読   書   日   記

私が日々目を通す書物に対して、私の今の視点と、了解できない観点を書き抜き、それ
をどのように理解すると、私の了解になるかを目的に日記風に綴っていきたいと思います。

-------------2002年03月10日---------------

貨幣論 岩井克人 筑摩書房

           序
資本主義の危機と経済恐慌
   資本主義社会に矛盾に満ちた運動の局面に成立するもの、此れこそ一般的恐慌である。
   資本主義社会の危機=全般的な過重生産による恐慌。しかし歴史的に恐慌で滅んだ社
   会はいまだかってない。
   社会で流通している貨幣の価値に対する人々の信頼を全面的に揺るがして仕舞う様な
  「通貨の堕落」を、ハイパー・インフレーションと言うのです。
マルクスの価値形態論
資本論「諸商品は、使用価値の雑多な現物形態と共通な価値形態−貨幣形態をなしている。
マルクス以前のブルジョワ経済学者は、この貨幣形態という当たり前の事実を説明する必要を考え なかったのです。
マルクスの主張「何故商品は貨幣と交換される事によってしか価値を実現できないか?」と言う問 いは、商品の価値形態の発展という弁証法的な形式のもとで答えを与えるものです。

私(岩井克人)は、マルクスのこの「価値形態論」の中に、資本主義社会の危機=全般的な過剰生 産による恐慌、と言うマルクス自身の等式を無効にしてしまう、より根源的な思考の可能性が秘め られている事を示す事にある。マルクスに従いながら、マルクスを超えて、マルクスを読み直さな ければならない。
私は、商品の価値形態の発展を弁証法的に追跡していくマルクスの議論をもう一度、事細かく追跡 し直す事によって、マルクスが価値形態論を完成させたと考えた光眩い貨幣形態の姿では、商品の 価値形態は決して完成していない事を知る事になるはずである。

       第一章 価値形態論
貨幣形態をその完成した姿とする価値経緯を、人圏は二千年以上も前からも解明に勤めて来た。
1857年−58年「経済学批判要綱」 最初の価値形態論を試みる。
1859年    「経済学批判」   簡単な議論
1867年    「資本論」     本文での綿密な議論を展開する。
1872年    「資本論第二版」  今日みる最終的なかたつになる。
マルクスの批判した対象とした経済学「ぺティー、スミス、リカード」などの古典派経済学のこと なのです。
古典派経済学の成果「使用対象の価値としての規定は、言語と同じ様に、人間の社会的な産物である。労働生産物は、それが価値である限りでは、その生産に支出された人間労働の単に物的な表現でしかないと言う後世のの科学的発見は、人類の発展史上に一時代を画すものなのです。」
   ものの価値とは、その生産に社会的に必要となる労働時間によって規定されると言う
   労働価値の法則、すなわち価値法則である。<労働生産物は、それが価値である限り
   その生産に支出された人間労働の単に物的な表現である。>
現在の経済学者でも<価値を形成する実体としての抽象的人間労働><対象化><物質化>について語るその実体論的な語り口が、余りにも古色蒼然としているために、マルクスの労働価値論から何とか実体的色彩を薄める為に躍起となつているのです。
しかし、マルクスから実体論的思考を取りの退いてしまうと、価値形態論を可能ならしめた新たな思考の可能性をも見失う結果になるのです。
マルクスにとって、価値を形成する抽象的人間労働とは、あらゆる人間社会に共通する超歴史的な実体以外のなにものでもないのです。

マルクスのこの超歴史的な実体とは、例えば分子としてのH2Oが、常温で現す液体形態、低温で現す固体形態、高温で現す気体形態という、実体と形態の区別の実体であって、液体としての<水>、固体としての<氷>、気体としての<水蒸気>とは別のところに、分子があると言うような事ではないのです。分子としてのH2Oの、分子運動のあり方が、各形態の違いとしてあり、その分子の運動に一定の法則性があって、その法則を認識する事で、各形態移行をも捕らえる事ができるのです。実体と形態は、構造として成立しているのであり形態が変化であり、実体が不変なものであるから、一方は歴史的なら、他方は超歴史的だと言っているの過ぎぬのであり、その不変を、変化とは別の所に、つまり神のそばにあるかの様に考えるから、あやまりなのです。形態と実体の区別は、存在の区別ではなく、あくまでも論理的概念の区別であり、存在としては構造としてあるのです。日常的な思考として見た場合、例えば、<今朝の寒さで、外のバケツの水か、氷になつた>と言う当たり前の言い方に対して、水自体かそのまま、氷になったと結論しやすいのだか、しかしこの場合の水とは物体としての次元では、分子としてのH2Oの運動が、今朝の寒さで、固体形態を成したということであり、バケツの中に入っているものと言う次元では、寒さであろうとそれらの変化に関わらず、相変わらず同じものであると言う意味で<実体>とされているのです。科学的な論理としては分子と言う思考になるのでしょうし、日常的には、バケツと言う容器とその中に入るものと言う関係から見た場合の水のあり方を、実体としているのです。
とすると、労働を実体として規定する事は、色々な形態の社会にあつても、封建性社会、原始社会であっても、人間は相互に共同して労働して生産物を生産し、分配すると言う事がなされていると言う事を言っているのです。

