読   書   日   記

私が日々目を通す書物に対して、私の今の視点と、了解できない観点を書き抜き、それ
をどのように理解すると、私の了解になるかを目的に日記風に綴っていきたいと思います。

−−−−−−−−2002年04月12日−−−−−−−−

うそつきのパラドックス 山岡悦郎 海鳴社
  −−−−論理的に考える事への挑戦−−−−

<まえがき>
うそつきのパラドックスは、ゼノンのパラドックスと並ぶ、昔から知られている有名なパラドックスであ る。我々は「本当」と「うそ」と言う言葉を知っているが−−その言葉を話したり、書いたり、読んだり 聞いたりして、言語活動を行つているのであり、相手が話した言葉に嘘があつたり、真実を話しているの を理解するのです。−−しかし、このパラドックスの正体は、論理的に正しく考えて行くと、矛盾に導か れてしまうと言う事なのです。パラドックスは、論理的思考に対して根本的な問題提起をすると言う側面 がある。対象について思考しながら、内容化された対象は、思考の中で論理的過程として成立している為 に、対象のあり方と共に、思考のあり方が、問われるのです。

20世紀におけるパラドックスの解決に奔走した人々:ラッセル、タルスキ、クワイン、クリプキ、バーワイス(数学者、論理学者)コイレ、ニ−ル、バ−・ヒレル(科学史家、科学哲学者)ストローソン、ハーツバーガー、エチェメンデイ、マーティニック、ジャックビール、シモンズ、ヤブロ、ソレンセン(哲学者)プリ−スト(論理学者)

第一章 うそつきのパラドックス
  いつも嘘ばっかり言っている少年がいる。彼は言う。
     <私が今話している事はうそです。> −−(1)
と村びとに向って言う。
       私が<私の発言はうそである。>とだけ発言する。
       さて、私の発言は本当だろうか、嘘だろうか
(1)と言うこの全体が発言である事、それに対して<私の発言>と言う時点では、その発言が何であるかは示されていない。<・・・・・・・・・・・・。>があって、それに対して<私の発言・・>というなら、前半が私の発言である事が解り、その発言の内容が、本当か嘘かが解るのです。
       −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       I この黒板に書いてある事は、うそである。I   −−−−(2)
       −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
黒板に書いてある事が本当なら、そこに書いてある事は嘘であり、逆に書いてある事が嘘ならば、書いてある事は本当となる。
<この黒板>と言う言葉で、指し示している<それ>が私の目の前に有り、そこに書き文字がある。ここまでは、文字である事が分かっていて、それもロシア語とか韓国語ではなくて、日本語の文字であることがわかるのです。それが<この黒板に書いてある事は、嘘である。>と言うチョークで書いた文字ある事。私は自分の目の前にある事を、それが(2)なのであるが、その(2)について、考えながら、頭を捻りながら、いまここで文字にしているのである。言葉としては、(2)だけであり、その言葉を支えているのが、虚空に書かれているのでは無いのだから、黒板とか教室とか私が立っている場所などです。その環境のなかに書き文字があるのです。書き文字も環境の一つであるが、その環境の中から、文字だけを取り出し、書かれている内容を問うのです。そこで文字を読む。<書かれている>ことは、(2)全体であるが、この文の何が、<嘘である>と言われるのだろうか。<書いてある事>が、嘘だと言われているのだが、しかし書かれている事には、当然内容があるはずだが、この黒板に書かれているのは、(2)であるにすぎず、仮に、この黒板の別の所に<私は学生です>と書かれていれば、その書かれた内容に付いての真偽が判断されうるのであって、真偽の判断の内容が有るかどうかに関わっているのです。

パラドックスの定義:ギリシャ語のパラ(反)とドクサ(常識的見解)から作られた合成語
ゼノンのパラドックス「常識的にはアキレスはハンデイをつけようととも何時か亀に追付くはずだが、ゼノンの議論からすると、何時になっても追付く事が出来ないのです。」
アキレスのパラドックスの反常識に<矛盾:ある命題とそれの反命題が共に成立する状況>が加わったパラドックスが明らかにされる。ゼノンのパラドックスは、理論としては反常識ではあるが、議論の中に矛盾は成立していない。それに対して嘘つきのパラドックスには、矛盾が含まれているのです。
理論に矛盾が生まれてくるかどうかは、背理法−−Xと仮定して論理的に承認する事の出来ない事が生ずればXでは無いと結論してよいと言う考え方−−という思考方法、推論規則で試す事ができる。

(1)について背理法を適用してみる。
私の発言が真であると仮定すると、<発言がうそである>事が真実になる。真実である事は、その内容からすると、発言は嘘なのだから、<真である>という仮定に反するのであるから仮定は正しく無い。
私の発言が偽であると仮定する。発言は偽であるから、当然<私の発言は嘘である>は、嘘であることになり、 私の発言は真であると言う結論になる。これは仮定に反する。どちらに仮定しても、その仮定と反対の結論を出してしまうのです。

