読   書   日   記

私が日々目を通す書物に対して、私の今の視点と、了解できない観点を書き抜き、それ
をどのように理解すると、私の了解になるかを目的に日記風に綴っていきたいと思います。
-------------2002年03月15日---------------

ヘーゲル推理論とマルクス価値形態論 尼寺義弘著 晃洋書房
       阪南大学叢書40


第1部 ヘーゲル推理論とマルクス価値形態論

第1章 ヘーゲルの推理論

         はじめに
マルクス価値形態論:資本論初版、本文、附録、第二版、現行版の叙述
中でも、初版本文の脚注(20)のは極めて注目すべき見解があります。
「経済学者達が、もつぱら素材に対する関心に影響されて、相対的価値形態の形態内実を見 落としたのは不思議ではない。と言うのはヘーゲル以前には、専門の論理学者達でさえ、判 断例と推理例の形式内容を見落としたのだからである。」
価値形態の理解を妨げる困難:価値形態における使用価値または商品体の「新しい役割」の               理解。価値関係の「質的側面」からの考察の理解

ヘーゲルの概念論の展開:概念−>判断−>推理は、(普遍・特殊・個別)からなる概念の 自己分化と自己還帰の過程として弁償的方法の要諦をなす。マルクスはこの方法をどの様に 扱ったか。
          推理論の位置づけ
  ヘーゲル論理学の構成−−有論・本質論・概念論
          概念論−−主観性・客観性・理念
          主観性−−概念論・判断論・推理論
    この主観性の展開は、大まかにいって、概念が自己自身を分化させ、再び自己自身     へ帰還する過程である。<統一−分裂−再統一><同一−区別−同一><単純−複     雑−単純>と言う過程。
 概念:普遍・特殊・個別と言う三つのモメントよりなり、萌芽における生命の単純な自己     同一性である。形式論理学での概念が、抽象的普遍すなわち特殊性を度外視した共     通なものを言うのに対して、ヘーゲルの概念は、自己自身分化するものであり、自     己の他者にあっても、曇りない姿で、自己自身のもとに止まっているものである。
概念をなす普遍・特殊・個別の相互の関係は、「普遍は特殊や個別よりも該程が広く、また 特殊は個別より外廷がひろい」と言うような量的な相関関係にあるのではない。

          形式的な悟性推理の批判
ヘーゲルの形式的な悟性推理批判:定言三段論法批判 その形式に含まれる内容を明らかに し、独自の推理論<個別−特殊−普遍>を構築する。
  このバラは赤い。−− 赤は色である。−−故にこのバラは色をもつものである。
この推理において、主語(このバラ)である個別は、それの一つの特殊な質(赤)を媒介と して、普遍(色)と結合される。形式論理学では、バラは赤に包摂される。赤は色に包摂さ れる。だからこの推理を、概念の内包・外延関係からみるのです。したがって、事物の本質 とは何か、推理はその本質をどのように把握し、叙述するかと言う様な認識論的思考は形式 的推理では問題にならない。
形式論理学への批判:主語は多くの規定性(性質:バラの諸性質)をもつ直接に経験される 個別的な具体物である。ところが、媒辞はそれらの規定性の内のただ一つの特殊な規定(赤 )にすぎない。さらに媒辞もまた主語と同様に多くの規定(赤の諸性質)を持つ事から、同 じ媒辞によっても多くの異なる普遍に連結されうる。
この推理は、相互に外的な関係にある推理であり、真の媒介を持たない直接的で抽象的な推 理である。
共通性としての抽象的普遍ではなく、普遍・特殊・個別の統一として、具体的普遍である。

第二章 マルクスの価値形態論


  価値形態論は、貨幣の必然の証明に重要なモメントをなしている。
価値形態論はマルクスが資本論の完成にあたり、理論上最も心血を注いだ部分のひとつであ る。初版出版後も準備草稿で何度も手を加え書き直して、推敲をくり返して入る事からも容 易に伺える事が出来るのです。
(1)価値形態論の課題−−探究の過程と叙述の過程

「諸商品−−使用価値の雑多な自然形態とその自然形態と対照を成している価値形態−貨幣 形態を持っている事。これは誰でもしっているのである。」
その貨幣形態の生成を証明する事が、資本論の課題である。諸商品の価値関係にふくまれる 価値表現の発展を、その最も単純な最もみすぼらしい姿から、光り眩い貨幣形態いたるまで を、追跡する事が課題である。
貨幣形態の概念における困難:一般的等価形態、一般的価値形態、形態Cの理解に限られる  形態Cは逆の連関で形態Bに、展開された価値形態に分解し、そして形態Bの構成要素は 形態A、すなわちx量の商品A=y量の商品B である。それゆえ、単純な商品形態は貨幣 形態の萌芽なのである。

価値形態の叙述の仕方と、研究の仕方:
  叙述の仕方−−>価値概念から単純な価値形態、全体的価値形態、一般的価値形態、貨           幣形態へと言う展開過程は、現実の表象にある貨幣形態から商品形態           への遡及・分析の過程が前提にされている。貨幣形態から形態Aへの           そして価値概念の定律は、探究の過程の成果である。
    価値概念から貨幣形態を証明する叙述の過程は、この成果を前提にしている。この     ことは貨幣の必然性の証明の過程が、無前提な価値概念の自己展開の過程では、決     してない事を示している。<ただヘーゲルの「概念」だけが、外的素材なしに自己     を客観化するのです。>
  研究の仕方−−>素材を細部にわたって我がものにして、素材の色々な発展形態を分析           し、これらの発展形態の内的な紐帯を探り出すこと。
          この内的紐帯を対象の生命、概念と言う。
価値形態論について言えば、価値実体、価値量、価値形態との「内在的で必然性的な関連」 とそれの根底をなす価値概念を発見することである。叙述は、この価値概念の展開として行 われ、価値形態では価値概念からの発生的展開として叙述され、したがって「貨幣形態の生 成」は、まさに「先験的な構成」であるかの様な観を呈するのです。

