伊那谷を放浪した井上井月
弘化4年(1847)3月上信越地方を巨大地震(善光寺大地震)が襲い、長岡城下も大きな被害を受けた。 江戸表に勤めていた長岡藩士井上克蔵(後の井月)のもとに、地震で倒壊した家屋の下になり両親、妻そして娘の一家全員が亡くなった知らせが届いた。 急いで長岡に帰った克蔵を待っていたのは、愛しい家族を埋葬した墓しかなかった。 克蔵は虚しく江戸に戻った。 克蔵は昌平黌で主席になるほどの逸材で、この時も古賀茶渓の久敬舎に通い、まわりから将来を嘱望されていた。江戸に戻った克蔵は、以前と同じように勤勉に勤めていたが、久敬舎に通わなくなり、次第に俳諧に没頭するようになった。河井継之助とは江戸藩邸で顔見知りで、継之助は5歳年長の文武に優れた先輩格の克蔵を尊敬していた。 数年後、信州の伊那谷に、越後の生まれで井月(せいげつ)という俳人が現れた。 決して過去を語らず、みすぼらしい身なりをしているが、俳句の知識と詠みは抜群で、書を書かせるとこれは名人の域に達していた。腰には瓢箪を下げ酒をこよなく愛する奇人は、俳句や書のお礼に酒を振舞われると、「千両、千両」と言うのが口癖であった。 |
悠久山の井月句碑 | 追廻橋の井月句碑 | 金峯神社の井月句碑 |
越後は生涯清貧を通した良寛の故郷である。国上山の五合庵に篭った良寛を、その時の藩主である牧野忠精が、長岡の寺の住職に招請しようとしたが、「焚くほどは風がもてくる落葉かな」と返事を返して藩主の申し出を断った。継之助も備中松山の山田方谷を訪ねる旅では、良寛が修行した玉島の円通寺を詣でたと旅日記「塵壷」には書かれている。 その良寛が目標としていたのが芭蕉で、家族の死で心の拠り所を失った井月は、芭蕉を崇拝するようになった。芭蕉の旅路を追って旅をし、そしてまた伊那谷に戻った。 井戸に映る月または四角の月から井月と名乗り、伊那谷の知識人に愛された井月は、伊那谷に入ってから一度も故郷に戻らなかった。 生涯に1千7百の句を詠み、明治20年(1887)臨終の床で筆を取り、辞世の句を残した井月は長い放浪の旅を終えた。享年66歳。 何処(どこ)やらに鶴の声聞く霞かな(井月辞世の句) 井月は鶴の背にのり、愛しい家族の待つふるさと長岡に向かったのだろうか。 雁がねに忘れぬ空や越の浦(井月) 伊那谷 の人々は、この句碑を越後に向けて建立し、放浪の井月の魂を長岡に帰してやった。 「千両、千両」、どこかで井月の声が聞こえるようだ。 長岡市内には3つの句碑があり、悠久山には辞世の句が、柿川の追廻橋の近くには「鳥陰の・・・」、金峯神社境内に「行暮し・・・」の句碑が建っている。 鳥陰のささぬ日はなし青簾(井月) 行(ゆき)暮し越路や榾(ほだ)の遠明かり(井月) (謎の俳人井月には諸説があり、ここでは江宮隆之氏の「井上井月伝説」の長岡藩士説をとった) |
種田 山頭火 |
井月に心酔していた山頭火は、伊那谷の井月の墓を訪ねている。酒が好きだった井月の墓に酒を注いだ。そして四つの句を残す。 お墓したしくお酒をそそぐ 墓なでさすりつつはるばるまいりました 駒ヶ根を前にいつもひとりでしたね 供えるものとては野の木瓜の二枝三枝 昭和11年、山頭火は長岡を訪れ、宿から互尊文庫の松を眺めて残した句が、柿川の追廻橋付近の井月の句碑近くに建っている。 図書館はいつもひっそり松の秀(山頭火) |
(山頭火の句碑) |
井月の望郷の句 |
初雁や二(ふた)立ち三立ち越の空 | ||
雪車(そり)に乗りしこともありしを笹粽(ささちまき) | ||
春を待つ娘心や手毬唄(てまりうた) | ||
親もちし人は目出度し墓祭り | ||
松の雪暖かそうに積もりけり | ||
行(ゆき)暮れし越路やほだの遠明かり | 酒「越の井月」 | 井上井月伝説 |
初鮭やほのかに明けの信濃川 | ||
遣(や)るあてもなき雛(ひな)買ひぬ二日月 | ||
年々(としどし)や家路忘れて年の春 | ||
翌日(あす)しらぬ身の楽しみや花に酒 | ||
寝て起きてまた飲む酒や花心(はなごころ) | ||
松よりも杉に影ある冬の月 | ||
妻持ちしことも有りしを着衣始(きそはじめ) | ||
立ちそこね帰り遅れて行乙鳥(ゆきつばめ) | 江戸の芭蕉 | 長岡駅の良寛 |
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