相互に矛盾する2命題が同等の権利を持って主張されることを、カントは「アンチノミー(二律背反)」と言うのです。

色々な嘘つきのパラドックス
4.1−:プラトンが、「ソクラテスの発言は本当である」と発言する。
     ソクラテスが「プラトンの発言は嘘である」と発言する。
4.2−エピメニデスのパラドックス
    クレタ人であるエピメニデスが発言する。<クレタ人は嘘つきである。>
 エピメニデスのパラドックスは、ストア派やメガラ派の論理学者たちが解決せんと心を砕いた。

知的挑戦としての嘘つきの解決
20世紀の嘘つき研究並びに真理研究において巨大な足跡を残したタルスキの考え方。矛盾を人間の思考の本質的な要素を構成するもの、真の進歩の基本的源泉とみなそうとするアプローチである。
嘘つきのの出現は病の徴候なのであるから、原因を追求して、その出現を防止するので無ければならないと主張したのです。

第二章 ラッセルの解決法−−「数学原理」
現在「数学基礎論」と呼ばれる学問を生み出すきっかけになり、「論理主義」と言う有力な数学思想を提唱した。この数学基礎論での成果の一つが有名なゲーデルの不完全性定理なのです。
<タイプ理論に基づく数学的論理学−1908年>

自分が関わって来る事態がパラドックスをうみだす。
私が「私の発言(A1)は偽である」とだけ発言(A2)する場合、私の発言(A1)=「私の発言(A2)は偽である」と言う同一性関係が成立する。
発言(A2)と言う言葉で指し示す対象は、<私の発言(A1)は偽である>全体である。私が記しているこの様な文章では、<私の発言(A1)は偽である>に対して、これを発言(A3)と表現する時A3と言う言葉が指し示しているのは、<私の発言(A1)は偽である>であって、その中のA1では無い事は確かである。A3が指し示す対象は、既に発言完了しているのであって、その完了は、<・・・ある>と言う言葉を使う事でなされるのが、日本語の特性なのです。とすると、<私の発言(A1)は偽である>と言う全体からすれば完了しているもののなかで、出だしの<私の発言・・>と始められた時、この発言は何をさすのかと言う事になります。これが例えば<これから言う私の発言は・・>と言う時は、<これから>と言う言葉で、後の言葉が対象になるらしい事がわかる。しかし単に<私の発言は、・・>と言う事では、どの発言なのかはわからないのです。どの発言であるのか解らないのに、その解らない発言にたいして、嘘だとか真だと言っても成立しないはずです。しかしその解らない発言の対象を、<私の発言(A1)は偽である>としてしまう事から 矛盾が生じて来るのです。
<「私は小学生である」と言う発言(A1)は、偽である>とい発言(A2)を考える場合、A1とA2は全く違った対象を指し示している事が解るのであり、私についての事実を明らかにすれば、学生であるかどうかが解り、私の発言が偽か真かが解るのです。<A1=私は小学生である。>と<「私は小学生である」と言う発言は、偽である>と言う区別なのです。自分自身についてのある事実認識を言い表わしている事とその事実認識の現表が間違った認識の現表であると言う事の違いです。

タイプ理論と嘘つき
命題の次元的階層と言う考え方:
嘘つきのパラドックスは文の真偽を問題にする場面で生まれて来る。−−<「私は小学生である」と言う発言は、偽である>という命題の真偽があっても、ここにはパラドックスはないのです。<私は小学生である>と 発言しても、これの真偽は確認できるのだし、その確認の過程でパラドックスは出て来ないのです。自己言及的な文の真偽を問題にする過程で生まれて来ると考えた方が良いのでしょう。
そこでラッセルは、命題全体を幾つかの階層つまりレベルに分割する事でパラドックスを防仕する事が出来るのでは無いかと考えたのです。
全ての命題は真か偽のどちらかである。(バートランド・ラッセル)−−<全ての命題は真か偽のどちらかである。>が仮に命題であれば、これも<全て>の中に入っているのであり、とするとこの命題にも真か偽のどちらかが有ると言う事になる。無限にある命題の一つでも<真偽>が決められないものがあればその時点でどちらともいえない命題となるのです。−−この命題は「排中律」と言う名前で昔から知られている有名な論理法則である。命題1、命題2、排中律命題、命題3、・・で表す事とすると次のようになる。
命題1は、真か偽のどちらかである。命題2は、真か偽のどちらかである。排中律命題は、真か偽のどちらかである。そこで排中律の自己言及性を認めて、排中律は自分にも適用されるのだと言う事になると、排中律自体が真か偽のどちらかであると言う事になってしまうのです。−−排中律命題が真である場合、確かに<どちらか>と言う事で、真である事になる。しかし排中律命題が偽であると仮定すると、どちらか一方であると言うその時点ですでに偽の方であるから正しい様に思えるが、しかし命題の内容の真偽を考えはじめると、<どちらでも無い><両方である>ことが成立つのです。排中律命題が真の場合、<どちらか一つ>は正しいが、排中律命題が偽の場合、<どちらか一つ>に対して、「両方」の場合「どちらでも無い」場合になり、最初の仮定の偽に反するのある。とすると、排中律命題の場合、真である時には問題ないが、偽である場合、真偽が関わらない命題がある事になってしまい、<すべての命題は、真偽のどちらかである>と言う場合の<全て>の中に、排中律が命題であれば、入らないことになり、排中律が命題で無ければ、何も問題は無いと言う事になります。仮に後者の道を進む時、<全ての命題>と言う時の命題にある一定の条件が与えられれば良いのでしょう。

