会津藩菩提寺の萬行寺(小出島U)


最後に小出島を訪れたのは2年前の2009年5月のことであったが、その時、市役所の前で募金に協力したお礼に、新潟の県の花のユキツバキ(雪椿)の苗木をもらった。その旅では小出島の会津藩菩提寺で、松平容保の子息の貴重な色紙を見る機会があったが、何かを小出島に忘れてきたようで、文章を纏める気になれなかった。
今年の春、もらってきた苗木に2輪の赤い八重の花が咲いた。我が家にはすでに白い八重のユキツバキがあるので、これで紅白がそろったことになる。
小出島は“会津に告げよ武士(もののふ)の死を(小出島)”であらましは触れているが、ユキツバキの咲いた今回が後編である。


南魚沼市役所の小出中学生 募金のお礼にもらったユキツバキ(雪椿)
2年後に咲いた2輪のユキツバキ ユキツバキは新潟県の花

戊辰戦争が始まった直後の慶応4年2月に、会津藩は小出島陣屋に代官ではなく、最初にして最後になった奉行を送り込んできた。この重要な越後の守りを命じられたのは町野源之助(主水)である。彼の弟は三国峠で勇猛に戦った町野久吉として知られる。三国街道を歩く(永井宿と町野久吉の墓
着任したは源之助は諏訪神社で、武運長久の祈願祭を執り行い、迫り来る西軍に備えた。
小出島の戦いは4月27日の一日で決着が付き、敗れた会津藩兵は最後の戦いに備え六十里越を越えた。

小出島を流れる魚野川に東から流れ込むのが破間川(あぶるまがわ)で、この上流方向が六十里越となり只見から会津若松に通じている。

会津に戻った源之助は、この後も奮戦しながらも会津戦争を生き延びた。戦後は主水(もんど)と名を改め、会津藩兵の遺体処理に奔走した。

小出島にも数回訪れ、破間川の少し上流にある会津藩菩提寺の萬行寺(まんぎょうじ)にも寄った。
彼の死後、子息ら関係者が源之助を偲んで植えたという、イチョウ(銀杏)があるというので萬行寺を訪れてみた。


破間川の上流が六十里越から会津方面 下流は魚野川から信濃川に注ぐ
会津藩菩提寺の萬行寺入口 町野主水の子孫が植えたイチョウ
萬行寺全景 会津藩士と町野主水の位牌

本堂の前にあるイチョウを撮っていると、運よくご住職が車で戻ってきた。源之助のイチョウのことを訪ねると、中に入ってお茶でもと言う。
住職が持ち出してこられたのは、松平容保の七男の保男(もりお)氏が、寺を訪れた時の色紙である。保男氏は朝日山古戦場の碑を書かれ、秩父宮勢津子妃殿下の養父であることは先日述べた。
裏面には、時のご住職が来訪時の模様を、記録に残していた。
カメラに写しても良いと言われるので、遠慮がちに撮ったら歪んでしまった。その時の松平家の当主が、源之助や小出島に散った藩士におくった文字は、「一誠」である。
本堂では位牌の説明を受けたが、会津藩士の「戊辰戦死者位」と、もう一つが源之助の位牌である。戒名は「武孝院殿顕誉誠心清居士」で、彼の遺言と伝わる「無学院殿粉骨砕身居士」とは、小出島の位牌は異なる。
町野家も会津では悲劇の一家で知られ、母、姉、妻そして子供二人の5人が自刃しているが、位牌には彼の戒名の左右にその5人も書いてある。「亡骸(なきがら)は筵(むしろ)につつみ、縄で縛って葬式を出すこと」は、会津藩兵の遺体処理を引きずって運ぶことしか許してもらえなかったことから、戦場の仲間と同じようにせよという遺言は、子孫は忠実に守ったと伝わる


会津松平家12代当主保男氏の色紙は「一誠」
色紙の裏は会津藩主松平も当主保男子爵が町野家の子息と訪れたとある

戊辰戦争で会津23万石は没収され、松平家の再興が許されたのは明治2年のことである。しかし、斗南藩3万石は陸奥国の北端の寒冷地であった。
系図から見た会津松平家の明るい出来事は、松平容保の子息の恒雄氏の子の節子さまが秩父宮親王妃となったことと、一郎氏の子の恒孝が徳川宗家を継いだことではないだろうか。
昔の皇室は、華族以外の婚姻が許されてなかったので、勢津子妃は保男子爵の養子として嫁いでいる。

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激戦地となった会津藩本陣が置かれた林昌寺 遺体埋葬に奔走した正円寺の大龍和尚
武門長久を祈った諏訪神社 諏訪神社の片隅にある会津藩士の墓
大塚の会津藩墓地 戒名には全て「義」の一文字
遠ざかる越後三山、左から越後駒ケ岳(2003m)、中ノ岳(2085m)、八海山(1778m)

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