マルクスは、価値の実体が超歴史的なものだとしたら、歴史と供に変化しうるのは、実体たる価値が現実に表現されるその形態だけであるというのです。そして、私的な所有者同志の商品交換をその基盤としている資本主義社会では、超歴史的な価値の実対は、商品と商品との間の「交換価値」と言う特殊な形態によって表現される事になると言うのです。実際「交換価値は価値の現象形態にすぎす、<価値>ではない」と、マルクスはいっている。
商品の交換価値とは、超歴史的な価値の<実体>の特殊歴史的な「形態」であると言う立場をその晩年まで変わらず、持ち続けていたのである。

−−超歴史的なものが、どのようにしたら歴史的になるのかと言う素朴な疑問は、変化しないものがどのようにしたら変化するのかと言う事と同じだし、変化しないものが<何らかの>外圧によって変化したなら、それは<変化しないもの>とはならないはずであるから、前提に反する事になるのです。つまり、歴史的−超歴史的、変化−不変化、と言う区別に対して存在論的な捕らえ方をするかぎり、両者の移行を考えざるを得ないのです。

「価値法則」が「自然法則」なら、それを科学的に証明する事は出来ない。それは自明なものとして発見されるだけである。マルクスの資本主義社会に関する科学(=資本論)の目的とは、超歴史的な価値の<実体>が、まさにどのようにして商品の交換価値と言う特殊歴史的な「形態」として表現されるのかを示す事にあるのです。
−−超歴史的な価値である<労働>とは、人間が生きている限り、人間の生命を維持する為に自然に働きかけ、自然を体内に取り入れる事で、栄養とすると言う事であり、其の事は時代とかに関わらないと言う事であり、もしあと2000年たったら、人間はモノを栄養にすることなく、精神だけで生きて行く事ができるのだと言う事なら、モノを食べる為の自然への働きは歴史的と言う事になるのかも知れない。自然への働きかけるに対して、<どのように>働きかけるかは、歴史的な変化を被るのであり、どのような変化の中であつても、<自然へ働きかける>と言う事は、いつでも成立っているのであり、其れを超歴史的と言っているの過ぎないのです。存在論として考えるから、超越的存在と考えるから、<超歴史的なモノと歴史的なモノ>という規定になってしまうのであり、あくまでも論理的な規定であり、超越論的に考える限り、歴史的変化とは形態の違いであり、超歴史的とは、実体として規定されたものと言う事になる。
   価値の実体−−労働
   価値の大きさ−労働時間
   価値の形態−−価値に交換=価値と言う刻印をおす

三番目の価値の形態についてのマルクスの考え方が、単的に示されている所。
それは、俗流経済学者サミュエル・ベィリーに対する批判に現れている。
「S・ベィリーの様に価値形態論の分析に携わってきた少数の経済学者達が少しも成果をあ げる事が出来なかったのは、一つには彼等が、価値形態と価値を混同しているからである。」 形態の分析に対して、その価値の実体の事を忘れてしまつているのです。
古典派経済学批判
「古典派経済学は、価値と価値量とを分析し、これらの形態の内に隠されている内容を発見した。しかし、何故労働が価値に、そして継続時間による労働の計測が、労働生産物の価値量に表されるのか、と言う問題を今だかって提起した事がなかったのです。」 
「商品の、または特に商品価値の分析から、価値をもさに交換価値となす所の価値の形態を見つけだす事に成功しなかったということなのです。
古典派経済学は、この価値の実体たる<労働>が資本主義以前の社会にも共通している超歴史的なものである事を理解していなかったと、マルクスといっているのです。つまり、資本主義社会に特有な商品の交換価値が、資本主義社会に特有な「形態」にすぎないのに、全社会にまでにひろげてしまったのです。特有な形態を、普遍的な法則にしてしまったのです。

「労働価値論」によって可能性を開かれたマルクスの「価値形態論」が、まさにその展開の過程で「労働価値論」そのものを転覆させてしまう論理構造を生み出してしまうという逆説が現れて来る事を私(岩井克人)は予想するのです。

     

 価値体系の科学


資本論の出だし:<巨大な商品のあつまり>、一つ一つの商品は、諸社会の富の基本形態であるとき、商品は、人間の欲望の対象としての使用価値の雑多な集まり、モノの寄せ集めでなく価値の担い手としてのモノであるのです。

−−巨大な、商品の集まりと言う時、人間の欲望の対象としての使用価値であるものに対して、その単なるモノが、商品として集まっていると言う事なのです。そのモノが商品と言う規定を得るのは、モノが価値物としてあると言う事なのです。

商品の世界とは、単なるモノの寄せ集めではなく、価値の担い手としてのモノとモノとの間に成立する様々な関係の総体、すなわち「価値体系」にほかならない。
−−<価値の担い手としてのモノとモノ>と言う事に対して、使用価値をもつモノが、価値の担い手になるのは、そのモノのどんな働きによるのかと言う事になる。
商品はモノでもあるが、モノはそのままでは商品ではない。価値形態論で論じられるのは、あたえられた商品世界のなかで、価値の担い手としての商品がお互いにどのような関係をもたなければならないかと言う問題である。そこで、いわば主体も客体も共に商品であり、話される言葉は「商品語」である。此れに対して、交換過定論において論じられるのは、モノの所有者どうしの現実的な交換を通して、単なるモノがどうようにして価値の担い手としての商品に転化していくのかと言う問題なのである。