こうして、命題を階層的に区別すると言うアイデアが生じたのです。
<命題1、命題2、・・・>と<排中律命題>の階層が違うと言う区別をつけるのです。
<すべての主張の真理性は相対的である>と言う主張だけは、<全て>の中に入らない様にしなければ、この主張を押し出せないのです。
階層の次元という言葉で示す。
 1):1次命題とは、階層の基礎となる最低次の命題であり、他の命題において語られる事はあって     も、自分自身、他の命題について語る命題ではない様な命題である。
 2):2次命題とは、1次命題について語る命題である。
 3):n+1次命題とは、n次の命題について語る命題

ラッセルの解決法
私の発言=「私の発言は偽である」と言う発言
と言う前提がそもそも成立しないと言う事を示す事でパラドックスを解決しようとするのです。
私達は、<前提がそもそも成立しない>と言う理由で、答えを出すのではなくて、その理由の独立した条件をも示さなければならない。タイプ理論の様な形で命題が完全に階層に分割できるのであれば、パラドックスは明らかに生じない。しかし、我々は、日常生活で行われる発言や作られる文が色んな階層に分割されるとは考えないであろう。−−私達の日々の言葉は、自分を囲む場を前提になされ、例えば<私の発言は・・>と言う 時、この発言は、個別的なあり方をしていて、「これから言おうとしている発言は、嘘である」と言う様に必ず、<これから>と言う個別的なあり方を対象にしているのであって、それに対して<私の発言は嘘で有る>と言う場合<私の発言>が何を指示しているのか明らかにされていないのです。しかし<・・・である>と終わった時点で、この全体が、<私の発言>だと言い出すのである。これは、ルール違反である。<発言とは、認識を外部に音声やインクの跡で表したものである>といった、一般論のレベルの定義のような時にも、その発言の対象は、私達の日々の言語表現であり、その日々の個々の言語表現に対してなされるのです。

自己言及的な文は禁止にするが、<この文章は、日本語である。>と言うのは、自己言及であっても、問題にはならない。自己言及であっても問題にならない文もあるのだから、<自己言及だから>と言うことに問題の発生が有る訳ではないのです。

第三章 タルスキの解決法

ラッセルは集合論と嘘つきのパラドックスに共通する<自己言及性>の観点からパラドックスの解決を実行しようとした。しかしイギリスの数学者ラムジー(数学の基礎−1925年)は、二つを分けて考えるべきだと主張した。
  集合論のパラドックス:集合や数の様な論理的ないし数学的言語だけを含んでおり、我々の論理や数
  学の内部には何かまずい事が存在している事をしめしている。
  嘘つきのパラドックス:論理的言葉だけで説明する事が出来ないので、論理や数学の欠陥だとする事
  が出来ず、むしろ言語や記号性への言及を含んでいる事からみて、思考と言語についての観念の欠陥
  から生ずるとかんがえられる。

その後、嘘つきのパラドックスは、ラムジーの方向で考察される様になったのです。この線に沿った最初の目覚ましい業績がタルスキの言語階層的解決である。
A・Tarski(1901−1983)は、Poland(ポーランド)生れの数学者・哲学者
「形式化された言語における真理概念」「意味論的真理観と意味論の基礎」「真理と証明」

言語階層説
嘘つきのパラドックスは、ある言語的活動において出て来るものである。言語のもつある構造がパラドッ クスを生み出すのではないかとする考え方が登場してくる。
**1:バラと言う言語表現(A)とこの表現が表す対象物(B)とを考えてみる。Aは言語世界に属し     ていて、Bは植物の世界に属している。BはAと言う言語の外側の世界に属している。
<BをAの世界の外側にある>を、日常的に理解すると、BとAの境界が何かと言う事になる。例えば、家の中と外の世界を仕切るのは、壁であり、外と内を繋げるのは、窓か扉になり、そこを介してある者が出入りする事で、外と内は繋がるのです。とすると、言語世界と物質の世界を繋げるのは、私達の言語を含む活動であり、私達は身体を介してバラを採取したり、育てたりする事で、バラに関わり、その関わりのなかで、頭脳に反映された認識を、言語として、「薔薇」と表現するのです。Aの世界とBの世界をとを繋げるのには反映論 がなければならのです。