(2)価値概念と価値形態
初版「資本論」第一章脚注20
単純な相対的価値表現 x量A商品=y量B商品 の中に、<ただ>量的関係だけを考察す るとすれば、そこに見い出されるのは、すべて、諸商品の価値量は、それらの商品の生産に 必要な労働時間によって規定される、と言う事に基づいている。しかし、両商品の価値関係 をその<質的な>側面から考察すれならば、この単純な価値表現の中に、価値形態の、した がってまた、簡単に言えば、貨幣の秘密を発見するのです。

古典派経済学の根本欠陥の一つは、商品の、また特に商品の価値の分析から、価値を正に交 換価値とする所の価値の形態を見つけだす事に成功しなかったと言う事である。経済学は不 完全ながらも、価値と価値量とを分析してはきた。しかし、経済学は何故労働が価値に表さ れるのか、と言う問題を今だかって提起した事はない。

マルクスは、商品の交換価値の、したがって二商品の交換関係の分析から、価値の実体とし て抽象的人間労働を析出している。この質の極点である抽象的人間労働が、商品生産の社会 では、一つの社会的紐帯の役割を果たしており、したがって社会的労働である。まさに社会 的労働としての人間的労働の結晶が商品の価値なるものである。

商品分析から得たもの:商品の交換関係において、商品にある使用価値と価値に対して、価  値は、両辺の交換価値量として現れている。その量は価格として表示される。その商品は  私達の労働の成果として労働生産物として成立していて、使用価値と言う側面が、具体的  労働の投下されたモノとすれば、価値は、その使用価値ではないという意味で、具体的で  ない、抽象的と言う規定を与えるのです。ただこの段階では、具体的ではないと言う事で  あって、その内実はまだ明らかに去れていないのです。この段階での商品の価値は、まだ  商品と呼ばれる労働生産物に内在する<何ものか>であって、その何ものかをここでは価  値と言う言葉で表現しているのです。
 諸労働生産物が、交換関係を形成する時、その関係の両辺の生産物は、量的比率として関  連するのです。この量的比率の事を交換価値といい、この交換価値が、価格として表され  ている。この量的比率を支えるのが、両者に共通して内在する価値なるものです。両者に  内在する価値が、交換関係の際に、両者に交換価値として現れているのです。商品である  ものを単なるモノと見ずに、人間の生きて行く為のもの、つまり、人間の欲望を満たすも  のとみることで、モノは人間の労働の凝固したものとなるのです。
労働の生産物同志が、商品関係を結ぶ時、その関係の両辺にある生産物にある使用価値と 価値は、前者が具体的労働の投下され。凝固したものとするなら、後者は、その具体性で ない労働が、投下され凝固したものと考えるのです。具体性が無いと言う意味で、抽象的 であるというのです。この否定的な規定性に対して、具体的な内容がどのようにして与え られるかと言う事が、これからの問題なのです。
古典派経済学は、箇々の商品に内在する価値が、交換関係において、各商品の量的比とし て現れている事を捕らえ、その量的比が、人間の労同時間の違いである事を結論したので ある。しかし、その結論は、商品が、労働の生産物として労働の投下され、凝固したもの であると言う段階まで行かずに、日々生きている労働と、その労働がモノに投下され、凝 固したと言う<実体>と言う把握が出来なかったのです。商品関係にあるモノが、<精神 と物質>と言った、客観的なものとして把握されているだけで、人間の労働の成果として 労働が投下され、凝固したものと捕らえる事に進まなかったのです。
古典派経済学は、初期資本主義社会の中で、商品の価値形態の現実態である、貨幣形態を まえにして、商品の価格の違いが、労働の時間の違いによって生ずる事を捕らえたが、し かし、人間はどんな時代であろうと、どんな社会であろうと、自然に働きかけ、働きかけ た成果を自分のものにする事で、生きて行くと言う基本的な捕らえ方が無かったのでしょ う。この考え方は、労働とその労働の投下され、凝固した、実体化された労働と言う区別 をすることで、人間と商品となっている労働生産物の関係についての考え方を確立したと 言う事になります。

商品の価値は、交換価値として現象するのであり、価値それ自体は商品所有者の「表象」や 経済学者の「頭脳」において観念的に捕らえられた言わば、「一つの思惟物」「抽象物」で ある。この思惟物がどのようにして現象するのか、これが商品の価値がいかにして表現され る、と言う価値の表現形態の、したがつて価値形態の問題である。
商品関係を形成している労働生産物に対して、その使用価値以外に、価値なるものが内在し ているから、ものが交換されると言う判断は、交換と言う場に成立している労働生産物に対 して、交換と言う現実を前にした時の、その交換の構造を知ろうとする私達からの働きかけ として、一つの予想として、頭脳の中に出来てた思考に他ならないが、しかし、その予想は 決して妄想の様なものではなくて、交換と言う場に成立しているものの、頭脳への反映に他 ならないのです。ただこの反映は、鏡の様に外部からの光が直接鏡に向って来て、像を作る のとは違って、頭脳の細胞の活動によって成立するのであり、予想という思惟として形成さ れるのです。
翻って言えば、何故この様な文章が書かれるのかと言えば、経済的行為としての商品の交換 と言う事に対して、そこで成り立っている構造について、私達が知ろうとして居るのであっ て、その知を頭脳の中に成立させ、例えば「資本論」の様に叙述がなされるのであ。つまり 予想と同じ様に、頭脳の中に、商品の経済行為である交換についての理論を組み立てる事で 構造と言う認識を作るのです。その理論に関わるものとして、価値と言う言葉が作られて来 ていて、その言葉を巡りながら、構造についての思考が形成されるのです。