古典派以降、マルクスの価値論以外の価値論
1870年 メンガー、ワルラス 一般均衡理論
新古典派の経済理論の方が、価値体系の科学としては比較にならない程の「進化」をとげている。消費者の主観的な選択と生産者の技術的な選択とを分析する手法としての限界原理(微分法)を駆使して、古典派やマルクスの労働価値論を(生産技術の線形性の仮定と労働を唯一の希少な資源とする仮定に全面的に依存している)特殊モデルとして葬りさることになる。
ワルラスの一般均衡理論:資本主義社会をお互いに依存関係にある数多くの市場のネットワークとして捕らえ、全ての市場の需要と供給を同時に均衡させる価値体系(一般均衡価格体系)の存在を数学的に証明したのである。商品社会の中の全ての商品の価値(均衡価格)は、当然すべての市場の需要関係に依存する。商品の価値とは必然的に価値体系の中の一つの価値にすぎず、ひとつの市場の需給関係が変化すれば、それは同時にすべての商品の価値を変化させてしまう事になる。ここに価値体系の科学としての経済学が形式的に完成をみたのである。
ワルラスの後継者バレーを通じて、ソシュールに強い影響を与えて、言語を純粋な価値の体系として規定したのである。
マルクスの思考を古典派経済学や新古典派経済学の「構造主義」から区別するのは、商品世界の中でこの価値の「体系」とは、いったいどのような「形態」を持たなければならないかと言う問を発したところにある。その形態が、「貨幣形態」なのである。

貨幣形態


古典派経済学
  ヒューム:貨幣は商品流通のにおける、財貨の交換を円滑にする為の潤滑油
  アダム・スミス:貨幣は、財貨を買う事のためにある。
  リカード:交換を行う媒介物にすぎない。 
貨幣それ自体には何の価値もない。一国内に蓄積された貨幣の量は、実体的な富としての商品世界には、なんらの影響もあたえない。
それに対するマルクスは、古典派経済学が、重金主義の諸偏見を恐れる余り、長い間貨幣流通の緒現象について判断を下せなかったと、重金主義の立場で、批判するのです。

<A 単純な価値形態>
 ひとつの商品世界:リンネル、上着、お茶、小麦、鉄が含まれている。
これらのモノが商品である事は、各々が価値の担い手として、お互いに一定の関係を成立させている事を意味している。<ところで、一商品の価値は、どのようにして表現されるのであろうか?>

   20エレアのリンネル=一着の上着 −−(1)
相対的価値形態    等価形態
相対的価値形態にあるリンネルと言う商品は、自分と異質のモノであ上着を自分と直接に交換可能なものとする事によって、自分自身の価値を表現している。

−−(1)の左辺商品リンネルの価値は、右辺商品上着の姿のままで、表現されることで、始めてリンネル商品の<価値>が何であるか解るのです。しかし、商品であるリンネルに対してそこに価値があると言うとき、<そこに価値がある>と言う言い方は、どこから生まれて来たものだろうか。価値と言う言葉が示す対象が、どのようにして措定されたのであろうか。それは資本論の論述以前になされていた研究の中で明らかにされている。それは商品が貨幣で買われたり、売られたりする時の、商品の価格に対して、価格がいったい何を表しているのかを明らかにしようとすると、その商品にどれくらいの労働時間が付加されたかで、価格がきめられると言う経験が成立している。この経験は、古典派経済学が追求して来た「労働価値論」が、追求した問題なのです。労働生産物としては、使用価値として人間の欲望を満たすものであり、商品は、使用価値と言う側面ではない別の面がある事が想定される事で、始めて、使用価値ではないと言う意味での交換価値が想定されたのです。そして、使用価値ではない別のものとしての交換価値が、価格として貨幣で表示されるのです。二千円と言う貨幣ではなくて、商品に二千円という価格が付けられていることの解明なのであり、最終的には商品の価格のもとである二千円と言う貨幣についての解明がなされるのですが。商品の交換価値の、貨幣的表現が、価格ということになり、その交換価値についての問が、始めて学の研究として成立したのです。

私達が日々経験している、商品の価格と、その価格と同じ表示の貨幣と交換する事が、その商品を買うと言う事であり、商品を所持する人から見れば、相手から貨幣から受け取り、売ると言う事になります。その商品の価格を決めるもの何かと言えば、その商品たる労働生産物を作り出す労働量によると言う事が、古典派経済学に依って明らかに去れたのです。

アダム・スミス<価値に二面があり、一面はある特定の対象の効用であり、モノの属性による使用価値、もう一面は、その対象を所持する事で、他の商品とどのくらいの比率で交換できるか−−つまり、自分達が持っているモノは、自分の使用の為ではなくて、あくまでも他者の所持しているモノとの交換の為であると言う時代状況の中にいるのです。−−と言うモノが交換能力としての交換価値なのです。>この交換能力は、価格として表されるのです。価格を前にして、その価格が商品の他の商品に対する交換能力、交換価値の貨幣による表現であると言う理解になるのです。仮に貨幣がない場合、一商品の他の商品に対する交換能力は、商品同志の 量の違いとして表される。とすると、(1)は、左右の商品の、量の違いが、各々の交換能力交換価値の違いである事を示しているのです。この量の違いが、交換価値の違いである時、論理的には、同一の質を前提にして、その質を持つもの同志に量的違いが生ずるのであり、だから量的違いである交換価値の違いは、その同一の質として<価値>を想定するのです。諸商品は、交換価値を持つから交換されると言う時、交換の場における交換価値とは、各商品の量の違いと、同一の質の両方を含んでいるのであり、量としては、交換価値とし、質としては価値を再規定するのです。ここで初めて価値と言う言葉の対象が探し当てられたのです。
価値を持つ箇々の商品が、交換関係に入る事で、関係の両端の商品は、交換価値として、量的比率として現れている。更にその量的比率は、貨幣を媒介する事で、各々の価格の違いとして示されるのです。
(1)の両辺のモノに対して、商品関係から捕らえる時、モノとしてはあくまでも使用価値でありながら、同時に交換価値として現れる<価値>でもあるのだが、前者の使用価値としてのモノの場合、人間の具体的な労働の成果であるのに対して、さしあたっては、その具体性ではない<抽象的労働>の成果として規定する。モノが形成する商品関係の内部において、モノが商品として振る舞うのは、<価値>である限り、使用価値を形成する具体的労働に対して、その具体的でないと言う意味で、抽象的労働と言う事なのです。しかしこの抽象は、人間の頭の中の妄想ではなくて、モノが商品関係の中で繰り広げる、<価値>の働きを、労働の観点から 再規定したものに他なりません。つまり、モノをあくまでも、労働生産物として見るのでありその観点から労働の生産物とは、労働の投下されたもの、実体化された労働の擬固したものと捕らえることが、モノの商品関係の内部で成立している構造把握の始まりなのです。