言語の用法に注目する。
<雪は白い>:言語外の対象について言語を用いて何事かを語る。
<勝氏は碁を打っている。>:ある状況を説明している。
<「雪」は漢字である。>:雪と呼ばれる自然界のある物的対象について語っているのではなく、物的対 象について語る言葉としての文字について語るのです。
”Snow is white。”は英文である。:この文は、ある言語表現Aについて、言語Bを用い て何事かを言語Bで語っているのです。
言語L1について何事かを語る言語L2が存在するとする。その場合L1はL2のなかで、「語られる」言語 であり、対象言語とよばれる。それに対してL2は我々がその中で、L1について「語る」言語であり、メ タ言語と呼ばれる。
雪や雨などの物的なモノ、心とか感情などのモノが、対象と言われる時に対象言語、<「雪」は漢字であ る。>などの場合には、メタ言語と言われると言う区別は、対象をモノや精神などの場合にあてはめ、対 象言語について語る事を、メタ言語なのだが、問題は、対象言語もメタ言語も、対象について語っている のであり、ただ対象のあり方が違うだけなのです。何が対象になるかではなく、対象と言う語の定義がな されていないのです。雪という物質と<「雪」は漢字である。>とがあまりにも違う為に、両方とも対象 と言う語で括る事が出来ないように思えてしまうのです。
雪・・対象言語、「雪」・・メタ言語 であり、<「><」>と言う記号が対象言語をメタ言語に返る働 きをする。−−雪と「雪」の違いが、記号たる「、」にあるからと言って、その違いを記号が作り出すと 言った記号の能力ような機能論的な発想ではダメなのだ。違っている事を記号で表していると言う事で違 いの有るもの同志を、違いとして表すのが、記号だと言う事なのです。
  「雪は白い。 雪は漢字である。」両方とも同じ<雪>なのだが、しかし同じでもやはり違うからそ の違いを、雪と「雪」と言う事で表すのです。そこで、この同じ雪とは、いったい何なのかと言う事にな ります。それこそが明らかにされなければならないのです。

我々は一般に、ある対象について何事かを述べる時、その対象自体を持って来る事は出来ない。そう言う 時は必ず、その対象の名前を用いる。−−すでに、此所に、ある対象についての言語と対象自体と言う区 別が示されているのであって、ほんとうは、対象と対象自体だって言葉なのであり、自体と言う言葉を付 け加えることで、対象と言う言葉と違うモノになっているのです。ではその違いは何でしようか。対象と 言う時、言葉としての雪に対応するモノがあると言う事を表しているのであり、その言葉に対応している モノを対象と規定するのです。それに対して自体とは、言葉に対応する関係を成していないモノの事を言 うのであり、対象自体とは、<言葉との対象関係に有るモノ>に対して、対象関係をなくしたモノの事を あえて持ち出す事で、対象関係のあり方を明らかにしているのです。我々は日々自体に触れあっているの であるが、言葉と言う表現を踏まえる事で、言葉との対象関係にあるモノを、もう一度対象関係を抜きに 考えてみようと言う事が、自体と言う言葉として示されるのです。ここでの言い方を前提にすれば、<そ の対象の名前を使う>と言う時、対象と言う名前は、どんな対象を名前化したもの名のだろうかと言う事 になります。
対象と言う言葉は、本質的な概念を表している。モノ(自然現象としてのYUKI)と文字や音声として の言葉(雪)が、対象関係にある事を示している。ただしこの視点ではまだ、現象的な把握であり、モノ と言語の区別される二つが有り、その相互に関係があり、それを対象と言う関係ととらえているのです。 つまり、言葉を覚えたりする事で、モノと言葉とを対応させ、その対応関係から、モノを見た時、対象と 言い、また対応関係から言葉を見た時、名指すと言うのです。
       モノ・・・<対応関係>・・・言葉
       対象・・・・・・・・・・・・名指す
 対応関係を形成する一端である<モノ>を、対象、他端である<言葉>名指しと言う。
 二つの間の関係−さしあたって関係と言う言葉でしかいえないのだが−を前提に、その関係と言う舞台  の上にある、モノと言葉とは、舞台に登る前も、登った後も、モノと言葉だか、舞台に登ると同時にモ  ノは対象と規定され、言葉は表現と規定される。私達が言葉を使用したり言葉を考えたりするのは、あ  くまでも舞台の上の出来事であり、その舞台の上で、舞台から降りたモノを考えようとする時、モノは  どうしても舞台に登ってしまうので、登っていないと仮定しながら考えるので、<モノ自体>と言う舞  台語を書かざるを得ないのです。何故なのでしょうか。それは、考える事が、舞台の上の出来事であり  モノを舞台の上に引張り上げる以外ないのであり−−舞台はこの生活する町の中にあり、その町の生活  に支えられている事は、全く当然なのですが−−舞台外の事も、舞台にのせるからであり、舞台が全て  の時には問題は起きないが、その舞台の上のモノと舞台外のモノにどんな関係が有るかを考えると、モ  ノとモノ自体といった舞台語を作らざるをえないのです。そして、私がここで、この様に記している事  も、結局舞台の上の舞台語であり、舞台語を喋りながら、町に出かけると、ぶつぶつ独り言を言ってい  る奇妙な人間にみられているのでしょう。

嘘つきのパラドックスと言語階層説
私の発言=「私の発言は偽である。」と言う発言、L=私の発言とすると、L=「”L”は偽である。」 Lは対象言語に属している。
タルスキは、言う。真偽は文に対して適用され、文Aと文「Aではない」が共に肯定される状況が矛盾 と呼ばれるのです。
真理の定義について
言語Lを、次の様なふうにして各階層に分けた。L0、L1、L2、L3、・・・・
そして、タルスキは数学的言語を舞台として
 言語Lnに属する文に対して用いられる「真である」と言う真理述語は同じ言語Lnに属する事は出来  ず、それのメタ言語Ln+1に属するのでなければならない。
と言う事をを証明した。これは、ある言語における「真理」と言う表現をその言語の語を用いて定義する ことは出来ず、それのメタ言語において定義するのでなければならないと述べている。−タルスキの定理