この思惟と言う事についての考え方:
カント:我々が認識し得るのは、もの自体としての対象では無く、感性的直感の対象として     の物−−過言すれば、現象としての物だけである。するとこのことから、およそ理     性の可能的な思弁的認識は、統べて<経験>の対象のみに限られると言う結論が当     然生じてくる。所で、我々はこの同じ対象を、たとえ物自体として認識する事は出     来ないにせよ、しかし少なくともこりを物自体として考えることが出来ねば成らぬ     と言う考え方は、依然として保留されている。さもないと現象として現れる当の物     が存在しないのに、現象が存在すると言う不合理な命題が生じてくるからである。
    感性的直感の達し得ないものである物自体、純粋直感の対象である可想的存在、し     かし、かかる可想的存在の可能は、所謂了解され得るものではなく、現象の領域を     取り囲む外回りは、我々にとって全く空虚である。
ヘーゲル:カントの物自体が、無規定なもの、他の物によって規定されていない、純粋に自     立性をもつものであり、頭の中で考えられたもの、空虚な抽象物であるにすぎない     ものです。
マルクス:「初版」で用いていた抽象的な<人間労働の対称性>として、価値なるものの観     念性を強調する意味で<一つの思考物>なる術語を用いたといえる。だが第二版で     はこの規定は削除されている。単に価値物と言った場合、それは価値と言う属性あ     るいは性質をもったもの、価値対象性をもったものとして、思惟において把握され     たものであり、直接に眼で見たり、手に触れたり出来ない。したがって、いずれの     商品も価値物であり、等置関係、同等性関係の前提をなすものである。
  だが、この価値物は思考においてだけではなく、他の商品との関係において、たの商品   において、具体的にありありと表現されなければ成らない。

価値なるものが、商品に内在する一つの属性であると考えるなら、その思惟は、モノが交換 関係に入るとか入らないと言った事に関わらず、各々単独に価値なる物を持っているのだか から、交換と言う考え方は必要無いのである。しかし、諸物が、相互に交換されている事を 前提に、その交換関係を形成する諸物が、関係を形成するのは、諸物に共通の質があり、そ れを、仮に価値と規定するのです。その共通の価値が、交換関係において、両辺の使用価値 の量的比、一個のリンゴと半ポンドの鉄という量として等置されるのであり、その量として 等置されているものを、交換価値というのです。つまり、交換価値と、等置関係における諸 物の量として占めされているのに対して、価値は、交換関係の内部にある事はたしかで、交 換価値として現れる<何ものか>と言うあり方をしていて、その様な論理構成をなしている ものとして成立っているのです。哲学として<本体とその属性>というカテゴリーは、もっ と一般的に規定しているのであり、関係の内部で、その関係を成立たせる共通な物と言う意 味で、箇々のものに属性を規定しているのです。ただその<関係>と言う概念が前にでて来 ていないので、箇々のものと言うバラバラな物のイメージが出来てしまっているので、属性 が箇々のものと同じレベルで、孤立した物の中で成立っていると結論されているのです。

価値形態を理解する困難は、等価形態の商品の使用価値が「一つの新しい役割」演ずること すなわちその使用価値が価値の現象形態となること、さらにその使用価値に含まれる具体的 有用労働が、抽象的人間労働の実現形態とにること、それを理解する事にある。商品にある 使用価値と価値の二重性と言う規定に対して、ここでは互いに「反省」しあうのです。
商品の二要因である使用価値と価値−−一つの商品にある使用価値と価値−−との「内的対 立」は分化し、「外的対立」として現象する。等価形態の上着は、使用価値としての本来の 上着の意味を失って、リンネルの価値を表す材料となる。

価値関係を前提にして、そして単にその関係だけであるな、両辺は対等なのであり、お互い に役割などないのです。ただこの関係は、両辺がある共通するものを、それぞれが持ってい ると言う事の、べつの表現であり、その両辺がどんな役割を成しているかと言う事は、この 関係から<生まれてくるもの>では無い。この関係を前提にして、この関係の上で新たな問 が始まるのですし、新たな問が、決してこの関係から離れては成らない、規則の様なものな のです。物理学には質量不変の法則があって、一見エネルギーが無に帰しているかの様な現 象があるからと言って、<質量不変の法則が成立たない領域があるかも知れない>と考える のは、質量不変の法則がどう言う法則であるのかを考えていないからであり、その様な法則 に似ているかもしれない。その関係に対して、両辺を考える事で、形態論の確認が初められ たのです。

商品は自分の価値を直接に表現する事が出来ないが、他商品の商品体を自分の価値鏡とする 事ができる。「商品は直接自分自身に対してする事が出来ない事を、直接に他の商品に対し て、したがってまた回り道をして自分自身に対して、する事が出来る。」

鏡の論理構造:鏡の前に居る物の光学的側面が、光の情報として、鏡に反射する時、鏡の内 部−−この内部が物理的な内部なら、当然5ミリの厚さのガラスの内部と言う事になり、そ の内部に、魔女が住んで居る事に成ります−−に、光学的空間を形成するのであり、そこに 空間があると判断されるのは、像と像の位置関係が、私達の視知覚にとって、遠近観として 処理されるからであり、だから鏡のそこに映像の世界があると結論しているのです。
私にとって自分自身の顔の光学的側面あるが、鏡にある光学的像として反射して来るものを 視知覚する事で、自分の顔を見る事になるのです。光が私の顔から反射して来る時、その反 射の光は、私の顔についての情報をたずさえて来るのであり、その反射光は、直進の原理か らすれば、自分の視知覚には入ってこないので、直接眼で見る事ができないのです。しかし 鏡に反射して来る光が、私の眼に入る事で、光がたずさえている顔の情報を知覚して、自分 の顔を見ていると結論するのです。

