣の最も困難な時期だったと思われる。椿澤寺には温厚で誠実だったと伝わる秀成の墓があるという。 |
見附の椿沢寺 |
定正院 長岡市鷹巣町(調査中) |
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