大胡城と養林寺(大胡町)

 群馬県前橋市の中央前橋駅から上毛電鉄に乗り、約20分で8つ目の大胡駅に着く。大胡町も平成の大合併で前橋市となり、高台の城址の一角に大胡支所が置かれている。
大胡の歴史は古く、そのむかし土地の豪族大胡太郎は源頼朝の隋兵として活躍したとある。大胡一族は南北に走る丘陵の一角に大胡城を築いた。大胡氏の末裔として新陰流の始祖で剣聖の上泉伊勢守信綱が知られている。

 牧野康成は天正18年(1590)、2万石で大胡城主となった。康成の子の忠成が大坂冬の陣・夏の陣で戦功を挙げ、元和2年(1616)に5万石で越後国長嶺城主となる。長嶺城の築城中の元和4年(1618)、長嶺より戦略性の高い長岡の地に異動が命じられ、牧野家主従は大胡から直接長岡に移るので、約30年間この地を治めたことになる。
大胡駅前の案内図

 大胡城と養林寺は駅からすぐのところにあり、先ずは牧野家菩提寺の養林寺に向う。養林寺の敷地は大胡氏が居所としていた由緒ある場所にあり、桃山期の特色を残した山門が残っている。寺の右側一帯が墓地になっており、牧野家墓地は標識によりすぐにわかる。門扉の付いた荘厳な墓所で、思わず緊張で背筋が伸びる。
前橋市指定史跡で教育委員会の看板がでていた。(以下前橋市教育委員会の説明文)

 前橋市指定史跡「牧野家墓地」
 天正18年(1590)、徳川家康は小田原北条氏が滅びたあと関東入国を果たし、有力な家臣を関東各地の大名に取り立てた。
 牧野康成はその時、大胡藩主2万石の城主となり、同年12月に城の西に浄土宗の寺を建て牧野家の菩提寺とした。これが養林寺である。城主時代の康成公は大胡城整備を進めながら藩内の治安、藩政の確立を企てたのであろう。
 慶長5年(1600)8月の関が原の役には、上田城を攻撃したが軍規違反により吾妻郡内に蟄居を命ぜられたが、数ヶ月で許された。
慶長9年に多病の為に家督を忠成公に委ね、同14年、55歳で没し養林寺に葬られた。
忠成公は元和2年(1616)越後国頚城郡長嶺に5万石で転封となり、同4年1万石が加増され長岡藩に転封となった。
 牧野家墓地には、成定、康成、忠成の石塔7基があるが、実際に埋葬したのは、中央の康成公、その右にある康成公の室と左にある成定公の室の3人が葬られている。
                                前橋市教育委員会



牧野家菩提寺養林寺 墓地の門扉 中央が康成公の宝篋印塔
桃山期の特色を残す山門 前橋教育委員会の看板 大胡城もすぐ近く

 養林寺から歩いて数分で大胡城跡である。大胡城址の北側には城の守り神である大胡神社があり、城郭の一部は大胡支所、大胡中学校、社会福祉センターなどになっている。
城址は群馬県の指定史跡である。 
 県指定史跡「大胡城跡」
 城址は南北に走る丘陵上にある平山城で、本丸を中心に二ノ丸を囲郭的に配し、北に北城(越中屋敷)、近戸曲輪、南に三、四ノ曲輪があり、東は荒砥川が流れ、その間に根小屋、西には西曲輪の平野部が附加され、南北670m、東西最大巾310mの規模を測り、枡形門、水ノ手門虎口、空堀り、土塁等の跡が良く残っている。
 城主は、大胡氏および牧野氏であった。大胡氏は秀郷流藤原氏の一族で、東毛の豪族である。天正18年(1890)徳川家康の関東入部により牧野氏は大胡藩2万石に封ぜられ、康成、忠成二代の居城となった。元和2年(1616)に長嶺へ転封後、前橋藩領となり、酒井氏時代に城代が置かれたが、寛延2年(1749)姫路へ転封し廃城となった。
                                 群馬県教育委員会
大胡城本丸跡 本丸西側の土塁と堀切跡 二ノ丸から本丸方面

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