はりまや橋

はりまや橋の変遷

 江戸時代の初期、ここを流れる堀川をへだてて住んでいた豪商播磨屋宗徳と櫃屋道清がお互いの往来のために架けた橋が、その後公道となり、播磨屋にちなんで「はりまや橋」と呼ばれるようになった。

      
架橋当時から江戸末期 

橋の長さ16間(約29b)幅2間(約3・6b)

      明治時代

明治初年の写真では橋全体に店が並んでおり、橋は見えない。
明治41年(1908)10月、かんざしの形をした欄干の付いた鉄製の橋が架けられた。

      大正・昭和期

大正14年(1925)高知駅前道路の一部として改修、幅員18bに、昭和3年8月の路面電車の開通で、昭和6年ごろには幅員24bに拡張された。

      第2次大戦後

第2次大戦後の都市計画で昭和25年(1950)3月、現在の橋が架けられた。
幅員37b、橋長20b、車道幅21・5b。
昭和33年(1958)南国高知総合大博覧会のときに朱塗りの欄干が造られた。昭和40年(1965)2月に改修、毎年2月の観光開き前に化粧直しが行われていた。
昭和41年(1971)橋の下を流れる堀川の汚れがひどくなったため、堀川を埋め立て、橋の下は地下道になった。
現在のはりまや橋、欄干に赤いかんざしがはめられている。
はりまや橋再整備事業で設置された赤い欄干のはりまや橋
平成5年、全国から寄せられたはりまや橋の整備のイメージを基に、江戸時代のはりまや橋として再現された。


    純信・お馬物語

 幕末も間近い安政元年(1854)ごろ、五台山竹林寺脇坊の修行僧慶全は、母親の手伝いで洗濯物を寺に届けに来ていた近くの鋳掛屋の娘で美人のお馬をみそめてしまいます。
しかしお馬の心はいつしか住職の純信に、、、
 お馬の心を引き止めたい慶全は、なげなしの金をはたいてはりまや橋でかんざしを買い、これをお馬に渡しました。
 このことを知った町のひとたちは「おかしなことやな、はりまや橋で坊さんかんざし買いよった」と、よさこい節の調べに乗せて歌いだしたそうです。
 これを知った純信は、これ幸いにと思ったかどうか分かりませんが、慶全を寺から追放してしまいました。
 一方寺を追い出された慶全は「かんざしを買ったのはおれじゃない、純信じゃ」とふれ回ったそうです。
このことから純信は取り調べを受けて謹慎の身となり、お馬は寺への出入りを禁止されました。
 お馬恋いしと思い悩んだ純信は、ついに意を決して翌2年(1855)5月19日の夜、お馬を連れて駆け落ちをします。
 しかしようやくたどり着いた琴平の旅籠にいるところを藩の追っ手に見つかり高知に護送されます。
 裁判の結果、番所の前で3日間さらし者にされた上、純信は国外追放、お馬は安喜川以東へ追放されたそうです。
はりまや橋物語(高知市都市計画課編)より
明治、大正時代のはりまや橋、(はりまや橋地下道のパネル写真)上の写真の橋の親柱ははりまや橋公園の東に設置されている。
高知出身の漫画家故横山隆一さん作成の純信お馬のモニュメント 明治初期、はりまや橋から北を望む、(はりまや橋地下道のパネル写真)
かつての堀川は埋められ、周辺ははりまや橋公園として整備された、 昭和40年ごろ、はりまや橋に設置されていた欄干、地下道で保管。
現在のはりまや橋、西側に赤い欄干のはりまや橋が見える
はりまや橋地下道には、昔のはりまや橋の資料などが展示されている
左端がはりまや橋
はりまや橋付近のアップ
はりまや橋東側のビルに高知の観光をPRするからくり時計が架かっている
9−21時までの毎正時、よさこい節にあわせて高知市の観光地が現われる まず上に高知城
下によさこい鳴子踊りの男女の人形 左側に桂浜と坂本竜馬の銅像
最後に右側の赤い欄干のはりまや橋が現われる