

蘆花は、粕谷の村入りしてから、八幡神社の拝殿で、行われていた粕谷の26戸の寄り合に度々顔を出し、隅のほうで静かに聴いていたことを、 「みみずのたはごと」に書いていたようです。
村の古老は、「みみずのたはごと」を読みながら「蘆花のやつめ、またこんなことを書いて。」「事実とは違う。」と言っていました。
当然ながら、小説の部分も多いと思われます。
この杉の木の脇に立つと、田んぼの中を通って畑道を帰る友人の姿が、松沢病院近くに行くまで見送れたそうです。


粕谷の中心を流れていた品川領用水まで蘆花は水汲みに出かけたようです。現在粕谷延命地蔵があるあたりの少し北側に洗い場がありました。その洗い場で水を汲んだようです。
此処は品川用水が北から南に水無し川が西から東に、川が交差をしていました。品川用水が上を築樋(つきどよ)(土を盛り上げて土手を築いたもの)で通っていました。
この絵はこの用水を良く知っている方から情報を得て私が書いたものですが、下のトンネルを流れている水無し川と上の品川領用水との高度差は5〜6m有ったそうです。
この築樋の工事をするので、ここに「品川領用水御普請場」という石碑があったようです。これは現在、大場代官屋敷の脇の郷土資料館に保管されています。神社に近いほうの石橋の材料として使われていたのが昭和30年代に石橋を壊した時に発見されました。

粕谷の北西のはずれにあたります。今はありません。
写真は千歳教会と下曽根牧師の次の布教師の高橋牧師と千歳村の信者の皆さんです。
この教会堂は元は調布の布田布教所でした。信者が粕谷に移築をしました。
蘆花が粕谷に来るきっかけは「此処の布教師に」と声をかけられたようです。
蘆花が藍夫人と来て見ると奥の居室が6畳より狭い部屋一間だったので嫌になり断ったそうです。
蘆花が渋谷の方面へ出かけるときに、通っていた道は所謂”滝坂道”で、渋谷の道玄坂から甲州街道の滝坂まで通じていました。現在の地点名で言うと「千歳台の交差点」「明大グランド南側」「八幡山八幡神社前」「八幡山1丁目交差点」「すずらん通り」「経堂駅前」此処で小田急線を横切り「常徳院前」「豪徳寺北側」と通っていたようです。
