本堂(河井総督、岩村軍監『会見の間』)勧進趣意書

 小千谷市船岡山観音院慈眼寺は寺伝は別にして、本尊聖観世音菩薩は過去二度の専門家の鑑定により、平安末期乃至鎌倉初期の作と云われていますので、草創はその時代に遡ります。

 本堂の中、上段の間が司馬遼太郎先生の「峠」に取り上げられた、岩村、河井両氏会見の間です。残念ながらこの会談は不調に終わり、西軍、長岡軍ともに多くの戦死傷者を出す不幸な結果になりました。

 その際慈眼寺が薩摩藩の宿舎になっていた故か、近辺の同藩戦死者の葬儀は当寺で行なわれ(その中にはかぞえ年16才の少年兵もいるのですが)、その御位牌は今もそのまま本堂に祀られています。

 また西軍全体の戦没者の墓碑は当市の公園である船岡山上に在り、毎年5月8日に当市仏教会員が御回向を欠かしたことがありません。

 敗戦の悲惨さは半世紀前に我々が経験したところですが、何故に両者は、特に河井総督は戦えば負けると知りながらこの道を選んだのか、武士の道とは何なのでしょう

 当寺を訪れる人は殆ど「峠」を読んだ来観者です。司馬氏は「サムライ」という日本語は今も世界語であり続ける、と云っています。西欧的合理主義の中に見出せない東洋的な美が、志士と云われる人、東軍を代表すれば長岡藩河井総督の中に生きていた、ということなのだろうと思います。

 アフガンのカルザイ大統領が首相時代来日の際サムライ、と述べていたと記憶しています。我が国に期待するところ、多かったのでありましょう。

 岩村、河井両氏会見の本堂は、このたびの震災で復興不可能と一時は思った程の災害を受けました。 しかし援助に来てくれた北海道から九州に至る、延べ八十名に及ぶボランティアの人達の真摯な姿を見るに付け、この会見の間が心ある人に大きな意味を将来とも持つと思い、復旧することに基本方針を決定いたしました。

 その為には多額の費用を必要といたします。何卒趣旨に御賛同の上御協力をお願い申し上げます。
平成16年12月 船岡山慈眼寺
住職 船岡芳秀
総代 一同
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