−−第四章 コイレ(フランスの科学史家)の分析 1946年「うそつき」−−
単純な嘘つきのパラドックスは、<私の発言>が判断の主語にならなければ、アンチノミーは生じない。 真偽の言えるのは、主語と述語からな<判断>であるとしておこう。とすると<私の発言は偽である>は 私の発言=主語、偽である=述語 と言う事になる。
判断とは何かと言う、一般論から入るのです。:幾つかの概念叉は表象の間の関係を肯定したり、否定し たりする作用で、「S派Pである。」「SはPでない」と言う形式をとる。
  (2)私のこの瞬間にしている判断は、偽である。
  (3)私がこの瞬間にしている判断が存在する。
  (4)その判断は偽である。
(3)で存在している判断が、(4)の判断であれば、アンチノミーとなるのです。
私は、この瞬間だまっている。と発言する場合を考える。<私は、「私はこの瞬間黙っている。」と 発言する。>と言う事であるから、この瞬間が、黙っている時なのか、発言している時なのかにより、意味が違って来る。<私が沈黙している>事と<私が発言する>事が同時に成立つと考えれば、矛盾することになる。

ブレンターノ(真なる客体と虚構的客体について)カスチル
SはPである。・・・・その多くは、まず主語のSを承認した(存在判断)後、さらに述語Pを付加的に
       承認ないし否認する(肯定ないし否定判断)のであり、そこで二つの判断の総合がなされ
       るのだと主張した。この様な考え方を「二重判断論」というのです。

第五章 真理の担い手と嘘つき(ニールや、バー・ヒレル)
私の発言は、偽である。
と言う事に対して、そもそも「真である」とか「偽である」と述語つける事ができるのは、何なのかと言う事を問題にして来た人々がいるのです。「Xは真(偽)である」と正しく言われるXは「真理の担い手」とよばれる。

真理の担い手としての命題・・ニ−ル(w・Kneale)論理学の発見
論文「ラッセルのパラドックス及び他のパラドックス」「命題と自然における真理」において、嘘つきのパラドックスと真理の担い手の問題について検討している。
<私は空腹である。>と言う文は、誰が発言したのか解らなければ、その発言が真かどうかは確かめられない。−−この文は、誰が発言しても、あるいは発言者が誰であるかが解っても、言葉に見合ったものが皆の前にさらされているのではない。空腹であると言う食欲と言う感性は、正に感じている者の感性であつて、皆それぞれお腹がすくのである。私の身体にある状態があって、それを言葉として<お腹がすいている>と表現すれば、それを聞いた他者は、私の身体のある状態を想定し、その状態をかえる為に食べ物を出そうかと考えたり、<あ!そうですか>とうわの空で答えるのかもしれない。私は、空腹のまま夕方まで、このまま過ごすかもしれないし、ハンバーガ−を食べるかもしれない。その言葉が、私の身体のある状態を表しているかどうかであり、状態がないのに、言葉だけは<お腹がすいた>と言う事ができる事で、その場合は<私は空腹である>と言う言葉は、その言葉か表すはずの、今の状態の認識を表していないと言う事になり、結局嘘をついている事になる。私にお腹がすいた状態が一度もないと言う事ではなくて、毎日毎日お腹が空くのであり、その状態と<お腹が空いた>と言う言葉のつながりが規則的にあるのに、今はその状態がないのに、言葉としては<お腹が空いた>と言う事が成立しているのです。<お腹が空いた>と言う言葉が身体の有る状態の知覚を表していると言う本質的なレベルと、別に今午後ニ時であっても、お腹は空いてはいないが、<お腹が空いた>と言う言葉が出て来るのは、状態についての知覚がなされている時と、それを言葉にする時との隔たりにすぎず、身体の状態の時には必ず、<お腹が空いた>と言葉にしなければならないのではないし、私ガAに向って<私はお腹が空いた>と言う言葉を発した時にAがその言葉を聞いて、すぐに食べ物を取りに行く気を使うかどうかの為に、あえて言葉にする事もあるのです。
文と区別される命題が真理の担い手である事。
  雪は白い事は真理である。−−  It is true that snow is white.
<雪は白い>と言う命題について、その命題の真理が問われている。
<フランス王は禿である。>と言う文に対して、この文の主張を考えると、現在のフランス社会を見れば王政ではないので、実際存在しないフランス王について主張しても意味を成さないのであり、歴代の王に対しては 可能であると言う事だけである。この文の主語である「フランス王」は形式的には、何ものかを指示する様に思われながらも、実際の所何ものも指示していない。したがって、先の文は明解な主張内容を持たないのだと言う事ができる。
先の文の発言が命題を表現する為には、先の主語句は何ものかを指示しうるのでなければならない。そしてその句が何ものかを指示しうる為には、先の文全体が指示されるべき主張内容を持たなければならない。
バー・ヒレルの解決法
      「嘘つきの復活」「嘘つきについての新しい光」「自然言語はパラドックスを含む」
嘘つきのパラドックスが正に、パラドックスが生じて来る事自体、その言明が真理の担い手も存在しなかったと言う事になります。

