読   書   日   記

私が日々目を通す書物に対して、私の今の視点と、了解できない観点を書き抜き、それ
をどのように理解すると、私の了解になるかを目的に日記風に綴っていきたいと思います。

−−−−−−−−2002年04月24日−−−−−−−−

マルクスの現在 柄谷行人その他 とつても便利出版部
  −−−−マルクスのトランスクリティーク−−−−

カントの言う「超越論的」−−−「経験的」に対立する言葉
カントは、感性とか悟性について考えましたが、そう言う諸能力は実体として存在している訳ではありません。カントのやった事は、存在者としては、ないもの(存在=無)の働きを吟味する事だと言えます。例えば超越論的主観と言うのは、存在者、つまり「私」とか「自己」とかいう経験的なものではなく、無として働いているもの(統覚)です。この様な無の働きを捕らえる事が超越論的態度だと言っていいと思います。超越論的態度は構造主義と言う形で出て来たと思います。構造と言うのは、もののかたちの事ではなくて、形を変換する規則の事です。だから形が違っていても、変換規則が同じであれば、同じものであると言う事になるのです。−−<あるもの>は、その各々が、形の違いとしてあるが、Aと言う形から、Bと言う形への移行には、一定の同一性がある。形の移行が、規則的な変換として成立しているのです。この変換の事を構造という。この構造は、何処にあるか。もの移行運動としての運動そのものにある。ものの運動の現実態として形があり、その現実態のその時その時の姿が、形であり、運動と現実態の関係を構造と言うのです。−−それはトポロジーの意味での同一性なんです。
「超越的」と「超越論的」との区別:超越的な神なら神が私の後見人になっているとすればその神に従っている限り、私は神が作った世界を正しく認識できるし、その中で正しく行動出来るのです。しかし、カントの言う「啓蒙」と言うのは、そう言う後見人に依存する幼児段階を脱して大人として自立し、自分で自分の認識や行動に責任をとれる様になる事です。自分が経験的に認識しながら、しかもその経験的認識はいかにして可能か、どこまで行けてどこまで行けないかと言う事を、自分自身で考えなければいけない。それが経験的認識に対する超越論的反省です。
自分の声を、テープレコードから聞いた。しかしそれはすぐに閉じられる。閉じられると言う事は、また表象になると言う事、経験的なものになることです。
カントは普遍性と一般性を区別します。一般性と言うのは経験的に見て一般的的に言えると言う意味です。他方普遍性と言うのは自然科学で言えば、ほとんど実験しなくとも科学的な法則性として言える事です。普遍性をと言う事は、反証を持ち出すであろう、そのような他者を想定することです

