八丁沖の奇襲

  長岡城を攻める上で、攻略が不可能とされる天然の要塞がふたつある。ひとつは増水した信濃川、もうひとつは八丁沖である。
特に八丁沖は中央部が底なし沼で、ここから長岡に攻め入ることはできないとされている。

 慈眼寺の会談決裂で、榎峠、朝日山の戦闘を制した長岡勢は、一気に小千谷の新政府軍本営を衝く作戦を考え、軍を藩境に集結した。偶然にもその日の朝、出雲崎から戦地に入った長州奇兵隊出身の参謀三好軍太郎は、参謀山県狂介に命じられ、濁流の信濃川を渡り長岡城に迫った。

 継之助は新政府軍の奇襲を聞き、本陣の摂田屋から長岡城に駆けつけ、大手門にガトリング砲を据え付け応戦するも、圧倒的な兵力の差により、ついに長岡城は新政府軍の手に落ちた。
野戦に転じた長岡軍は、今町の戦いで大勝し、八丁沖から長岡城に迫った。

八丁沖 長岡城の東北一里、百足から富島の間にある沼で、一面葦が茂り、魔物が住んでいるという一里ほどの大きな沼である。 中央部は底なし沼になっており渡河は不可能とされている。軍勢が渡るとは夢にも思わず、新政府軍の防備も手薄になっていた。

長岡城落城後、加茂、三条、見附に転戦していた継之助は、最も困難な八丁沖を渡り、長岡城奪回を決意する。この勝利により再度和平への会談を秘めていた。
現在この一帯は水利工事で一面の美田となり、こしひかりの産地となっている。
鬼頭   
  熊次郎
知行32石の鬼頭家の次男に生まれる。 家貧しく、武士でありながら八丁沖で魚を捕り、家計の助けにしていた。魔の八丁沖を隅から隅まで知り尽くした男である。
ある日、継之助は熊次郎を呼び、極秘の計画を打ち明けた。その日から熊次郎の姿は消えた。
そして8日目に現れた熊次郎は、痩せこけて、ひげぼうぼうで泥にまみれていた。

懐から取り出した地図には、対岸までのルートが記されており、しかも難所は土で埋め、木が渡してあった。熊次郎は継之助の命により、敵の目のない夜間に完璧な攻略ルートを密かに工作をしていたのである。
先頭にたって長岡勢を案内した熊次郎は、富島に上陸したところで敵の銃弾に倒れた。長岡城奪回の先導をした最大の功労者である熊次郎の壮絶な最後であった。
上陸地点の富島の日光社境内に、貧しくても勇敢だった藩士鬼頭熊次郎を称える碑がたっている。
継之助 
  の負傷
八丁沖を渡った長岡勢は、一気に敵中に入り長岡城を奪回する。一端兵を引いた新政府は、薩摩、長州の最強部隊を前線に繰り出し、長岡城の北の新町口から激しく攻撃を加えた。
自ら最前線に応援に駆けつけた継之助の左膝下を銃弾が貫いた。慈眼寺の会談以来、一度は城を明渡したことがあっても、ほぼ完全に主導権を握っていた長岡勢が、ここに指揮官を失ってしまったのである。

負傷した継之助は城中から昌福寺、そして栃尾、八十里越と傷心の逃避行を続ける。八十里越で継之助は越後に置いて行けと何度も叫ぶ。
 八十里こしぬけ武士の越す峠(河井継之助)
継之助にみる指揮官の
 タイプ
継之助や大隊長山本帯刀は常に部下の前面に立ち行動する。前線で自らガトリング砲も操作する。
朝日山で闘った桑名藩の立見鑑三郎もこちらのタイプか。
山県狂介は一歩後ろに下がり、全体を見ながら指揮を続けている。何度も敗戦を経験しながら、引くことを心得ている。

山本五十六が「赤城」の艦長時代の逸話がある。飛行甲板に着陸しようとした飛行機が、目測を誤り海に転落しそうになった。山本艦長は転落しそうな飛行機の尾翼にしがみついた。それを見た部下が全員飛行機につかまり間一髪転落を免れた。常に危険に身をさらし、妙に継之助と符合する。
 やってみせ 説いてきかせてさせてみて ほめてやらねば人は動かじ
 (山本五十六)
八丁沖古戦場の碑
(長岡・富島)
八丁沖で継之助使用
の手洗鉢
鬼頭熊次郎の碑
(長岡・富島)
熊次郎の碑がある日光社

  『八丁沖古戦場』
八丁沖古戦場は長岡の東北郊外百足、大黒あたりから南は富島、亀貝にいたる南北約5キロ、東西約3キロにわたる大沼沢地であった。
河井継之助は長岡城奪回のため、長岡全軍の力を一つにして、この八丁沖を密かに渡り、一気に城下へ突入することを計画した。

そして慶応4年(1868)7月24日午後7時ころ行動を開始し、全軍600余名声をひそめて潜行し、7月25日未明に富島にたどり着き、大激戦のすえ宮下の新政府軍前線基地を占領した。さらに全軍を4手に分け長岡城めざして猛進撃に移った。
不意を突かれた新政府軍は、必死に防戦したが、昼すぎには勝敗は明らかとなり、長岡城の奪回に成功した。
継之助のこの八丁沖渡河作戦は、この方面の防備が手薄なのを察知し、巧みにその虚をついた作戦として現在でも高く評価されている。
        昭和63年(1988)建立                 長岡市

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