痛快!彼岸獅子で入城(山川大蔵)

 新政府軍により鶴ヶ城が包囲される中を、地元に伝わる彼岸獅子の姿で堂々と入城するというできごとがあった。悲惨な物語しか伝えられない会津戦争の中で、唯一の痛快なできごとである。
これを指揮したのは山川大蔵、白虎隊士で東京帝国大学総長になった山川健次郎の兄である。
 山川大蔵は朱雀隊などを指揮し、日光口の五十里に宿陣していたが、他の国境が破られ、鶴ヶ城での籠城戦が決定されると、帰城の命令を受け会津城下に駆け戻った。飯寺まで来ると鶴ヶ城がすでに新政府軍の包囲網の中にあることを知った。
ここで大蔵は一計を案じ、会津伝統の彼岸獅子の姿で入城することを思いついた。笛と太鼓を先頭に堂々と敵陣を進む。鶴ヶ城の城兵は味方と気づき砲撃を止め、敵はあっけに取られただ見送るだけであった。大蔵の一団は味方が開いた西追手門を通り抜け城内に消えた。
 彼岸獅子
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 若くして家老に昇進した大蔵は、困難な籠城戦を戦い抜いた。会津藩降伏後は山川浩と改名し、過酷な運命が待つ斗南藩の権大参事となり、松平容保の後を継いだ幼い藩主と多くの藩士を守り抜いた。
明治4年(1871)の廃藩置県で斗南藩が消滅すると、明治政府のたっての勧めで陸軍に入り、西南戦争では熊本城で薩摩軍を撃破する功績を挙げる。
陸軍少将、東京高等師範校長、貴族院議員となり、そして明治31年には男爵となる。弟の山川健次郎と同様に会津藩からは異例の出世コースを歩んだ。 
鶴ヶ城の天守閣 京都守護職始末
 山川大蔵は弘化2年(1845)会津藩家老の山川家の長男として生まれ、19歳で藩主松平容保の京都守護職に側近として同行、鳥羽伏見の戦いでは最後まで大坂城に残り、会津藩の指揮官不在の中で、多くの会津藩の負傷兵を江戸に送り届けた。慶応2年(1866)には22歳で幕府の派遣した訪問団に選ばれ、ヨーロッパ諸国を廻り見聞を広めた。

 若くはあるが鳥羽伏見の戦いで手腕を発揮した大蔵を、なぜ日光口に配置したのか判らない。猛将の佐川官兵衛を会津藩の沢山の飛地があり戦略的に重要な越後に配置したのは判るが、大蔵が日光口だったことは謎である。
白河口の総督に実戦経験のない西郷頼母を任命したため、適切な指揮が下されず大事な緒戦を失う結果となった。七百余名の新政府軍に対し、同盟軍は約二千五百名の内の七百名を失った。小千谷の慈眼寺での会談の前日にあたる5月1日の白河での敗戦は、仙台藩離脱の遠因にも繋がっている。歴史にもしもはないが、大蔵に白河口を指揮させたらどうなったのか、勝てなくても、負けはしなかったと思われる。
その結果、奥羽越列藩同盟がより強固となり、榎本海軍の動きも合わせ、新政府と同盟軍は少なくとも引き分けることになったのではないか。

 西郷頼母の一族は頼母の母、妻、子供など家族と親戚21人が邸内で自決する中で、頼母は生き恥を晒すがごとく明治36年74歳まで生き抜くことになる。藩主松平容保には潔い自刃を勧めながら、自らはどこまでも生き抜こうとした。
頼母の養子に西郷四郎がいる。講道館で四天王の一人で、富田常雄の小説「姿三四郎」の主人公である。文豪夏目漱石は小説「坊ちゃん」の中で、西郷四郎をモデルに会津の頑固者として「山嵐」を登場させ、江戸っ子の「坊ちゃん」と組んで官僚の「赤シャツ」と対決させる。薩摩長州が支配する世の中に対する漱石の抵抗心が垣間見える。
150cmしかなかったと伝わる西郷四郎の必殺技が実は山嵐である。

 山川浩の著した「京都守護職始末」で、孝明天皇が松平容保に与えたご震かんが明らかとなり、原稿の段階で明治政府は発行を見送らせた。「京都守護職始末」が世に出たのは没後13年経過した明治44年のことで、故人の意思を継いだ弟健次郎が発行した。
この本は幕末の会津藩が辿った正義の道を後世に伝えてくれる。

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