マルクスはイギリスで経済学批判の仕事に取り組みことになる。
イギリスにはスミスからリカードに至る古典経済学がある。労働価値説と言うのは、単純にとれば、労働生産物の中に汗がしみ込む様に自分の労働が凝結すると言う感じになり、これは労働生産物の中に人間の本質が疎外されると言う事とおなじになる。
−−以上の事を労働価値説と言うなら、それは社会形態の変化に変わらず成立していることであり、人間の存在の基本形態なのでしょう。それに対して、労働の凝結した労働生産物が、商品として価格を介して取り引きされる時、働く事で得ている賃金と商品の価格との間から出て来る剰余価値は、労働生産物が商品となる特定の社会形態の解明なしには、解き明かせないのです。労働生産物と言う時、人間は自然に働きかける事で、自然を身体化するのであり、それは生きている限り成立している事なのであるが、しかしそれはけっして超歴史的と言ったものでは無く、その自然の身体化の仕方が、つまりどのように育てるのか、捕獲するのかと言う事は、技術とか知識によつて、歴史的に変わってくるのです。その特定の社会形態は、基本形態としての労働価値説を踏まえる事なしに、解明は出来ないのです。何故なら基本形態がなぜある特定の社会形態を取るのかが、まさに特定形態の構造の解明なのだからです。
例えば、水という液体の構造を明らかにする事は、観察、実験等によつてなされるが、水から氷への変化や氷が解けて水になる時の環境の観察などから始められるが、しかし、単に現象面の観察を超えて、水を構成するH2O分子の発見を介する事で、形態の変化(水−>氷)(水−>水蒸気)が、分子H2Oの運動量の違いであると言う本質レベルの発見ガできるのです。問題は分子H2Oを発見する事ではなくて(労働価値説の発見ではなくて)H2Oと言う分子の運動形態を明らかにして、どの様な運動の時に、液体としての水になり、どんな運動の時に、固体としての氷になるかと言う、その<どんな>と言う条件を解明する事こそが、問われる事なのです。<水、氷、水蒸気>と言う三形態に対し、分子H2Oを対峙させても、それは単に四つめのモノだと言う事なのだが、そしてこの四っめの存在で理解する事は、<水、氷、水蒸気>の存在に対して、超越的存在として判断されているのです。存在としては同じでありながら、特別な存在と言う意味で、超越的存在と言う事なのです。それに対して、<水、氷、水蒸気>を現象として規定する事で、其の現象を実体としての分子H2Oの存在の現れ方として再規定すると、始めて<みず、氷、水蒸気>と言う現象が、分子H2Oの運動の違いとして把握し直されるのです。単なる現象であるモノが、実体としてのH2O存在の違いとしての現象となるのです。H2O分子の運動が明らかにされる事で、その運動の量的違いが形態の違いである事を解明される時、三形態と分子H2Oの本質的関係が解明されたと言う事なのです。三形態はと言う三つがあるのではなくて、分子H2Oの運動のとる特定の形態の違いとして解明されることで、三形態と言う現象的なモノを、本質たるH2O分子の現象形態と規定するのです。私達が現象として把握している三形態が、本質レベルから再規定される事で、本質の現象形態と言う規定を、新たに受けるのです。三形態が全く別のモノになったのではなく、私達の目の前に繰り広げられている事は相変わらず同じだが、水は水としてあるし、寒くなれば氷になつているのだが、ただその構造が解明されて、現象として知覚されているものが、<本質の現象>として、論理化されたと言う事なのです。この本質とは、実体としての分子の存在と、他の存在との関係を言い、他の存在から与えられたエネルギーがH2Oの運動を変化させる事で、各形態の違いとして現れるのです。H2O分子の存在を実体として規定し、不変な存在と考える事と、その分子H2Oが、運動する事と、どう繋がるかと言えばH2Oが実体であるのは、原子H、Oの結合が、H2Oで決定されていて、原子に分離しない限り、無変化としてのH2Oと言う事であるからこそ、実体と言う存在になるのです。実体としての存在で無くなるのは、水素と酸素という原子に分離する事であり、原子の段階から見れば、原子の水素2と酸素1の結合が、水分子H2Oであり、その原子の数量の違いによって他の分子を形成するのであり、とする諸原子の数量の違いが、各分子形態の違いとして現れる時、水分子H2Oは、原子と言う実体の存在の現象形態と規定されるのです。つまり、ここに新たな段階の論理構造が示されるのです。
所で、その<水、氷、水蒸気>と言う三形態に対して、日常の言葉としては、皆存在としてあると考えられている。つまり、形態論の立場としては、私達が接している<水、氷、水蒸気>は、分子と言う存在の現象形態であり、そこにあるのは分子と言う存在であるのに、「日常としては<水>は。私の家のバケツの中にある」のであり、其のバケツの中に「ある」と言う存在は、バケツと水の関係から導かれるものなのでしょう。形態論で現象と規定されているものも、他の物体との関係から、<存在>と言われる様になるのです。つまり、水は、H2O分子の特定の運動形態であり、現象なのだが、其れでもバケツと言うものとの関係から、分子の存在の<存在>になるのです。−−