第六章 真理論とうそつき
嘘つきのパラドックスは真偽の概念にかんするパラドックスである。真偽の研究の立場から、パラドックスに対処しようとしたのである。
文が与えられた時、その文が真であるとか偽であると言われるのは、どのような時だろうか、これは真理論で検討される重要問題の一つである。
  (1):真理対応説
      文と事実の存在の対応。「マリリン・モンローは、165cm以上の身長が有る。」と言う文       に対して、その文の真理は、実際にモンローの身長を測定して見ればいいのである。文の真理       は現実と照らし合わせる事で明らかになる。ところが、対応説的真理観がパラドックスを生み       出す原因の一つである。
「<Sは偽である>と言う文Sは、真である。」とすると、文Sは、Sの事実によって、真偽がきまり、今回は、偽であると判断されている。−−しかし、Sの事実とは、例えば「モンローの身は、165cm以上である」と言う文に対して、身長=165cm が事実と言う事ではない。モンローの身長を物差で計ると言う実際の行為とその検査の結果としての165cmが、実際に計ったメジャーの目盛りに示されている事で、単なる思い込みではない、物質的な姿で表されているのです。これが、文が事実に対応していると言う事なのです。とすると、Sの事実とは、<Sが偽である>と言う事ではない、これはすでに真偽の判断が下されているのであり、この判断をくだす為に、文Sに対応としてある事実があるのだから。今回の文Sに対して、事実が対応していないのであるから、<Sは偽である>と言う事になる。しかし、<Sは偽である>という文に対して、その真偽が問われるのは、例えば「実際にメジャーで計られた記録がねメジャーに示されているから、モンローの身長が165cm以上である」と言うけど、でもそのメジャーが間違っているかも 知れないのだから、実際に計ったからと言う事で、解決してはいないのであって、<Sは偽である>と言う文が、偽であると言う事もできるのです。ただ、<Sは偽である>と言う文が、そのまま文の中のSである事はできないはずである。

  (2):真理の総合説 
  (3):プラグマテイズム的真理観

ストローソン(イギリスの哲学者)の解決法
 「真である」と言う表現が日常的な経験的判断の中で出現する時に、それがどの様な意味で理解され、どの様な仕方で使用されるのかを考察する。
我々がある文Sについて「Sは真である」と発言する場合、それはSについて「真である」と言う客観的な性質を述語として付与する事であると考えている。
<「雪は白い」は真である>と発言する場合、雪は白いと言う事態は「真である」と言う客観的な性質を持っていると述べているのだと解釈されるかもしれない。主語「雪は白い」に述語「真である」が付加されて出来る1つの客観的判断であるというのである。
     <雪は白い>と言う判断---->>>その判断自体についての「真である」と言う判断
最初の判断を対象言語として表現し、次の判断をメタ言語として表現するとタルスキは主張したのです。
−−両者とも構造としては、前者が事物や精神などが対象になり、その対象について色とか触覚と言った認識が言葉として<雪は白い>とか<私は悲しい><歯が痛い>と言う様に表現される。それに対してメタ言語としては、「<雪は白い>と言う言葉は、嘘の発言である。」と言う表現として成立しているが、このメタ言葉の対象としては、<雪は白い>と言う言葉であり、その言葉が、嘘を表していると言う認識を、「<雪は白い>と言う言葉は、嘘の発言である。」と言表しているのです。対象言語と言う場合、対象として<有る>と言う知覚がさらに<白い>と言う認識と結合され、<雪は白い>と言う言葉として表現されるのです。さて問題は、メタ言語の対象が<雪は白い>と言う文であると言う時、メタ言語の対象である言表が、私達の身の回りにある自然現象としての雪につてい、その色と言う属性を知覚して言語として表した表現過程なのだと言う事であり、言語と言う過程的構造をかいして、誤った認識を言葉にしたと言う判断(認識)を口にだしたのです。<雪は白い>と言う言葉に対して、私の身の回りの自然現象の雪の色と言う属性は、黄色であると言う経験からすれば、彼の自然認識の表現は誤りだと言う私の判断を「<雪は白い>と言う言葉は、嘘の発言である。」と言うのです。しかし<雪は白い>と言う言葉を、「表現する」と言うレベルで見る時単なる自然認識を表しているのではなく、比喩や隠喩として表現している事も有るのでしょう。自然認識であれば黒い雨が降ったり、赤い雪が降ったりと言う事であり、それをどのように言葉に出すかは、例えば物理学は数字の連なりとしてあらわしたりするのです。
対象言語とメタ言語と言う区分けは、言語の現象的な側面だけを見て言っているにすぎず、自然現象や社会現象や精心現象が、私達の認識の対象になり、その認識された対象が、言葉として表現されているのであり、さらにその表現としての言葉から、諸現象に対する彼等の認識に誤りがあることを言う為に、その誤りの言葉だよと、口に出しているのです。メタ言語の対象が、言葉であるのは、諸現象を対象にしてその法則性が認識され言葉として表現されている事に対して、ここでは諸現象の法則性が問題なのだが、今度は法則性を認識している認識のあり方が問われ手来るのです。自然現象を対象とする認識が<雪は白い>と言葉で表現されていくのに対して、その認識に何らかの問題が有れば、<雪は白い>と言う言葉にたいして、<この言葉には誤りが有る>と言う言葉を提出するのです。つまり自然を対象にした認識は、そこでストップしている訳ではなくて 人々の前に言葉として表されるのであり、その言葉として表された認識は、日々変化する認識の成果が、その時点の結果として表されたモノであるので、言葉へと固定された認識に間違いがあれば、その認識を表した言葉にも問題が有り、それを<その言葉は誤りだ>と言うメタ言語として表現するのです。
対象たる自然現象の一面を知覚しているだけなのに、その知覚内容を、見えない所まで当てはめてしまう、私達の積極的な働きかけが裏目に出ているのです。対象のA面の認識(R)に対して、他のB面は<この様な内容であろう>と言う予想(T)を認識(R)に加えて成立する新しい認識(R+T)が対象のBを含む諸面の認識ではない事が解れば、対象のB面の新たな認識を形成させるのは当然なのだが−対象の新たな面たるBに向うのは当然だが−同時に、認識(R)から作り出された認識(T)のあり方が問われるのであり、認識(T)も必ずB面を対象にしているのに、さしあたつて、認識(R)との関連から結論されているだけであって、その間連こそをここでは、問題にするのです。認識のあり方が、本質のレベルでは、事物のあり方と関連が有る事を前提に、認識だけの法則性が、認識の対象となるのです。認識の対象となる認識という、自己言及的な扱いに対して、認識の対象となる認識とは、言語表現された認識であって、それは認識が認識を対象にすると言う事が、多様な表現形態を取る事で区別されて行くのです。ヘーゲル的に言えば、認識が自己分化して多様な形態の認識に変化すると考えるのだが、これをマルクスの資本論の論理で言えば、認識論を媒介して、認識の形態のあり方をが明らかにされるのであり、それはあたかも認識が、自ら自己変化して形態論が示している個々のあり方を示すと言うヘーゲル的な思考となるのです。
認識の一般論が捕らえているモノは、形態論の中に見えかくれしているものであり、まず一般論を得る事はその得られている内容が、そのまま、形態の中に生き続ける実体的なイメージで有る様に結論されるとヘーゲルの思考になるのです。

