読   書   日   記

私が日々目を通す書物に対して、私の今の視点と、了解できない観点を書き抜き、それをどのよう に理解すると、私の了解になるかを目的に、日記風に綴っていきたいと思います。>/center>

-------------2002.02---------------

2002.02.07 ルイス・キャロルの意味論
            宗宮喜代子著 大修館書店

現代の意味論−名前には意味があるかと言う問、ルイス・キャロルは意味がある と答える。
述語論理学に基礎をおく現代の意味論は、固有名は固体を指示するのみと言う立 場をとっている。ただ、固有名は、論理的主語という特別の位置を与えられた。

<フレーゲ>(意義と指示−1892年)
  全ての言語表現は意義(意味、内包)をもち、意義は指示を決定する。
意義は、抽象的対象であり、概念である。
指示は、言語表現が指し示す対象のこと。

****<言語表現が意義とか意味を持つと言う事は、言語表現が概念を持つと 言う事。源氏物語と言う小説が、現代でも言語表現としての意味を持っている時 意味=概念であると言う事は、千年の間、紫式部が表現した概念が紫式部が死ん だ後も、言葉として行き続けていると言うことであり、私たちの頭の中で作られ ているずの概念が、どのようにして、言語として出て来るのかと言う事になるの です。つまり、作者とともにある概念が作者を離れ、言葉の持つと言う働きと供 に生き続けるのであるなら、その言葉の持つと言う機能の構造が明らかにされな ければならぬと言う事です。その言葉の「持つ」と言う機能は、当然言葉だけを 見ていては解らないはずであるし、持たれる概念の特長を知らなければならない のであり、その特長を追求しなければ単に日常使われる「持つ」と言葉のイメー ジで、終わってしまうのでしよう。
つまり、言語と概念とに対して言葉はその働きとして、意味としての概念を持つ と言う事なのです。>

フレーゲが、意義と指示を発見したきっかけ。
所謂、「明けの明星のパラドックス」である。
「明けの明星」と「宵の明星」と言う二つの言語表現は、意義を異にするがどちらも金星を指示対象としている。
この考え方に対して、当時一般的に受け入れられていた考え方としてライプニッツの法則があり、此れに依れば、同一物を表す表現を相互に入れ換えても真は維持されるということである。
明けの明星=宵の明星=金星 −−−>同一の対象のであると言う事
  明けの明星は金星である。
  宵の明星は金星である。
  金星は金星である。
  明けの明星は明けの明星である。
  明けの明星は宵の明星である。
この前提にフレーゲは、言語表現の意義と指示との区別を提案した。
意義とは、指示対象の提示の仕方、表し方である。
指示は、指示対象そのものである。

どちらも金星を指示するが、金星を表現する仕方、意義、が異なるのです。

****<言語表現には、表現として指示対象とその提示の仕方がでているのであり、その表現た る言語に対して、「意義」と「指示対象」と言う区別を発見するのであり、さらに、意義と指示対象と言う区別も指示対象と指示対象の提示の仕方と言う統一で把握されるのである。
明けの明星と宵の明星と言う二つの言語表現の意義の違いは、同一の金星と言う指示対象に対して、提示の仕方の違いが、二つの表現違いとしてあらわれているということでしよう。つまり、同一の金星が、地球と太陽との関係のうち、夕方と朝方の一番明るく光っている星という把握の仕方が、表現されたのです。
把握の仕方と言う事で、私達人間の側の知覚的なものを結論してしまいたいのだ。
しかし、把握としては私達の側の問題のようだが、把握される対象のあり方であって、だから対象たる金星が地球と太陽との間に形成する位置関係の違いが、二つの言葉として、表現されたのです。だから、金星に対する提示の仕方とは、金星に対する地球と太陽との位置関係のうち、特定の位置関係が、示されていると言う事なのです。
指示対象が向側にあり、指示対象の提示の仕方が、私達の側にあると言うイメージになってしまうが、しかし私達のこちら側にある提示の仕方とは、対象の特定の側面を認識していると言うことであり、私達の頭の中に成立していても、その本質は、あるいは、内容はあくまでも、対象の側面として成立しているということになる。>

すべての言語表現は意義をもち、意義に基づいて指示が決まってくる。しかし<すべての言語表が指示をもつとはかぎらない。
フレーゲのあげた、指示を欠く例
    「オデュッセウス」と言う固有名が指示を持つかどうかわからない。
    丸い四角、完全な球形、一番大きな自然数、金でできた山、等
この様なことが起こるのはひとえに自然言語が不完全であるからだ、完全に論理的な言語では、この様なことは起きないとフレーゲは言う。完全に論理的な言語では、本来の論理的固有名のみが、それは必ず意義と同時に指示をもつ