(3)形態Bと媒辞
価値形態の理解におけるもの:形態Aから形態Cまでの価値形態の「展開・移行」の動力は 価値の概念と価値の表現形態との矛盾であり、この矛盾の一定の解決形態として各価値形態 の位置づけがなされて来た。A、B、Cの三段階は、ヘーゲルの概念・判断・推理の三段階 に対応していると考えられる。

        価値形態の種差
形態A、B、Cは、相対的価値の独自な表現の仕方として位置付けられている。
形態Aは形態Bの「基礎的要素」、形態Bは形態Aの「総計」である。形態Cは「転倒され た、または逆の連関された」形態Bである。

(1)個別的価値形態−−単純な商品形態
 価値の概念が自己の定有形態を獲得する最初の形態である。「貨幣」の「細胞形態」「即  自態」「未展開の基礎」
 形態Aで明示される価値表現のメカニズムは全ての価値形態を貫いている。形態Aは商品  世界の中のある一つの商品と他の一つの商品との関係と言う「個別的な」価値形態である  が、いずれの価値形態にも妥当する価値形態一般でもある。その意味で形態Aは個別であ  って同時に普遍である。

価値関係を前提にしているのであるから、形態がA、B、Cと変化しても、その関係で成立 して居るものが、底で流れ続けているのです。だから形態Aの内容が、BやCでも流れてい るのが、形態Aの特長であると言う結論は、前提であるものを、このAに入り込ませている だけなのでしょう。さらに<だから、個別であって同時に普遍である>と言う言い方の普遍 が、高々他の形態とも共通している物があると言うかたにすぎず、その共通性とは、前提に なっている価値関係の事を示しているのすぎないのです。
この形態の比喩として、<水の分子>と言う事を考えてみる。
分子H2Oの運動量の違いが、液体としての水、固体としての氷、気体としての水蒸気、と いった形態の違いとして示される。分子と言うレベルで把握したものが、どの形態でも成立 っていて、それをあたかも液体としての水に発見したからといって、水にあるものが、固体 としての氷にもあり続けるから、水には、液体として形態の個別性と同時に普遍性があるの だと結論しても、個別性としての液体形態と普遍性としての分子H2Oと言う区別がつかな ければ、単なる言葉に終わってしまい、逆にその構造を解明できなく成るのです。
論理的な言葉で言えば、水は氷にはならないのです。分子H2Oが、ある特定の温度状況の なかで、特定の量の運動をしているとき、水であったり、氷であったり、水蒸気であったり するだけで、その分子の運動量が、連続的に変化する事を、水になったり、氷になつたりと 言っているのすぎないのです。形態である液体、固体、気体に対して分子H2Oは、実体と 言うレベルであり、分子としてのH2Oの運動の量的変化で、形態の違いが現れて来るので あり、その運動の量が、度を越すと分子が壊れて、原子としてのHとOの分離して行くので あり、そこにはもう形態という存在はなくなってしまっているのです。水分子H2Oの運動 に変化を与えるのは、分子外のものから、エネルギーが与えられる事によるのです。

商品の分析によって得た物を、人間語で語ったものが、<商品は価値と使用価値の統一であ る>と言う事になります。商品自身に商品語で語らせてたものが、以下なのです。
「リンネルが別の商品、上着と交わりを結ぶやいなや、リンネル自身がかたるのである。
ただ、リンネルは自分の思想をリンネルにだけ通ずる言葉で、つまり商品語で言い表す
だけである。労働は人間労働と言う抽象的属性においてリンネル自身の価値を形成する
と言う事の為に−−この言い方は人間語で語っているのであり、人間が人間に向って語
っている−−リンネルは上着がリンネルに等しいとされる限り、つまり価値である限り
上着はリンネルと同じ労働からなっている、と言うのです。自分の高尚な価値対象性が
自分のごわごわした肉体とは違っている事を言う為に−−そしてこれも人間が脇から見
ていて、人間語で、人間に語っているのです−−リンネルは、価値は上着に見え、した
がってリンネル自身も価値物として上着にそっくりそのままである、というのです。」
<資本論初版−附録>
「商品としては、リンネルは使用価値及び交換価値である、と言うならば、それは分析に
 よって得られた商品の性質についての私の判断である。これに反して、20エレアのリ
 ンネル=一着の上着、または20エレアのリンネルは一着の上着に値する、と言う表現
 において、リンネルそのものが、自分は、使用価値であり、それと区別される交換価値
 であり、これらの二つの区別されたものの統一、したがって商品である、と言う事を語
 っているのである。」

価値形態の基本問題は商品分析の成果を商品自身が自己実現する事を把握することにある。 価値形態は商品自身が「20エレアのリンネルは一着の上着に値するものである」として表 現する一つの判断形式をとっていると考えられる。
形態Aは商品の価値を全く限られたもの、一面的なものとして表現するだけであり、価値概 念に照らして不十分な価値形態である。この不十分性は、形態Bで解決される。