両辺の各モノは、自分が持っている<価値>を、自分の使用価値ではなく、商品関係−−この関係は、例えば二人の人間がいて、彼等の間の親子関係に対して、一方が母であり、他方が子であると言う論理構造なのです。−−を形成している、相手の使用価値を使って表すとき、自分は、内部にある<価値>なるものによって、交換可能だが、相手はその姿のまま交換可能であると見えてしまうのです。現に交換関係に入っている事を前提に、その関係の内部の構造として成立しているものを、ここでは明らかにしているのであり、仮に自分の価値を、自分の使用価値で表すとしたら、各商品は使用価値であるから、交換されていると言う事に過ぎなくな るのだが、しかし各商品はその商品を所有している人にとってではなく、相手にとって有用物であって、相手にその商品が渡らない限り、有用物として機能しないのです。自分にとってではなく相手にとって有用物であると言う事を、各商品に使用価値と同時に価値がと規定するのです。
私にとって、S電器店のビデオコーナーに置かれているDVDプレイヤーは、映画を見るのにとても役に立つ事はわかっているので、そのまま泥棒をして家に持ち帰れば、映画は見る事ができて、DVDプレイヤーの使用価値を実現できるであろうが、しかしそれが商品としての価値を表している価格に対する貨幣を、店側に払わないかぎり、商品の価値を無視した事になっていると言う意味で、そこに価値が存在しているのです。

等価形態にある上着は、そのあるがままの姿でリンネルとの直接的な交換可能性を持つ事になり、あたかもそれ自体で価値をもっている様な錯覚を生み出してしまうからです。金銀そのものに価値があるから金銀はありとあらゆるものを手に入れるのだと主張する重金主義者の様に上着そのものが価値をもっているからリンネルと言う商品と交換できるのだと言う様に。
上着がリンネルと直接に交換可能なのは、リンネルが自分との直接的な交換可能性を上着に与えていると言う社会的関係の結果にすぎない。モノの性質とはモノに内在していると言う日常生活に根ざした人々の先入観によって、上着もまたリンネルとの直接交換可能性を、重さがあるとか保温に役立つとか言う性質と同様に、うまれながらにもっているように錯覚されてしまうのだとマルクスはいうのです。

−−まだ私の手許に残っているキャベツの山は、綺麗に箱詰めに去れて市場に持って行かない限り商品として成立しないと言う現実の交換過程の問題は、箱詰めする人がいなくて、畑で腐ってしまえば、商品にならないのは明らかである。それに対して、諸物が商品関係を形成する事は生産物が、手不足の為に市場にもつて行けないと言うようなことではなくて、今作っているモノが、自分達の食用の為でなく、売る為に作っていると言った事を対象にしてなされる論理的追求なのです。その論理的追求においては、労働生産物は商品関係と言うレベルで捕らえられていて、その関係の内部の問題として使用価値、価値、交換価値が示されているのです。
だから、あたかも金銀はその姿のまま、価値があるからあらゆるものを手にいれるのだと短絡してしまうのは、それらを含む商品関係世界の出来事である事が見えていないからなのです。
その関係の内部の出来事なのに、金銀が独立してあるかのような振る舞いをする事が、関係の内部で成り立っていると言う理解になります。

<社会的関係>と<モノそのもの>の性質との「取り違え」を生み出す等価形態の不可解さこそ、単純な価値形態の中に秘められていた「貨幣形態の秘密」なのだとマルクスは言う。
単純な価値形態Aは、一連の諸変態を経て始めて価格形態にまで成熟する事の、不十分な萌芽形態である。いったい何処が不十分なのだろうか。

「貨幣形態」あるいは「価格形態」が、完成された価値形態であるのは、ある特定の商品が等価形態の位置を占める事により、その特定の商品に投下された労働の量が基準となるからです。投下された労働の量が、金を掘り出す時間である事に対して、一時間で掘り出した量が2kgと、違う労働生産物を1時間で作った量と等価関係に置くとすると、金2kgで表すことになる。金も野菜も具体的労働でありながら、その金に投下されるた労働の時間が、他の労働の時間の基準になる事で、生産物である金の量が、基準ある具体的なモノとして成立する。この基準となった金の量を、特定の形である円形に作る事で、その段階で金貨と言う貨幣になり、さらに一枚を数量表現としての1円と置けば正に貨幣になる。
すべての商品は、そこに投下されている具体的労働でありながら、商品関係の内部では、等価値形態にある金の具体的労働で表される事で、具体的労働は、そのままで新たな規定を得る。それが、社会的労働というきていである。この社会的と言う事を、具体的労働に対して、抽象的人間労働というのです。これが当初抽象的人間労働と言う言葉の対象に他ならないのです。