行為遂行説
「私は貴方を信頼しているわ」と言ったとしても、その発言でした事で、私が貴方を信頼していると言う事にはならない。それに対して「私は貴方に約束する」と述べた場合、私はその言葉を発すると言う発話行為をしただけでなく、約束したのである。
わたしは「私の発言は偽である。」とだけ発言する。S=私の発言 と仮定すると<Sは偽である>と言う発言は、Sがある性質を持っていると主張するものではなく、私のSに対するある種の行為を表明しており、行為遂行的発言なのである。
真理のデフレ理論・・・「見落とされたデフレ論的嘘つき対処法−ジャックルビー
パラドックスは大がかりな論理的道具立てがなくともごく常識的で初等的な観点から対処しうると言う彼の気持ちを表している。
「草は緑である」は真である。−−−> 単に、草は緑である。
と述べる事にすぎない。

第十五章 嘘つきの解決試論
嘘つきのパラドックスがへ、どの様な前提の元に、どの様な思考のプロセスをへて到達されるのかを明らかにしておく必要がある。
 Pと述べる文Sが真であるのは、SがPであるとき、その時に限ると言う、常識的真理観
 あらゆる文は、真か偽のどちらかであると言う、2値原理
<自己言及性について>
2001年11月30日の午後11時25分から35分の10分間に、私は次の様な発言だけを行う事は可能である。
(1)2001年11月30日の午後11時25分から35分の10分間に、私によってなされた発言は偽である。
−−<私に依ってなされる発言>と<私に依ってなされた発言>の違い。前者は、今を含まないこれからの発言の事を指し、後者は、今を含まない過去の発言を指す。つまり、今の時点は考慮の外にあるのです。だから<私がこれから言う事は、誤りが有る>と言う時、<これから>の中に<私がこれから言う事は、誤りが有る>は含まれていないのです。とすると10分間に発言されるのは、(1)であつても、それは時間による発言行為の順序の問題であって、10分間である事が、発言の内容に偽をもたらすのだと言う事にはならないのです。とすると<2001年11月30日の午後11時25分から35分の10分間に、私によってなされた発言>が、唯一(1)であると言っても、現に発言しながら、あるいは発言の途中で、すでに<・・偽である>という終了を前提にする訳には行かないのです。
(1)2001年11月30日の午後11時25分から35分の10分間に、私によってなされた発言は偽である。
(2)2001年11月30日の午後11時25分から35分の10分間に、私によってなされる発言は偽である。
(1)も(2)も、偽と判断される対象にはなっていないのです。
ただし、今が、2001年11月31日であり(1)が今の発言であれば、昨日の10分間の発言は、ここには示されてはないが、あるのでしょう。そのあったはずの発言について、偽と判断したということなのです。
さらに(2)については、2001年11月29日の前日の発言であれば、それは未来を予知したのではなくて、あらかじめ私は、嘘をつきますよと言っているだけであり、その時点になつて本当に嘘をつくかどうかは、解らないのです。
(3)Aさんが言う。<Bさんの発言は、偽である>
(4)Bさんは言う。<Aさんの発言は、真である>
これも、Aさんの発言の前に、Bさんの発言があって、その発言は偽であると判断して(3)を発言したのであれば、何にも問題はない。この(3)(4)が発言の順序であれば、Bさんは、自分は確かに何度か嘘をついたことがあるから、<それらの発言が、偽である>と言うAさんの言葉にたいして、<Aさんの発言は、真である>と言う事ができるのです。しかし、(3)(4)がお互いを指すのであれば、発言が終了もしていないのに、偽であるとか真であるとかを判断は出来ないのであり、だから言葉としても表される事はないのです。 (3!)Aさんが言う。<Bさんの今から言う発言は、偽である>
(4!)Bさんは言う。<Aさんの先ほどの発言は、真である>
この様に書き改めると、<今から言うBさんの発言が偽である>と言うことは、Bさんが発言する前に、Aさんが嘘を言う様に指示されていると言う事で、Aさんは普段は全く嘘しか言わないので、普段を否定するために、<Aさんは、嘘を言う>のであり、 これを別の言葉を使うと以下の様になる。