単純な価値形態Aの不十分さは、形態の規定である、相対的価値形態と等価形態と言う役割 にたいして、両辺を構成しているリンネルと上着が、リンネルが相対的価値形態である時は 上着が等価形態にあり、上着が相対的価値形態にある時には、リンネルが等価形態にあると いう相互の役割りが決められている事であり、どちらか一方に決められていないと言う事な のでしょう。商品語を、リンネルが語るか、上着が語るかと言う事であり、両者は、各々自 分が、商品語を語るのだと言えるのです。
  20エレアのリンネル=一着の上着
   相対的価値形態    等価形態−−(20)
   等価形態       相対的価値形態−−(21)
の様に位置がきめられても、相手を等価形態にする事では、(20)(21)も同じであり 箇々の商品は内在する価値を、みな持っているのであるから、等価形態には誰でもなりえる と言う事なのです。ただ、皆なりえたとしても、リンネルが相対的価値形態の位置に居ると いうことが、相手側から見れば、等価形態でもあるのでは、と言う事では無い。つまり、リ ンネルを持って入る人が、自分の商品の価値を、相手側の上着で表す事と、上着を持ってい る人が、自分の上着の価値を、相手側のリンネルで表す事の、相対性に対して、これは、自 分のリンネルと、相手のより沢山の上着と交換する事とは、関係ないのです。所有者の欲望 と言う事では無くて、交換の場で成立している、論理構造が問われているのです。
等価形態の位置にはいる商品が、<ある特定の商品だけになる>ことが最終的には目的にな のであり、その商品が、例えば貴金属としての金であれば、指輪にしたり、ネックレスにす ることで、使用価値が実行されるのに対して、等価形態の位置に居続ければ、金は金貨と言 う貨幣になるのです。この時金の使用価値は、相対的価値形態の商品の価値を、表現するも のとしてあるのです。各商品の内在する価値は、内在する限り、眼に見えていないのです。 商品の価値は、諸商品が交換されていると言う場があり、価格をもって売買されることで、 価格と言う表示が、どんな構造で成立しているのかと言う事を説明する為に商品に価値があ ると言う、論理概念の実体と言う理論構成が成立したのです。実体としての価値は、商品に ある使用価値とは、違った存在として規定されているのです。
論理構成としては、商品に内在する価値は、交換と言う場を形成する各商品にある能力と言 った、商品にその能力があるから交換が成立すると言ったものなのです。その能力が等価形 態の位置にある商品の使用価値で、実現されると言う事になる。価値の能力さは、その商品 に内在するものとして、可能性と言った物であるのに対して、等価形態の商品の使用価値で 現実の能力として示されるのです。価値と使用価値と言う全く別のものであるのに、使用価 値は、相手の価値の現実態としてあると言う、使用価値の新しい規定がここで始めて成立つ のです。使用価値は、人間の欲望を満たすものとしてのモノの属性としてあるのに、商品関 係においは、相手の価値の現実態としてあると言う事なのです。
もう一度大きな視点に立って見るとする。
最初箇々の商品があり、それらに使用価値と価値が内在すると考えていたが、しかしその箇 々の商品と言う言い方は、実は箇々の生産物であり、その箇々のものが、相互に商品関係を 形成することで、商品関係から規定された箇々のものだから、始めて価値が、その箇々のも のの中にあると言う事は変わりが無いが、使用価値である物が、表現形態としての価値とな ったのです。つまり、商品と言うレベルは、単独の箇々の労働生産物ではなく、商品関係に 規定された箇々の生産物であることで、もともとの使用価値が、関係に規定された使用価値 になったのです。商品関係と言うレベルでの商品の定義が、価値と使用価値の統一と言う事 なのです。その定義を、商品関係に規定されている箇々の労働生産物に当てはめてしまうか ら、箇々の労働生産物に、価値と使用価値があり、と言う事になってしまうのです。

(2)特殊的価値形態
形態Bは、形態Aの総計であるが、一つの本質的な進展をはらんでいる。
相対的価値形態に位置にあるリンネルが、自分の価値を、ある時は、ある時は、ある時は、 と言う様に等価形態の位置にある商品の使用価値で表すと言う事だけでなく、<ともに> <また〜でも、また〜でも><〜であるか、〜であるか・・・>となる。
相対的価値形態にあるリンネルの価値が、等価形態にある各々の商品体を価値鏡とする事で リンネル以外の商品の数だけ価値鏡があると言う事になる。リンネルの価値には、決まった 姿がないのです。

(3)一般的価値形態
形態Cは、転倒された形態Bであり、全ての商品が自分の価値を、等価形態にある一つの商 品リンネルの使用価値で表すこととなる。あらゆる商品は、自分の価値を唯一の商品である リンネルの使用価値で表す事で、可能性としての価値、内在的な価値が現実態としてのリン ネル使用価値と言う姿を共有するのです。唯一のリンネルを除く、ほかの商品は、それぞれ 自分自身使用価値でありながら、リンネル使用価値という同じものを使用して自分の内部の 価値を表現する事で、価値は可能性としての社会性から、具体的社会性を得る事になる。だ から、この社会性は、多数の個別のモノが、自分の内的な可能性なるものを、多数の個別の 中から、一つだけ選びだして、その選びだされたモノの姿で、外部に表す時、はじめて明確 に成るのだし、単に<内的な何ものか>ではなく交換という形態で実践行為である事が、リ ンネルの使用価値と言う姿をした社会性をしめすのです。

諸労働生産物が、交換関係に入る事で、その関係の構造が、使用価値と価値の統一と明らか にされたのです。この統一は、箇々の商品に内在するものとしてイメージされていて、箇々 に内在する価値があるから、商品は交換関係が成立しているという、堂々めぐりの舞台が作 られてしまっているのです。つまり、関係は、両辺の個別に対して、共通なるものを持つと 言う事を別々の次元で言っている事なのです。関係概念では、できるのは其れだけで、後は その関係を媒介にしながら、形態を問題にするのです。そして、この形態で明らかになって 行く事で、関係で得られたものが、あたかも自ら具体的に成って行くかの様に現象する事か ら、ヘーゲルの概念の様に<概念の自己運動>と曲解されてしまったのです。