****<天使を描いているある一枚の絵と、白い皿の赤いリンゴを描いてある絵とを比べ、天使は指示対象としては存在しないが、リンゴの方は存在すると言ったことが、このように言葉に表されたからといって、キャンバスの上の描像と現実の物体と関係付けるのは、別の観点なのであり、キャンバスの上の像は、それだけで表現として成立しているのであり、ただ、その表現が私達にとって、どんな存在なのか、つまり、どんな目的で絵画表現をするのか、絵画表現はなんの役に立つのかと言う問は、又成立するかもしれないということだ実在するものを描くのだし、実在するものから得た知識を種に想像されたものを描くのであり、此れと同じ論構造として、言語表現のばあいにも、実在するものを表現するし、想像したものを表現するのです。
表現されているもの、現に描画されているものがあって、一つは、実在するものついて表現し、もう一つは、想像されたものについて表現されていると言う時、実在しるものと想像されたものとは、直接には一方は、向こう側に、他方は、こちらの私達の頭の中に−−解剖学的な頭の中ではなく、頭が成立させる観念的世界のなかに成立する−−あると言う規定では、対象を、そのまま表現に直結することになり媒介項がぬけていることになる。其の媒介項こそ、今の場合、認識ということであり、実在するもの「について」、想像的なもの「について」の認識が成立し、其の認識を表現するということになる。そしてその「について」と言う認識が、実在のばあいには、実在とは別の私達の認識としとして成立し、想像的なものの場合、認識と一つになっていると言う事になるのです。実在するものについての認識が成立し、其の認識を種に想像的なものが、作り出されると言う事なのでしょう。表現におけるそれらの区別を得ていなければ、意義と対象を云々する事は、踏み外しの始まりなのでしよう。>

文も言語表現であるからには、意義と指示をもち、フレーゲは、文の意義は命 題であり、指示は真理値であると結論づけた。

****<意義と指示の区別をたてる事には問題ないが、「金星」と「明けの 明星」を区別する事には問題がないが、太陽系の星の位置関係のなかの星のひ とつとしての金星の認識と、夜と昼の区別のある地球上から知覚されている星 との区別は、夜と昼の区別がある地球上で観測されるものが、はじまりであり 明け方の東の空で一番輝く星と言う意味で、明けの明星であり、夕方の西の空 で一番輝く星と言う意味で、宵の明星というのである。夕方と朝方と言う違っ た時の一番輝く星が、其の朝夕の違いが、そのまま星の違いであると言う判断 に対して、一個一個の星としては、「金星」と言う同じ星であるということが 解ったと言う事なのです。だから、指示と言う言葉で示しているのは、金星と 太陽と地球とが形成する位置関係にたいして、位置関係を形成する一端として の金星を、関係抜きに捕らえていると言う事なのです。しかし、金星とは太陽 系の特定の位置にある星の事を言っているのであり、けっして単独にある様な 事ではないのであり、太陽系の星の位置関係を前提にして、特に地球と太陽と 金星が作る特定の位置関係を、地球から見た時に見えるものをいうのである。 その三者の位置関係は、地球から見えるものから、始まって知覚されるのであ り、さらに、はるか宇宙の上から太陽系を見下ろすような想像図は、星々の位 置関係を縮小して、図表かすることで形付けるのです。飛行機で都市を俯瞰す ようには、太陽系を俯瞰しているわけではないのです。
太陽系の位置関係を前提にしながら、それを無視して金星を扱うのが、指示と いうことであり、一定の法則をなして変化する太陽系の位置関係を前提にしな がら、太陽と地球と金星の三者の、ある特定の位置関係しか考えていないのが 意義と言う事になります。だから、意義と指示は、一定の法則でへんかする太 陽系の事を無視して成り立っている物言いであり、太陽系の位置関係を把握し た時、始めて意義と指示は、統一的になると言う事なのでしょう。>