「資本論」の循環論法の匂い。労働価値論を前提にして商品世界の貨幣形態を導きだし、商品世界の貨幣形態をとおして、労働価値論を実証すると言う事。

−−価値論は、モノが形成する商品関係の内部で成立する事を、あくまでも関係構造で捕らえているのであり、その商品関係は、モノにある使用価値だけでなく、価値によって形成されるのだと言う事を明らかにしているのです。そして箇々の商品の価値は、両辺の商品の使用価値の量的比率として、交換価値として現れているのです。この商品は、使用価値としては、具体的労働のモノへの投下されたものとしてあり−−労働によって生産されたと言う事の論理的な捕らえ方であり、生きた労働の凝固されたもの、投下されたもの、実体化されたものと捕らえる−−さらに、価値としては、その具体的労働とは違った抽象的人間労働の凝固されたものと規定するのです。モノとモノとが、人間の労働によって生産されたものであれば、労働生産物と労働生産物とが、商品関係には入る時、モノの使用価値−−人間の欲望をみたすもの−−相互の量的比率としての交換価値として現れる価値が、労働生産物に成立する。この商品関係を前提にして、関係の両端の役割を追求する事で、形態論が成立するのです。
価値形態論が、使用価値と価値のあり方の具体的あり方だとすれば、労働価値論は、商品の使用価値と価値のあり方で商品関係が成立している事をあきらかにしその使用価値と価値が、具体的労働の凝固したものであり、価値が抽象的人間労働の凝固したものと、実体的に捕らえる事なのです。労働価値論が明らかにしたものは、商品関係の場で成立している構造であり、価値形態論は、構造の動きを明らかにする事なのです。
(1)の単純な価値形態で使用している、商品の価値や使用価値の構造は、正に労働価値論で明らかにした対象の存在であり、その対象の存在が、何であるかを明らかにするのが、(1)の形態論なのだと言う事になります。

貨幣形態にもし秘密があるとしたら、それはこの貨幣形態を固有の価値形態とする商品世界がまさに「循環論法」によって存立する構造をしていると言う事なのです。

<B 全体的な価値形態>
              あるいは(=)一着の上着
              あるいは(=)10ポンドの茶
   20エレアのリンネル あるいは(=)40ポンドのコーヒー
              あるいは(=)一クォーターの小麦
              あるいは(=)2オンスの金
              あるいは(=)半トンの鉄
   全体的相対的価値形態        等価形態
 

   <C 一般的な価値形態>
     一着の上着      および(=)
     10ポンドの茶    および(=)
     40ポンドのコーヒー および(=)   20エレアのリンネル
     一クォーターの小麦  および(=)
     2オンスの金     および(=)
     半トンの鉄      および(=)
   一般的相対的価値形態        一般的等価形態

Bにおける等式=は、すべて「または」で、Cにおける等式=は、「および」で結ばれているBはAにおける等式を無数に並べたものでしかない。リンネルの価値を、商品世界にある全ての商品との直接的な交換可能性によって表現している。
リンネルの価値は、そのたびに交換される他の商品の違った使用価値で表されるために、価値の共通性などある様にはみえないのである。
しかし、リンネルは、等価形態にある無数の商品に対して、「社会化する主体」と言う役割をえんじるのです。
−−20エレアへのリンネルは、等価形態にあるひとつひとつの商品の使用価値で、自分の価値を表す事で、リンネルと言う別の使用価値でありながら、等価形態にある商品の使用価値でもあると言う二重性をしめして、無数の商品に合わせたひとつの社会性を獲得するのです。箇々のモノは、使用価値であるかぎり、単に欲望を満たすものであるが、商品世界には入る事で、自身の使用価値であると共に、他者の使用価値になっている−−自分の価値と言う側面が他者に関わるのではあるが。自分の中の価値と言うものが、一種の社会性ではあっても、それだけでは、社会的な主体とはならないのであり、それは高々成る能力と言う次元の問題でしかないの であり、能力が現実的になるには、自分の使用価値とは別の他者の使用価値をあらわさなければ成らない。ただそれは、リンネルが、2オンスの金になる事ではなく、表現としての金の使用価値になることなのです。リンネルは自分の使用価値でありながら、そのたびに他者の使用価値で自分を表しているのである。この段階では、無数の使用価値で表すと言う事があるだけでなのに過ぎない。

一般的な価値形態Cでは、無数の商品が、自分の価値を、たったひとつのリンネルと言う商品の使用価値であらわすことになり、リンネルは相対的価値形態にある全ての商品によって、一般的等価形態あるいは、社会化された客体と言う役割を演ずるのである。
−−相対的形態にある無数の商品は、それぞれ、自分の使用価値以外に唯一のリンネルの使用価値で、自分の内部の社会性と言う可能性を表す事で、みな同一のリンネルと言う使用価値を共有する事で、はじめて現実的な客体としての社会性をてに入れたのです。商品は、分析のはじめから、価値と言う社会性を内面にもつて入る事を、各商品の見た目にも解る貨幣価格がある事で、気付かれてはいたが、しかしその貨幣も、単に交換の潤滑油の意味しかないといった理解でしか捕らえられていなかったのに対して、内面の価値と外面の価格との関連が捕まえられたと言う事なのです。