卵子と精子が結合して、最初の細胞ができ、その細胞の中に、後の成人にいたる身体のあら ゆる萌芽があるとしても、現実に成人になった時点から、細胞を振り返る事で始めて、萌芽 と言う視点が得られる。つまり、ある事実があるにしても、そしてこのように<ある事実が ある>と言えるのは、私達が研究し、認識した時点から、振り返るからであり、ある事実は 経験されていると言う事にすぎず、その経験が、結果から始原を振り返ることで、始原の中 に結果が全て含まれていると言う結論を導くのです。とすると問題は、始原の中に含まれて いる萌芽が、どんな作用を与えられると結果の方向に進むのかと言う事になり、その作用の 構造が認識されなければならぬのでしょう。
<始まり−−中間−−終わり>と言う過程に対して、その時点、その時点であれば、眼の前 に単にあると言うだけであるが、その過程における積み重ねが、<終わり>の時点から振り かえられる時、はじめて<始まり>の中に、中間、終わりに現れるものが、潜んでいると理 解できるのです。事実として、始まりの中に全てがあるから、ただそれを認識すると言う事 では無い。認識には認識の法則があって、終わりを見つけてから、終わりの視点から、中間 始まりを見る事で、始まりの中に後の萌芽があると結論できると、始まりを見ていた事は確 かであったので、その時点で、萌芽が見えているかの様な結論は、認識の過程を無視したも のになるのです。事実の法則である事物語を、人間語に変換して喋る事と、事実についての 認識を人間語で語る事、語る事では人間語としては同じであるが、その過程を無視してはな らないのでしょう。

リンネルは他の<一つの>商品が価値の現象形態としてリンネルに連関する事によって<個 別的等価形態>となったと同じ様に、リンネルはすべての商品にとって協同的な価値の現象 形態として、一般的等価物、一般的な価値肉体、抽象的人間労働の一般的な体化物となるの だが、等価物の類的形態として現れる。「ライオン、トラ、兎、及び、全ての他の現実の動 物と並んで、全動物界の個体的な具体化である<動物なるもの>と言うものが存在している 可の様なものである。」
リンネルに物質化されている特殊的な労働−−いわゆる織布労働と言う事−−は、今や、人 間労働の一般的な実現形態として、一般的な労働として妥当しているのです。
商品世界の「共同の仕事」によってリンネルは「等価物の類的形態」として妥当する。リン ネルは商品世界のたんなる一商品にすぎないが、形態Cでは商品世界の価値の一般化身、価 値の代表者として現れる。

価値形態の「個別−特殊−普遍」


形態A−>形態B−>形態Cと言う価値形態の展開・移行 は 等価形態の商品も、個別的 等価物−>特殊的等価物−>一般的等価物 として妥当する。貨幣の萌芽、貨幣の即自体の 発展、貨幣形態の生成といえるのです。
価値表現の形式:
    一商品の価値が、他の商品の使用価値で表される。
    一商品の価値が、全ての他の商品の使用価値で表現される。
    一つの商品を除いた全ての商品の価値が、唯一の商品の使用価値で表現される。

アリストテレスの貨幣把握(ニコマコス倫理学)
「五台の寝台=一軒の家」と言うのは、「五台の寝台=これこれの額の貨幣」と言うのと違 わない。マルクスによれば、アリストテレスは価値表現の前提となる二商品の等置関係、し たがって「本質の同一性」関係から価値概念−人間労働の確定にまで進む事は出来なかった。 それは、「彼の生きた社会の歴史的限界」が価値の実体を見い出すことを妨げていた。
アリストテレスは、形態A=貨幣形態 とみている。この認識は貨幣形態を、したがって価 値形態を解明する第一歩と言える。しかし形態Aが、何故貨幣形態にまで進展しなければな らないのか、と言う説明は与えられていない。形態Bと言う媒介なしに貨幣形態と同一性を 説くいわば直接的な説明に終わっている。

第二部 初版「資本論」価値形態の研究

ブルジョワ社会にとって、労働生産物の<商品形態>または商品の<価値形態が経済的に細 胞形態>なのである。
研究対象の性格及び研究方法:
(1)新体細胞(商品)の研究が身体(ブルジョワ社会)の研究よりも困難である事。
身体の研究によって得たものが、身体細胞の研究の最終目的となり、細胞の研究の成果が具 体的身体の生成過程として構成されるのです。細胞の萌芽の進展過程の構造が明らかにされ る事で、身体の成長の構造が明らかにされると言う事です。最初の<身体の研究>が本質レ ベルであれば、後者の<身体の研究>は、細胞から形態として成長する事が対象になってい るのです。

1 価値形態論をめぐるマルクスとエンゲルスの往復書簡
「初版・附録」−−本文の価値形態論の補足的、教師てきな説明が必要である。
6月22日の手紙:20エレのリンネル=一着の上着 と言う形態は、20エレのリンネル =2ポンド・スターリング の未展開な基礎にほかならないと言う事、したがって、商品の 価値がまだ他のすべての商品に対する関係としてではなく、ただその商品自身の自然形態か ら区別されたものとして表現されているのすぎない<最も単純な商品形態が、貨幣形態の全 秘密>を、したがってまた、萌芽において、<労働生産物の全てのブルジョワ的形態の全秘 密>を含んでいると言う事だ。僕の最初の経済学批判の叙述では、価値表現が展開して貨幣 表現として現れるにいたってから始めて、価値表現の本来の分析を与える事によって、展開 の困難を避けたのです。

