国内戦争を憂いた河井継之助
慶応3年(1867)10月、将軍徳川慶喜が大政奉還したとの知らせを、継之助は江戸で聞いた。新しい時代への期待と同時に国内戦争の勃発を予見した継之助は、藩主牧野忠訓と60数人の供を連れて、幕府軍艦で京に向った。 すでに京都では王制復古の発令で幕府の京都守護職、京都所司代は廃止となり、御所は薩摩、土佐、尾張、安芸および越前藩が代わって護衛していた。大政を奉還した前将軍の慶喜は、幕府軍の暴発を恐れて二条城から大坂城に退いた。継之助は刻々と入る情報から国内戦争に発展する危険を感じ、朝廷に対し建言書の上奏を考えた。 当時、清国は阿片戦争から西洋の餌食になっていたし、イギリス、フランスなどの諸国は武器の調達に協力しながら、内戦により国力の衰えを首を長くして待っていた。越後の一小藩に過ぎない長岡藩が、日本の未来に危惧を抱いて行動したのである。 異国の先例から日本の将来を継之助は憂いたが、他に誰がここまで日本の未来が見えただろうか。 朝廷に内戦回避の建言書を提出するなど、まさに先が見えた者の哀れとしかいいようがない。 結果的には大きな内戦は避けられ、諸外国の介入も許さなかったが、新政府、幕府の双方とも多くの人命が、維新の狭間で失われることになった。 殺されるだろう。 という覚悟で、継之助はこの建白書を上呈したのだが、公卿たちは意外に鈍感であり、これほど激越な文章をみてもべつに反応がなく、非蔵人をもって、「たしかに読んだ。委細承知した」という長谷三位の返事をきいたのみであった。 (司馬遼太郎「峠」より) |
建言書 (要旨) |
藩主名代河井継之助、副使三間市之進が、建言書を持って御所に出頭した。 要旨は「間もなく新しい日本が生まれる。それを目の前にして倒幕の国内戦争をすることは、新社会の主人になるべく人民の苦しみが増すだけである。新政府の良識によって国内戦争を回避していただきたい」。 攘夷、倒幕を叫ぶ朝廷や新政府に対し、国内戦争を憂い命をかけて差し出した長岡藩の建言書の意味するところを、理解できる者がはたしていたのであろうか。 |
継之助自筆建言書草稿 (長岡市郷土資料館) |
継之助の軍扇 (長岡市郷土資料館) |
継之助の提灯 (長岡市郷土資料館) |
薩摩藩邸焼討 | 二条城から大坂城に入り沈黙を続ける慶喜に対し、薩摩藩は江戸でのかく乱を狙い、浪士を使い江戸市中を荒らし廻った。 賊が堂々と薩摩藩邸に入り込むのが明らかになり、慶応3年(1867)12月25日、ついに幕府は庄内藩に命じ、薩摩藩邸の焼き討ちを決行した。 |
鳥羽伏見 の戦い |
薩摩藩邸焼き討ちの知らせは、大坂城に伝わり幕府は湧いた。戊辰慶応4年1月2日、「討薩の表」を先頭に幕府軍は上洛を開始する。翌3日、鳥羽街道において「討薩の表」を持った滝川具挙を先頭にした幕府軍と薩摩兵が小競り合いとなり、無防備に突破しょうとした幕府軍に、入京阻止しようとする薩摩の大砲が火を噴いた。 戦いの経験がない滝川具挙は真っ先に逃げ出した。鳥羽伏見の戦いの開始である。この日朝廷で会議が開かれ、仁和寺宮(じんわじのみや)嘉彰親王が征夷大将軍となり、錦旗、節刀を賜り、幕府と薩長の戦いが、幕府対新政府の戦いに変わった。 会津兵、新選組や京都見廻組は果敢に闘ったが、やがて錦の御旗の登場や新政府の兵器に押し戻され、淀(稲葉)、津(藤堂)の両藩が新政府に着いたことで勝敗は決した。 しかし大坂城では前将軍慶喜が「ただちに出陣、皆々準備せよ」と出馬の意思表示をした。 |
慶喜江戸へ | 1月6日朝、大坂城で評定が開かれ、慶喜は「千騎戦没して一騎になるも、退くことを許さない」と言い放った。 その夜、慶喜は老中備中松山藩主板倉勝静、前京都守護職会津藩主松平容保、前京都所司代桑名藩主松平定敬などを伴って、夜影に紛れて軍艦開陽丸で江戸に脱走した。 こうして将軍に忠誠を誓った幕府兵は、戦場に起き去られることになったのである。 |
その時 長岡藩は |
建言書を持って当地に入っていた長岡藩60数名は、その時大坂の玉津橋を警護していた。鳥羽伏見の戦いの勃発と、慶喜の江戸逃亡を知った継之助は、玉津橋の警備を放棄してただちに江戸に向った。 慶応4年2月20日、長岡藩は江戸屋敷を整理し帰国の途についた。継之助は江戸に残り、牧野家の全財産を処分し、ガトリング砲などの最新兵器を船に積み込み、海路箱館経由で長岡を目指した。江戸で仕入れた米と銅銭をそれぞれ箱館と新潟で売り、相場の違いによる莫大な利益を上げたのはこの時である。また長岡や会津で共に戦うことになる桑名藩も藩主松平定敬一行が乗船し、長岡藩と親交を深めることになった。 (中央から離れた長岡藩に、まげをゆった藩士の写真が多く残されている。不思議に思っていたが、建言書の上奏で大坂に登った時に撮ったものが多いのだという) |
新政府軍 の追撃 |
鳥羽伏見の戦いを制した新政府軍は、錦の御旗を先頭に軍歌を歌いながら東海道を東に向う。 “トコトンヤレ節” 作詞:品川弥二郎、作曲:大村益次郎 宮さん宮さん お馬の前に ひらひらするのは何じゃいな トコトンヤレ トンヤレナ あれは朝敵成敗せよとの 錦の御旗じゃ知らないか トコトンヤレ トンヤレナ |
越後長岡藩の教え 「常に戦場に在り」 |
靖国神社の境内にある 大村益次郎像(東京) |
靖国神社前の品川 弥二郎像(東京) |
弥二郎銅像と並んで建つ 常燈明台(東京・九段) |
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