単純な形態Aが、社会的なものとしての<価値の概念>に対して不十分であると言う時、価値形態の完成された姿としての貨幣形態を前提にしていて、その姿に向って進むから、途中は不十分なのだと言う結論になります。では、価値形態の完成した姿としての貨幣形態が、<完成した>と言う時、その完成した姿が、どんなものであるかと言う事は、まず貨幣形態の姿として、私達はお金を使う事で経験しているのです。しかしこの経験は、実践的に知っていると言う事であって、お金を使う時に成立している構造を知っている訳ではないのです。−−ちょうど車を自由に乗り回す事が出来ているからといって、車の構造を知り抜いている訳ではない事と同じです。−−その経験的に知っている事、つまり<貨幣形態と言う対象の存在>を知覚していて、その存在を更に構造として認識しようと言う事なのです。とすると、貨幣の存在の知覚を前提にし、この前提が、経験的知と言う事なのだが、その存在の構造を明らかにしようとする事−−所謂概念として認識する事なのだが−−に対して、最初に答えを出しておいて、次に、新たな問に対する答えをだすつもりが、最初の答えの中に含まれているものをだし手いるにすぎないと言う循環論法を当てはめる事には、短絡があるのです。

マルクスは、全体的な価値形態Bが商品の価値形態としては、未だに未完成である点を数えあげた上で次の様に言う。全体的な価値形態は、単純な形態Aの諸等式の総計からなっているにすぎない。
−−あるいは、あるいは、あるいは、と言う事でつなぎ合わさっているにすぎない事。一項目と二項目の間には、箇々の商品の数だけの組み合わせがあると言う事だけであり、A=B,C=D、E=F,G=H,I=J,K=L,,,,と言う事なのです。更にその組み合わせに対してはA=B,A=C,A=D,A=E,,,と言う組み合わせと、B=A,C=A,D=A,E=A,,,との組み合わせから、相対的形態の位置と等価形態の位置でまとめると、形態B,Cの様になるのです。問題は、相対的価値形態と等価形態の各々の働きの違いが、A,B,Cの形態の違いにあっても成立していて、特定の商品が、等価形態の位置には入る事で、他のあらゆる商品が相対的価値形態の位置には入る形態を、貨幣形態になるというのです。ただしその商品の特定性は、ほかの商品の列から外れると言う意味であって、個別的な使用価値として消費される訳ではない。つまり、他の商品と変わらない、単なる商品からでて来ているのに、その等価形態には入る事で、使用価値の実現がなされない商品であり続ける。つまり、使用価値は、使用価値であるかぎり、他の商品と同じであるが、等価形態にはいる商品は、自らの使用価値を、相対形態の位置にある商品の価値の、外部に表現する材料にするのです。材料である使用価値は、その使用価値を実現してしまうと、価値を表現しようとしても出来ないと言う事になる。例えば、金貨を所持していても、その材料である金を溶かして金の指輪にしてしまえば、そこにあるのは金の指輪であって、金貨ではないのです。金貨であるためには、金と言う材料は、貨幣を表す材料であり続ける以外がないのです。つまり、金と言う使用価値は、多様に有用なものとして、振る舞い得るが、価値の表現材料に成る事で、表現材料と言う規定だけを持ち続ける事になる。この表現材料の規定とは、例えば金が特定の<形や大きさや重さ>のまま交換価値の量の単位の現実態となるのです。

<D マルクスの貨幣形態>
     一着の上着      および(=)
     10ポンドの茶    および(=)
     40ポンドのコーヒー および(=)   2オンスの金
     一クォーターの小麦  および(=)
     2オンスの金     および(=)
     半トンの鉄      および(=)
     相対的価値形態             等価形態
諸商品は、何もする事なしに、自分の完成した価値姿態を、自分の外に自分と並んで存在するひとつの商品体として、眼前に見い出すのです。
単純な価値形体Aから出発して、金を一般的な等価形態にする貨幣形態Dによって商品世界の価値形態が完成した時、単純な形態AからD間での過程は、貨幣の後ろに隠されてしまい、その起原はまったく忘れさられてしまうのだとマルクスはいうのです。貨幣が貨幣であるのは商品世界の存立構造そのものが必然化する社会的な実在なのです。

貨幣形態の循環論法


リンネルは、それが全体的な相対形態である時、一般的な等価形態にも成る事が出来、それが一般的な等価形態である時全体的な相対的価値形態になる事ができる。商品世界において、リンネルが全体的な相対的価値形態である事と、リンネルが一般的な等価形態である事とは、お互いがお互いの成立の為の根拠となっていると言うまさに宙づり的な関係になっているのである。貨幣とは、全体的な相対的価値形態と一般的な等価形態と言う二つの役割を商品世界の中で同時に演じている、いや演じさせられている存在である。