資本論の冒頭では、いわゆる蒸留法によつて労働が商品の価値の実体として見い出されるけれども、その後の価値形態論で、そう言う単純な見方は事実上乗り越えられるのです。言い換えれば、単純な労働価値説でよければ、価値形態論は必要がなかったはずです。

マルクスの実施した事に対する誤解。
フォイエルバッハ宗教批判の貨幣論への適用−−モーゼス・ヘスが先にやっている。
剰余価値や搾取と言う考え方は、イギリスのリカード左派が最初におこなっている。
マルクスはリカードり価値実体論に対して、ベイリ−の価値相対論を持って来て、その双方を批判する形で「資本論」を書いた。「経済学批判要綱」や「経済学批判」を書くけれども、「資本論」になると、それまでなかった「価値形態論」と言うのが、始めて出てくるのです。
労働価値説と言うのは、各商品に対象化された労働として価値が内在していると言う考えです。それは哲学で言うと、<個の中に類がある>と言うのと同じ事で、いわばライプニッツ的な合理論になる。あらゆるモナドの中に全体性が含まれていると言う考え方です。
−−価値論では、商品に内在する対象化された、投下された、凝固した労働が、価値を形成すると考えるのだが、しかし、<この商品>を、そのまま個々の商品とすれば、個々の商品にはすでに価値があると言う事になり、その個々の商品に価値があるから交換されると言う事になってしまうのです。「ラジオであり、テレビであり、リンゴでありと言う様に商品があり、それらがみな<商品>と呼ばれる時、その個々にある何かが、皆を商品と呼ばれる」と言う考え方は、思考としては、実体的な考え方であり、だから<マルクスが、生産物に投下された労働について、その凝固された労働は、価値を形成するが、価値ではないと言う事で>、個々の生産物に投下された労働と、その労働が形成する価値とを区別しなければならないのであり、投下された労働は、実体レベルであり、価値は関係レベルと言う事になります。労働価値説は、本質レベルの論議であり、それをそのまま個々の生産物に当てはめてはならないのであり、あてはめるから、個々の生産物に価値があるので、交換されると言う事なのです。労働価値説は、本質レベルと言う事は、個々の労働生産物が交換関係に入る事で、その関係を担う個々のモノである時、始めて投下された労働が、価値と呼ばれるのです。だから、個々の生産物が商品と呼ばれるのは、個々の生産物に投下された労働があるからではなく、その労働が交換関係において、価値となるからである。関係概念が得られなければ、実体概念で止まってしまうのです。ライプニッツのモナドは、実体的な段階であり、商品が、正に個々の商品のレベルで把握されているにすぎず、その個々の商品の中に、価値が内在していているために、個々の商品は各々単独で、すでに商品であると言う事になります。しかし、生産過剰のキャベツは、売れば売る程赤字になるので、単価をさげないために、市場に出さないのは、交換関係に入れないと言う事であり、その関係に入らなければ、商品になる事はないし、かといって自分の食用の為には、数個のキャベツがあれば好いし、それこそ無量で配ればキャベツを金を出し手まで買う人がいなくなり、さらに単価が安くなってしまうので、結局廃棄する以外にないのです。
ライプニッツのモナドは、自分以外の他のモナドに関わる窓口が何処にもなくても、内在する本質により、関わると言う者なのです。モナド自身は、内在する本質に依り、運動するのであり、その意味で、他者を必要としない自立したものであり、それを合理というのです。他者に関わる事で、自らも変化すると言った偶然性を必要としないのです。<商品>とは本質レベルの規定であり、その規定を実体化して、つまり、投下された労働と言う規定で考えてしまうと、個々の生産物=商品 となり、交換関係が抜け落ちてしまうのです。商品の規定が本質レベルで成立していると言う事は、交換関係の内部の出来事であり、その内部であるからこそ、個々の生産物は、商品と規定されるのです。交換関係が成立する社会とは、人間が私人として各々切り離された社会であり、労働の生産物を価値として交換する事で成立っている社会と言う事なのです。その人間の特定の社会的関係が、ここの生産物が商品として現れていると言う事なのです。