初版「資本論」本文テキスト・クリティーク

  リンネル商品は、使用価値としては薄手のものは洋服地として、厚手のものはホースや   天幕を作る為のものとして用いられる。リンネルは木綿が普及するまで欧州では主要な   衣料用織物であった。こうした衣料用品として役立つという「使用価値すなわち有用の   姿」でリンネルは登場するのです。それは自然形態であり「価値形態の正反対」であり    とすれば、リンネル商品はどのようにすれば自分が価値である事を表示するのか。
商品は使用価値としては、自然形態であるのに対して、価値としては非自然形態であると言 う事を別の言葉で表すと、社会的形態というのです。しかしこの段階ではあくまでも<非> と言う事が中心であり、その<非>が肯定的に把握される事が重要になるのです。その肯定 としての第一歩として<社会的>と言う事であり、さらにその内実が解きあかされる事に成 るのです。この<非>は、使用価値に対して、正反対と言う規定を表す意味で使われている のです。この正反対の規定を持つものとして<価値>が立てられるのです。

質的にリンネルは自分に上着を等置するのであるが−−リンネルと上着と言う全く別々の物使用価値としては別々の物が、等置されるのはと言う事−−そうするのは、リンネルが、同 種の人間労働の、すなわち其れ自身の価値の実体の、対象化として上着に連関する事によっ てなのです。
異種のものが等置されるのは、両者に共通するものがあるからで、それを価値と規定するの であるが、その共通するものをさらに、<実体的>に言い直す事で、人間労働の対象化と言 う新たな規定が成立しているのです。使用価値が<具体的労働>の対象化であるなら、価値 は、<人間労働>の対象化と言う事にんなるのです。問題は、両労働の間の構造がどうなっ ているかなのです。

マルクスは経済学の理解の「軸点」をなす労働の二重性の一層詳しい分析をおこなう。
「すなわち、商品の中には、もちろん二つの異なる種類の労働が含まれている訳では無いが しかし、同じ労働が、その労働の単なる生産物として商品の使用価値に連関してみられるか それとも、その労働の単に<対象的>な表現として商品克ちに連関してみられるか、によっ て、異なって規定されるし、また対立的に規定される、と言う結論である。商品は、価値で ある為には、何よりもまず使用対象で無ければならないのであるが、それと同様に、労働も 人間の労働力の支出として、したがってまた人間労働そのものとして、計算されるためには 何よりもまず有用な労働、すなわち目的を規定された生産的な活動でなければならないので ある。」

価値表現のメカニズム−−リンネルの上着に対する関連
1):リンネルが上着に対して、自分と上着とに共通する同種の人間労働の同じ価値実体の    対象化として関連する。リンネルは上着に価値として連関する。
2):質的に、量的にリンネルは、自分に上着を等置する。
リンネルの上着に対する連関は、リンネルが自分自身に価値として連関することなのであり リンネルが自分自身が価値である事を、そのように迂回してしめしていることなのです。
自分自身の内部に価値があるという属性の規定では無く、自分自身が、価値存在である事を 示すのは、他者を自分に等置することで、自分が使用価値である事と同時に価値であると言 う事になる。つまり、交換可能性としての属性として価値なるものが内在していても、それ だけでは、属性にすぎないのであり、本体=価値物 となるとき、はじめてモノは使用価値 物であると同時に価値物という二重性になるのです。

「等価物:商品が価値一般であると言う事を含むばかりでなく、その商品がその物的な姿に  おいて、それの使用形態において、他の商品にたいして価値として認められ、したがって  又交換価値としてたの商品のために存在している、と言う事をもふくむのである。」
リンネルの価値は人間労働の<単に対象的な反射>であるが、その価値はリンネル自身の身 体に反射されてはいない。
価値が単に属性と言っ規定ではなく、商品の自然体に反映されなければならないと言う事で あり、自然体そのままが価値物であること、属性と言う事からは生じてはこないのです。
リンネルが自分に上着を、価値として等置する事で、他の商品の自然体に反射するのです。

リンネルの価値は、上着に対するリンネルの価値関係によって、顕現するのであり、感覚的 な表現を得るのである。リンネルが上着を価値として自分に等置しながら、他方では同時に 自分を使用対象として上着から区別する、と言う事によって、上着は、<リンネル−物体> に対立する<リンネル−価値>の現象形態となり、リンネルの自然形態とは区別されるリン ネルの価値形態となるのである。
それゆえ、リンネルの価値を上着で表す場合にはリンネルの上着価値、それを穀物で表す場 合にはリンネルの穀物価値、等々といったりするのである。この様な表現は、どれも皆、上 着、穀物等々と言う使用価値に現れるものは、リンネル価値である、と言う事をいみしてい る。
「人間は最初はまず、他の人間の中に自分を映して見るのである。そこではじめて、人間と して自分自身に連関する。」
映す自分は、まだ内在的なものであり、他の人間の姿が鏡の像となる事で、その他者の姿が 自分に内在する人間なるものに連関することなのです。他者の姿が鏡となって、内在するも のの現実形態がしめされる。