(5)Aさんが言う。<Bさんは、嘘つきである>
(6)Bさんは言う。<Aさんは、真実しか話さないです>
Aさんは、丸ごと真実の人であり、Bさんは、丸ごと嘘つきであることになる。ここから何が引き出されるかと言えば、Bさんの場合、彼が発言する事は、どんな事を言っても、すべて嘘であると言う事です。とすると <Aさんは、真実しか話さないです>と言う発言の内容は当然嘘であると言う事になり、Bが発言したかった事は、<Aさんは、嘘つきである>と言う事になる。とすると、Aさんが嘘つきなら、(5)の発言から、Bさんは、嘘つきではないと言う事になる。とすると、最初の条件に反することになり、結論が出て来ない事になる。これらは、A=嘘つき、B=真実の人 と言う規定が、つまり、実体規定が始まりであり、実体と規定すると、両者が何を発言しようと、一方的に決まってしまうのです。
(7)Aさんが言う。<Bさんは、嘘つきである>---><Bさんは、真実の人である>
(8)Bさんは言う。<Aさんは、真実しか話さないです>---><Aさんは、嘘つきである>
つまり、嘘つき−−真実の人 ではなくて
発言の内容によって、偽であったり、真であったりするのであり、偽−偽、偽−真、真−偽、真−真 と言う 組み合わせとしてあるはずなのに、その内のふた通りしかない為に、残りを捕らえきれないと言う事なのです。−−

ある文が、真理の担い手となる為の条件とは何か。−−>我々は実際に、何に真偽の語を適用すべきかの問題であると解釈しなければならないのです。我々は日常的な自然言語における真偽概念を問題にしているのであり、けっして人工言語でのそれを問題にしているのではない。
「Lは偽である」と言う表現が意味を持ちうる為には、Lの指示対象が特定される必要がある。

付録1 集合論のパラドックス
  集合のパラドックスの内、「ラッセルのパラドックス」が最も重要なものとみなされている。
<集合論について>
 集合論はドイツの数学者カント−ルにより、19世紀後半に創始された。
  自然数の数と、実数の数とでは、どちらが多いかと言う思考を作り出した。しかしどちらも無限に有るのだから、比較など出来ないのではないかと考えるのが、普通なのであった。しかし、カント−ルはそれを思考する方法を見つけだしたのである。−−−>対角線論法と言う。
無限と言っても実はレベルの差、大きさの違いが有るのだと言う事なのです。
19世紀の最後に、集合論の基礎部分に意外な致命的欠観のある事が発見されたのです。それが「集合論のパラドックス」と呼ばれているものなのです。「Aである」と「Aでない」事が同時に成立つアンチノミーが出てきたのです。
この矛盾の解決の方法が出て来た。
  (A)ラッセルの論理主義
  (B)ブラウワーの直観主義
  (C)ヒルベルトの形式主義
この方法の中で、ヒルベルトの形式主義の道が進められたが、ゲーデルの「不完全性定理」によって、その道には先がない事が明らかになってしまったのです。

付録2 ゲーデルと嘘つき
嘘つきのパラドックスが関わるのは、この「不完全性定理」なのです。
<数学の完全性>:数学的命題Aとその否定命題「Aではない」では、前者が証明できない時は後者が証明できるだろうし、後者が証明出来ない時は、前者は証明できるということ。どちらかに証明される事は、全く自明であり、ただどちらかかは、色々な条件に依るのだと言う事なのです。
<定理=真理><数学の無矛盾性>
ゲーデルの不完全性定理:
  第一不完全性定理:数学の公理論Pが、もし矛重を含んでいないなら、肯定も否定も共に証明する事の出来ない命題が存在する。これは、数学理論の中にAも「Aでもない」も共に証明出来ないような命題Aが存在する事を述べている。
  第二不完全性定理:数学の公理論Pが無矛盾であるならば、Pの無矛盾性をPにおいて証明する事はできない。たとえ数学理論Pが事実として無矛盾であるとしても、我々人間は、その事をPにおいて、「証明する」ことは出来ないと言う事である。