意義は、個人的な観念ではなく、公共的な抽象的対象である。一人一人の人間 の意識の中に閉じ込められている私秘的な観念ではないのです。
例えば、望遠鏡で月をみる場合を考えよう。月は望遠鏡を通して観察者の網膜 に像を結ぶ。ここでは、月は指示であり、望遠鏡のレンズを通して観察される 対象である。望遠郷のレンズに写る像は意義である。そして網膜の像は観念で ある。意義と観念の区別、レンズの像は、代わる代わる見る事ができるのに対 して、レンズの像を見ている時に網膜にできる像である観念は、見ている時に のみ、彼に生じているものなのである。>

****<レンズに写る対象の像は、望遠鏡の覗き口が一人分の大きさである から、代わる代わるしか見る事は出来ないが、しかし、誰でも目を当てれば見 る事ができると言う意味で、客観的なのであり、レンズの像が、彼の網膜に像 を作る事は、彼だけのものと言う意味で主観的ということ。レンズに写る像を 20メートル四方のスクリーンに写し出すことで、一度にそこに写る像を見る 事ができても、網膜に写る像は、網膜を持つ人のみのできごとなのであり、代 る代る見ようと、一緒に見ようと、網膜に写るのは、彼の網膜にうつるという ことであり、スクリーン上の像と網膜上の像との関係が問われなければならな いのであり、普通私達は、網膜上の像のことを、スクリーン上の像に対する認 識と言う関係なのである。
認識と言う関係を捕らえる事で、観念の生得性と言った踏み外しをしなくても いいことになつたのです。

言語と指示対象との中間に意義のレベルを主張する事で、古来の伝統的な言語 観を批判する事が出来た。当時の通念に依れば、言語は思考を表す透明な道具 であり、言語自体では何の問題も提起しない。言語は単に音にすぎず、観念が 音によって表され。指示対象を選び出巣すと言う考え方を批判し、観念とは区 別された意義を認める事で、言語自身に音以外のものを考える事ができる様に なつたのです。

      観念−−−言語/音−−−指示対象  

バーとランド・ラッセルのフレーゲ批判、固有名についてのラッセルの考え方
 The present king of France is bad.
と言う分の主語が、実在を表さないことがテーマとなつている。
The present king of France は、個体Xと
と述語The present king of France とに分
解さりる。そこには、実在のフランス王はいない。

****<個体として一人の人間がいるのであり、彼の地位と言った規定が フランス王と言う事である。とすると、一人の人間がいて、他者との関係で 一方が親といわれ、他方が子供と言われる時、実在するのは一人の人間であ ると考えてしまうと、二人の人間の間にある親子関係は、確かにあるのに実 在とは規定されないと言う事になる。ラッセルにとって、実在とは個別的な 個体の事であり、個体が他の個体と形成する関係は、考慮の外と言う事にな るのです。自然言語では、固有名も一般名も、主語になってしまうのであり 個体と関係を区別して文にあらわす方法としてラッセルが考えたものが、確 定記述論理表記なのでしょう。>

固有名は指示するのみ、とする現代の意味論者達は、19世紀にあってこれ に近いJ.S.ミルを高く評価している。
固有名を普遍名から区別かする。
さて、名前論争はけ論理的には一応の決着を見た観がある。

ソシュールの言語観

ソシュールは、まず実体としての物があってそれに一つずつ名前を付けると 言う名付け主義の考え方を退け、それに代わる相対的な世界観を打ち出した。
ソシュールにとつて、言語記号の網の目で仕切られ以前の世界は渾沌以外の 何ものでもなく、言葉によって分節されて初めて世界ができあがる。
ソシュールにとって世界は言語であり、言葉が互いに定義しあって世界を作っ ているのである。
「鏡の国」の名無しの森は、言葉によって分節される依然の世界を象徴してい た。人間も子鹿もまだ名前をつけられていない世界である。しかし、アリス本 では言語記号の網の目以前に物は独自にそんざいしている。

****<「鏡の固」の名無しの森に対して、人間と言う名、子鹿と言う名 もない時、「それら」をどのようにいうのか、更に言えば、「それら」と言 う言葉もない時、どのようにしたらいいのだろうか。沈黙のなかで、活動す ることなのでしょう。言葉の網の目は成立しなくとも、活動の網の目がある と言う事なのです。>

****<認識の世界が分節されると言う事であり、歩いている時に目にし た花も、その名前が解ると、ただ目の前にあるだけの物から、私の記憶に残
るものとなると言う事。少なくとも、その名前が解らなくとも、「はな」で である事は、分かっているのであり、それだけでも私にとって目の前のもの つまり、世界は分節されて知覚されているのです。しかし例えば、海洋を船
で航海しているとき、海を泳ぐ大きなものを発見し、鯨と言う名前が解った としても、それが海にいるから魚類と言う言葉でくくれば、世界の分節に踏 み外しがあると言う事になる。>