リンネル自身のうちに対象化されている労働と同種の、抽象的人間労働の、直接的体化物と して上着に関連している。上着は具体的裁縫労働でありながら、同時に抽象的人間労働の直 接的体化物でもあると言う事。リンネルにとって、超感覚的な内在するものであった価値が 感覚的に捕らえられる上着という姿として把握される様になったのです。
商品を分析的に使用価値として、あるいは価値として考察する事は、容易である。さらに商 品の二要因をそれらの実体にまで遡及して論ずる事も容易である。商品または労働を一方の 形態で考察するとき、他方の形態を捨象しているからである。だから商品を分析的一面的に 考察し、その結果として得られた使用価値と価値と言う二要因及び労働の二重性は「抽象的 な対立物」である。それは具体的な対立物として現実の商品の矛盾を論ずるための基礎の分 析である。それは商品の二側面をそれぞれ考察し、両者を頭の中で区別されたものとして認 識された「抽象的な対立物」である。だからその要素はおのずと理解されるものである。
ところが、価値形態においては、商品を一面的に考察す上述の場合とは全く異なり、理解は 極めて困難である。何故だろうか。商品の対立的諸規定は、ここではお互いに別れるのでは なくて、互いに反省しあうのである。
一商品の相対的価値表現は二つの異なる価値形態を含む−−相対的価値形態、等価形態
リンネルはその価値を上着に対する<価値関係>において、<交換価値>として表示する。 上着は「リンネルと直接に交換されうる使用価値の形態」「等価物の形態」を受け取る。し たがって、<相対的価値形態>と<等価形態>とは<交換価値の諸形態>である。両者は同 じ価値表現の諸契機であり、相互に条件づけ合う諸規定であるが、等置された二つの商品極 の上に分極的に配分されている。
上着は等価形態=直接的交換可能性の形態 にあるが、等価形態は価値の量的規定を含んで はいない。上着は等価物としての使用価値であり、自分の価値量を表現する必然性が全くな いからである。
キログラム原器は、其れ以外の物体の重量はかる時の基準となるものであるが、けっして自 分の重さをはかると言う様には出来てはいない。<1kgのおもり>の重さは幾つであるの かと、問うことはないのです。<1kgのおもり>を手にもった時に手に感ずるズシットし たおもさは、重量関係にある他の物体の重さを計量する時の基準としての重さなのであって キログラム原器以外の物体が自身の<重さ>を、重量関係にある<キログラム原器>何個分 かで示す事で、<重さ>が、外的なキログラム原器と言う姿として示されたと言う事になる のです。キログラム原器も物体である限り<重さ>はあるのだが、その重さも他の物体がそ れぞれ自分の重さを、表現する、外的素材と言う意味なのです。
物体の重さは、その物体の性質であるのに対して、商品の価値は、人間の労働の凝固したも のという実対規定があるのです。ただ物体の重さも、例えば地球の重力が、物体に与える実 体的な力としてしめされるのであり、地球と月では、重量比率は、1:1/6と言う事に成 ります。

相対的価値形態と等価形態:
     リンネル=上着 −−>  上着=リンネル
でもある事で、リンネルも上着も等価物としての役割を演じうるのです。等価形態の商品が 貨幣形態のように固定していず、いずれの商品もその地位に立ちうることから、両形態の区 別は一見すると不明暸にみえるのです。上着はリンネルとの価値関係においてのみ等価物で ある。上着は受動的に振る舞っているにすぎない。上着の独自な性格は、リンネルのどんな 関与の仕方で連関するのでしょうか。
「リンネルは、つまり、抽象的人間労働の感覚的に存在する体化物として、したがって現に 存在する価値体として上着に連関するのである。上着がこうしたものであるのは、ただ、リ ンネルがこの様な特定の仕方で上着に連関するからであり、またその限りにおいてのみの事 である。上着の等価物存在は、いわば、リンネルの反省規定にほかならないのである。所が 事態は全く逆にみえるのです。リンネルの上着に対する連関の完成した産物、上着の等価形 態、直接に交換されうる使用価値としての規定性を、例えば体を温めると言う様な本来もっ ている上着の属性と全く同じ様に見え、リンネルとの連関を離れても上着には物的に属して いる様に見えるのであった。それは一方では上着がイニシアティブを持ってリンネルに連関 しないからであり、他方では、リンネルとの連関を離れても上着は上着であるからだ。リン ネルが上着に連関するのは、上着を<何ものか>にする為ではなくて、ただリンネル価値の 表現素材として自然形態としての上着を自分に等置するにすぎないからである。

裁縫労働の形態でも織布労働の形態でも、人間の労働力が支出される。それゆえ、両方とも 人間労働と言う一般的属性をもっているのであり、またそれゆえ、一定の場合には、例えば 価値生産にあっては、ただこの観点からのみ考察されうるのである。こういう事は、なにも 神秘的な事では無い。しかし、商品の価値表現では、事柄はねじ曲げられる。

第2章 価値表現の回り道と価値形態の展開・移行
        −−価値形態論の方法−−


「価値形態と価値実体と価値量との間の内在的で必然な関連を発見する事。観念的に表現す るなら、価値形態はけ価値概念から初性する事を証明することである。
マルクスは、商品が交換価値を持津と言う事実から出発し、二商品の等置関係の分析から価 値の実体を析出している。価値の実体は、抽象的人間労働であり、その凝固が商品の価値を なしている。抽象的人間労働は諸商品に<共通な社会的実体>であり、商品生産者の社会に おいて私的労働の独自な社会的形態をなしている。したがってその結晶である価値は自然的 なものではなくて、純粋社会的なものなのです。だから箇々の商品をどのようにひねり回し てみてもそれは価値物として捕らえられないものである。すなわち人間労働の単なる凝固と して商品の価値は抽象的な対称性であり、一つの思惟物である。

価値形態論の考察:二商品の価値関係の量的側面は捨象して質的側面から検討する事が肝要 である。リンネル=上着 が等式の基礎である。二商品の関係は使用価値に対する欲望の関 係でなく、価値としての商品相互の関係、等置関係である。

20エレのリンネル=1着の上着 形態1は、ある任意の労働生産物、例えばリンネルを商 品として、すなわち、使用価値と交換価値という対立物の統一として、表示するための最も 単純な、最も未展開な様式である、と言う事がわかる。そうすれば同時に単純な商品形態A が、その完成形態 20エレのリンネル=2ポンド・スターリング すなわち貨幣形態を獲 得するために通過しなければならない所の諸変態系列が容易にわかるのです。
貨幣形態の概念的把握:形態A−>形態B−>形態C−>貨幣形態
貨幣の経験的把握:20エレのリンネル=2ポンド・スターリングと言う経験からの価値概          念の理解とこの理解を前提にした形態把握の始まり。

この項目一応終了