会津藩菩提寺の萬行寺(小出島Ⅱ)
最後に小出島を訪れたのは2年前の2009年5月のことであったが、その時、市役所の前で募金に協力したお礼に、新潟の県の花のユキツバキ(雪椿)の苗木をもらった。その旅では小出島の会津藩菩提寺で、松平容保の子息の貴重な色紙を見る機会があったが、何かを小出島に忘れてきたようで、文章を纏める気になれなかった。 |
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南魚沼市役所の小出中学生 | 募金のお礼にもらったユキツバキ(雪椿) | |
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2年後に咲いた2輪のユキツバキ | ユキツバキは新潟県の花 |
戊辰戦争が始まった直後の慶応4年2月に、会津藩は小出島陣屋に代官ではなく、最初にして最後になった奉行を送り込んできた。この重要な越後の守りを命じられたのは町野源之助(主水)である。彼の弟は三国峠で勇猛に戦った町野久吉として知られる。“三国街道を歩く(永井宿と町野久吉の墓” |
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破間川の上流が六十里越から会津方面 | 下流は魚野川から信濃川に注ぐ | |
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会津藩菩提寺の萬行寺入口 | 町野主水の子孫が植えたイチョウ | |
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萬行寺全景 | 会津藩士と町野主水の位牌 |
本堂の前にあるイチョウを撮っていると、運よくご住職が車で戻ってきた。源之助のイチョウのことを訪ねると、中に入ってお茶でもと言う。 |
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会津松平家12代当主保男氏の色紙は「一誠」 |
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色紙の裏は会津藩主松平も当主保男子爵が町野家の子息と訪れたとある |
戊辰戦争で会津23万石は没収され、松平家の再興が許されたのは明治2年のことである。しかし、斗南藩3万石は陸奥国の北端の寒冷地であった。 系図から見た会津松平家の明るい出来事は、松平容保の子息の恒雄氏の子の節子さまが秩父宮親王妃となったことと、一郎氏の子の恒孝が徳川宗家を継いだことではないだろうか。 昔の皇室は、華族以外の婚姻が許されてなかったので、勢津子妃は保男子爵の養子として嫁いでいる。 |
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クリックで初代からの系図を表示する | ![]() |
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激戦地となった会津藩本陣が置かれた林昌寺 | 遺体埋葬に奔走した正円寺の大龍和尚 | |
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武門長久を祈った諏訪神社 | 諏訪神社の片隅にある会津藩士の墓 | |
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大塚の会津藩墓地 | 戒名には全て「義」の一文字 | |
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遠ざかる越後三山、左から越後駒ケ岳(2003m)、中ノ岳(2085m)、八海山(1778m) |
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