−− 20エレアのリンネル=一着の上着 −−(10)
一着の上着=20エレアのリンネル −−(11)
相対的価値形態    等価形態
単純な価値形態における両辺の役割の違いは、どちらも自らの<価値>を、相手側の使用価値で表すのであって、自分の価値を自分の使用価値であらわせれば、(10)も(11)も、等価関係は成立する事などないのです。(10)のリンネルが、自分の価値を、上着の使用価値で表す時、同時に上着も自分の価値をリンネルの使用価値で表していると言う事なのではないのです。単純な価値形態Aにおいては、各々の商品が自分の価値を表そうとする時、相対的価値形態の位置を占めなければ成らないのであって、それが(10)(11)の価値形態なのです。リンネルを所有する者と上着を所有する者とが出会い、相互に自分のモノと相手のモノとを交換する時、相互の交換で所有関係が変更になるだけであり、それに対してA所有者が、自分の商品を等価形態に位置に置くと言うような事は、自分の商品をあらゆる商品と交換可能な位置に置こうと言う事であり、他の所有者達はAの商品を手に入れても、使用価値として使う訳では無く、B所有者のB商品を手に入れる為の交換手段となる為のモノとナルからです。どの所有者にとっても、相互に交換して、相手の生産物の使用価値を、例えば食べる事で、消費する為に手に入れる事なのだが、A所有者は、自分にとって自分の商品の使用価値は無視され、つまり自分で消費する為にあるのではないのであり、各所有者にとって、自分の商品は、価値のみが問題となるのであり、相手の商品は使用価値が大事なのであって、だから相対的価値形態と等価形態とは区別された存在であり、その存在の区別の内、等価形態にある商品は、使用価値だけが問題であって、さらに使用価値の存在が、相手の価値の表現素材としてのみになることで、特殊な商品となるのです。私達はその商品を手に入れても、紙としては使えないし、金属としても無理なモノなのです。等価形態にある商品に価値の規定を与え様と考えるのは、(10)(11)のどちらにあっても、交換における価値と使用価値のあり方を捕らえているはずなのに、その論理が使われていないからだ。だから貨幣と言う商品が、相対的価値形態と等価形態との間を行き来する循環論的な存在であると言う結論にはならないのです。

左辺=相対的価値形態、右辺=等価形態 と言う価値形態を前提に、リンネルの価値を、上着の使用価値で表し、上着の価値をリンネルの使用価値で表す、と言う理解からすれば、リンネルは、相対的価値形態と等価形態の両形態の規定を得る事になり、ある特定の商品が、その形態を得る事で貨幣と呼ばれる様になったのだと言う結論になるのです。ある特定の商品は、相対的形態と等価形態の両形態を兼ね備えると言う理解なのです。ある時は相対的形態で現れ、他の時は等価形態で現れるという、その形態を使い分ける存在としての商品が貨幣なのだと言う事です。
左辺A商品(相対的価値形態)=右辺B商品(等価形態)−−(6)に対して
左辺B商品(相対的価値形態)=右辺A商品(等価形態)−−(7)と言う等式も取りうるので、商品AもBも、等価形態でありうるし、相対的価値形態でもありうるのだと言う事なのです。一つの商品が二つの形態を兼ねると言う理解です。しかし、(6)(7)の等式に対して、これを一つにする考えは、この等式を上から見おろす立場が、形態と同じ存在と成る超越的存在観点によって成立しているのである。見おろす立場は、其の形態の両辺にある商品A、Bと同じ存在であり、形態は、あくまでもその商品が形成する関係概念であり、商品Aが相対的価値形態をとるとき、商品Bは等価形態を執ると言う事です。<超越的>と言う時、商品A、Bの存在と同じレベルにありながら、高みから見おろすと言う事であるが、<超越論的>と言う時、商品A、Bという存在が形成する価値関係を、各商品から見た時のあり方を示していて、商品Aが自らの価値を----相対的価値形態といい----他方の商品Bの使用価値で表す----等価形態と言う----ことを、<相対的価値形態・等価形態>と表現しているのです。例えば、二人の男がいて、彼等の間に兄弟と言う関係がある時、一方が兄なら、他方は弟であるということで、ただ三人の男ABCがいれば、Bは、Aに対して兄であり、Cに対しては弟であり、Bは兄であり、弟であると言う事であるの過ぎない。つまりBは二つを兼ねていると言っても、Aに対してとCに対しての二つの関係が成立しているからだ。しかし、特定の商品が、両形態を兼ねると言う判断は、関係と関係を形成している実体の同一視から生じているのであり、商品A、Bは、関係の両端に自由に入れ代わりができても、それは同時に二つの形態を兼ねると言う事では無いのです。商品Aが自らの価値を、商品Bの使用価値の姿で表す事知で結ばれる価値関係は、商品Bが自らの価値を、商品Aの使用価値の姿で表す関係でもあると言う事では無いのです。商品A=商品B と言う交換関係は、商品B=商品Aでもあり得ると言う理解は、商品と言う存在のレベルでの理解であり、その商品がむすぶ交換関係を、相対的価値形態=等価形態と規定する事で、始めて交換関係が、その関係を形成する実体としての労働の取結ぶ形態のあり方として示されて来たのです。商品A=商品B と(6)のレベルの違いを把握しておかないと、商品A=商品B、商品B=商品A が成立する事と、(6)(7)とを同一視する事になるのです。