言葉はもっとも厳密に体系化された記号である。
言語記号は、記号の中でも最大級の社会性と恣意性をもつきごうである。
****<記号と言う一般化のうえで、さらに言語と言う記号が具体化され るのです。>

言語記号の要約:表すもの−聴覚映像、頭の中の音素
       :表されるもの−概念
   両者の結合が、言語記号なのである。
其の結合は、コインの表裏一体であり、切り離せない一体なのである。
言語記号は、概念を伴う聴覚映像のことである。言葉が意味を表すと言う事 は、聴覚映像が概念を表すと考える事ではなくて、言語記号、その統一体が 表されるものとしての概念を表すということである。

****<問題は、音声として発声され、文字として言葉が記されたとき その発声、文字が出て来る事が、同時に一体となっている概念については 「表される」と理解する事であり、論理的に言えば、発声や文字のもつ物 性のレベルに人間の頭の中で成立する概念が、対応関係を形成する事に対 して、其の関係を概念から見た時の文字や音声を、概念が表現されると言 うのである。そこで、音声と概念を関係抜きで考えて、概念がそのまま自 ら姿を変えて、音声になつたり、文字になったりする事で、概念が物質に ななる事が、他の人々にとつて、かれの概念が、私の方に伝達されたと言 う事に対して、少なくとも、概念がそのまま他者の頭の中に入り込む事で 伝達ができるのだと考える事よりは、進展しているのでしょう。
音声や文字と概念とを関係で捕らえる事、関係だからね切り離せないし 関係だから、相対的に独立しているのです。

フレーゲは、言葉の観念の面を批判し、意義と言う側面で、従来の頭の 中の観念ではなく、言葉と供のある意義とか意味に重点をおくのです。
ソシュールは、言葉は単なる音ではなくて、意味が伴うとりかいしたのである。

言語記号の網の目は、構造を成している。語の意味はそれが構造の中で 占める位置であるとされている。語の意味はそれが他の語でないと言う こと、すなわち、差異として定義される。構造全体は差異の体系である。
これをソシュールは、ラングと呼んだのである。実際の発話であるパロー ルと区別する。ラングは抽象的な社会的共有物であり、言語学の研究対象 である。パロールは現実的で個人的な行為である。

****<音声表象/概念の統一体と言う前提、語は他の語との連合であ り、其の連合体を構造とするのであり、構造の中での位置を、その語の意 味とする。
つまり、一つは、箇々の語にそれぞれ意味があり、其の箇々の意味の連合で
        言語と言う構造体ができると言う考え方。
    二つは、言語と言う構造体があり、其の構造体の中の位置が、語の
        意味をキメるのだと言う考え方、そして位置が決まらなけ
        れば箇々の語の意味もきまらないのであり、箇々の語は単
        に、それぞれが違うと言う差異だけなのだと言う事になる。
言語は差異の体系であると言う時,一個一個の語には、自分は他とは、違うのだと言う事しかなくて、自分は何かであると言う事はないのです。しかし箇々の語には何もないと言う事では、リンゴと言う語に、あるものを無視している様におもえる。

ここでは、言語にある構造とは何かと言うことが問われなければなりません。
車の構造を考える事とする。車と言う構造体があり、其の構造で路上を走る のですが、其の構造体を形成する箇々の部品は、構造体のそれぞれに位置が あり、其の位置により、自らの働きをするのであり、さらに、それが他者と と連合した働きをするのは、他者と違った自分であり自分独自であるからだ しかし、その独自性は、構造体から規定されたものであり、一個一個はそれ ぞれ独自であっても、制限された独自性があるのです。他者と違っている事 には変わりがないが、同時に違いが独自性ということなのです。
箇々のものがそれぞれ独自である事で、さらに相互に連合すると事で、構造 体を形成する。そして、箇々の物を見ても、それだけでは、構造体がどんな ものなのかは、解らないが、その構造体が路上を走ると言う視点から見る時 初めて、走る為の構造が知られ、走る為にどんなものが必要になるかと言う ことで、部品の独自性が予想されるのであり、其の予想を前提に、具体的な 構造体が作られるのである。
構造体と部品とは、相互に規定するのだか、其の構造体が何であるのかを見 ないかぎり、其の相互性を捕らえキレないのです。