本堂の前にあるイチョウを撮っていると、運よくご住職が車で戻ってきた。源之助のイチョウのことを訪ねると、中に入ってお茶でもと言う。
住職が持ち出してこられたのは、松平容保の七男の保男(もりお)氏が、寺を訪れた時の色紙である。保男氏は朝日山古戦場の碑を書かれ、秩父宮勢津子妃殿下の養父であることは先日述べた。
裏面には、時のご住職が来訪時の模様を、記録に残していた。
カメラに写しても良いと言われるので、遠慮がちに撮ったら歪んでしまった。その時の松平家の当主が、源之助や小出島に散った藩士におくった文字は、「一誠」である。
本堂では位牌の説明を受けたが、会津藩士の「戊辰戦死者位」と、もう一つが源之助の位牌である。戒名は「武孝院殿顕誉誠心清居士」で、彼の遺言と伝わる「無学院殿粉骨砕身居士」とは、小出島の位牌は異なる。
町野家も会津では悲劇の一家で知られ、母、姉、妻そして子供二人の5人が自刃しているが、位牌には彼の戒名の左右にその5人も書いてある。「亡骸(なきがら)は筵(むしろ)につつみ、縄で縛って葬式を出すこと」は、会津藩兵の遺体処理を引きずって運ぶことしか許してもらえなかったことから、戦場の仲間と同じようにせよという遺言は、子孫は忠実に守ったと伝わる。
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