(註1):吉本隆明(消費のなかの芸)−−ベストセラーを読む ロッキング・オン
岩井克人「貨幣論」:この本の半分以上は日本のインテリにしか向かない啓蒙書である事。
著者はマルクスの労働価値説が、マルクス自身が展開している貨幣論と矛盾をきたして破産すると解く事に大部分を費やしている。マルクスの貨幣論ははたして岩井克人が議論しているような弱点をもっているのかどうか。
吉本のマルクス労働価値説:一番単純な労働価値説の起原は、いま野生の所有者のないリンゴの木が、誰の所有地とも言えない場所にあってリンゴの果実がなっていた。この果実の価値はどう決められるのか。一人の人間がその木まで歩いて行って幹に登りリンゴのもいで、木をおり、もとの場所へ戻って来るまでに費やした労力が、その果実の価値である。−−木の所まで行き、木にのぼり、リンゴを取り、木をおりて、また元の場所に戻って来るという一連の運動に対して、その一連の運動が、投下されることで、運動が実現されると言う論理なのであり、木になっているリンゴが、私の所まで持って来られたと言う事が、リンゴに運動が実体化されたということなのです。運動の成果としてのリンゴに対して、リンゴの中に凝固した労働からリンゴを見る時リンゴに実対化されたけ労同を価値というのであり、生きた労働は、実体としての、凝固した労同を形成するにしても、その生きた労働と凝固した労働とを区別しなければ、価値論の論理は把握できないのです。−− これがアダム・スミスの描いた労働価値説の起原だ。
    20エレのリンネル=1着の上着 ・・・・・(1)
この等式の意味するものは、20エレのリンネルの価値は、1着の上着の価値に等しい、あるいは等価であると言う事なのです。20エレのリンネルを織るために費やした社会的に有用な労働力の価値は、1着の上着を縫い上げる社会的に有用な労働力の価値に等しいという。20エレのリンネルの方を相対的価値形態とよんでいる。何かと比べてみて、はじめてリンネル自身の価値が解る商品の状態と言う意味である。1着の上着の方を等価形態という。比べられる事で、リンネルに、自分である上着は、リンネル貴方に等価である事を知らせる状態の意味である。<相対−等価>と言う区別分けにどんな意味合いが有るのか考えてしまう。
    1着の上着=20エレのリンネル ・・・・・(2)
とすれば、1着の上着が相対的価値形態に成り、20エレのリンネルが等価形態になるからである。
(1)(2)は同じでは無いかと言う疑問がでて来る。この本の作者岩井克人はその様に考えていない。貨幣だけが、二つの形態を備えていると考えている。貨幣だけが二つの形態を交互に無限に繰り返せれるものだと考えている。岩井のマルクス理解では、「相対的価値形態と等価形態」の役割はあいだを循環論法的に繰り替えすのが、貨幣と言う商品だけが持つ特性と言う事になる。私はこのような理解をしていない。あらゆる商品は皆主体を何処に置くかによって相対的価値形態と等価形態のいずれかの役割を持つ事ができる。貨幣もまた商品であるかぎり、同じだと言う事にすぎない。
   「鋳貨は、マルクスが言う様に<使われる事によって、使い減らされる>のではない。
    それは、たとえ重さが減らされても、人の手から手へと渡って行くその貨幣としての
    機能が減らされる事が無いからこそ重さが減らされたまま使われ続けるのです。」
岩井には貨幣の価値の二重性の議論を深めようと言う気は少しもしないのだ。素材としての「重さが減らされていても」「機能が使い減らされる事がないからこそ」1ポンド金貨として通用するのだと言つて済ましている。一見マルクスだって、私達だつて知っている貨幣の持つ価値の二重性の事を、別の言葉で言っているだけの様にみえる。しかしそうではない。使用価値は減らされるも加えられるもないのです。岩井の論理構造が機能にしか重点をおかないから、使用価値への関わりの有無を理解できないのです。
現在まで貨幣は金貨、銀貨の様な貴金属素材から紙幣、証券や手形のような紙切れ、それからコンピューターの画像まで見かけの形態を変化させて来た。別の言い方をしてみれば素材としての商品価値を限り無く空無やイリュージョンに近付けて来た。それでも、1ポンドの額面をもった空無やイリュージョンに近い素材で1ポンドの交換価値を持つ商品を買い取る事が出きるのはどうしてかと言う問いがでてくる。
 「じつは、その1ポンド紙幣をいつか何処かで誰か別の人が1ポンドの価値をもつ商品と交換に受け取って  くれるのは、そのひともそれをいつか何処かで更に別の誰かに1ポンドの価値を持つ商品と交換に、受け  取って貰おうと思っているからだ。」
この先送り論は、先送りが不可能な人類最後の審判の日や、国境や人類を超えた世界貨幣の世界規模の振る舞い方にまで言及される。本当かね!と言う前に、貨幣の額面価値の普遍的性格、別の言葉で言えば貨幣が額面として持っている価値は、確かに交換価値なのだが、全ての商品の使用価値、形態と実質、個別性から抽象された共同性としての普遍価値ともいうべき性格をもつため、その紙幣の素材としての意味も、普遍価値の根拠である素材の価値対象を全く紙幣と商品との交換の外側に置いて仕舞う事も可能なのだと言う議論に行こうともしない。有るのは機能の先送り論だけである。
紙幣の持つ普遍的価値は素材から全く遊離する事であるが、素材がいら無いと言う事では無いのです。自然的物質としての素材のあり方が問題になるのであり、素材の社会的ルールで<素材>と言う側面を補うと言う事が課せられるのです。貴金属が材料として使用されるのは、指輪やネックレスになる光り具合などがあるからではない、貴金属の使用価値が実現されるとしたら、指輪やネックレスや携帯電話の内部接点などに使用される事なのだが、しかし貨幣としての貴金属の使用価値は、価値の表現素材と言う事でしかないのであり、だから、<価値の表現素材>になるなら、なんでもいいのだが、ただ社会的ルールが成立すればいいのです。価値形態論からすれば、等価形態の位置にくるものが何であるかは、その使用価値の特性によるのではない。持ち運びに際して、なるべく磨耗しないとか、物まねされて貨幣を作られない様にするといった事が必要になつてくるのです。なにを等価形態に置くかは社会的ルールであると言う事は、貨幣は国家がきめるものだという短絡につながつてしまう。貨幣とは、結局商品が等価形態にならざるを得ないのはなぜかと言うことなのです。

眼の前の先進地域国家の現在の軒並みの不況を分析してみせてもらいたいものだ。そうすればすぐに機能思考がはつきりするからだ。