カントを独断論(ライプニッツの合理論)のまどろみから、目覚めさせたのが、ヒュームの考え方です。ヒュームによれば、単に知覚の束がある。自己というのは政府のようなモノだと言うのです。新しい内閣は、まえの内閣が約束した事を引き受けなければならない。そう言う意味で、自己同一性があるだけで、統一の自己などない。ヒュームはそう言う懐疑を徹底してやったのです。カントはヒュームを批判して、超越的統覚をもってくるのですが、それは実体的にあるのではない。むしろたえずヒュームの懐疑を考えないと、カントは理解出来ないのです。
マルクスの文脈で言うと、労働価値説にたいしてベイリ−が持った意味は、まさに合理論に対してヒュームがもった意味と同じです。商品の中に内在的価値なんてものはない、他の商品との関係に依る相対的価値しかないと彼は言う。そして商品の諸関係の体系があるだけだと。マルクスは価値が投下され労働時間だと言う古典経済学の考え方に従っていますが、しかし、商品の価値はそれが交換されなければ、実現されない事を「資本論」では強調した。まずもつて商品は他人にとって使用価値でなければいけない。それを新古典はのように「効用」といってもいいのです。その面をマルクスは非常に重視したのだと言う事は重要です。「価値形態論」と言うのは、リカードとベイリー、合理論と経験論の間にあって、それらをともに批判する視点から書かれている。

カントが「プロレゴメス」で書いている。<私は観念論者ではない。物はあるに決まっている>と。ただ物自体は認識できないと言っているだけだ。マルクスだって普通にそう言う事を言っているだけです。例えば、商品経済において生産物は商品形態に置かれた時にのみ商品なので、あらゆる生産物が商品なのではない。経済学はそう言う意味で「現象」のみを扱うわけです。
−−単に個々の生産物が、そのまま商品と呼ばれる訳ではない。個々のモノを、別名として商品と呼ぶのではない。個々の生産物が、相互に交換される時、両者の間に成立する等価関係を両端にあるそれぞれの生産物の<あり方>の違いを表す<商品形態>を成す時、始めて商品と呼ばれるのです。個々の生産物が、相互に交換される事で、つまり、交換関係を形成する時、関係の両端にある事を商品形態にあると言うのです。個々の生産物に対して<交換関係>があり、その関係を担う生産物の事を商品と言う。個々の生産物は特定の用途として作り出されるのであり、食べ物として、その食べ物を料理する道具として、食べ物を生産する農機具として、と言う様にその材質による特定の使用形態があるのに対して、生産物同志の間に成立する交換関係から、その生産物を再規定する事で、それぞれの生産物が商品形態にあると言うのです。さらに個々の生産物も、人間の労働の投下されたモノのことを言うのであり、人間の労働との関係から、モノを見る時はじめて生産物と呼ばれるのです。だから<あらゆる生産物>が商品ではないと言う言方は、生産物が、交換関係に入らなければ、生産物は商品にはならないと言う事なのです。個々の生産物はその使用目的により多種多様であるが、単に使用される事で、リンゴは手に取り口に運び、食べればそれで終了する過程としてあるのです。しかし自分が食べるのではなく、市場に持ち込み交換が成立すれば、リンゴは商品として交換されたと言う事になるのです。とすると、経済学が「現象」を扱うと言う事は、あらゆる労働生産物のうち、交換関係の内部に入った生産物だけを扱うと言う事となのであり、交換関係の内部に入ったと言う事で、個々の生産物の規定が変わる事を、現象と言う言葉で示しているだけです。
−−<労働価値説にたいしてベイリ−が持った意味はまさに合理論に対してヒュームがもった意味と同じです。商品の中に内在的価値なんてものはない他の商品との関係に依る相対的価値しかないとかれは言う。そして商品の諸関係の体系があるだけだと>
と言う時、<商品の中に内在的価値>と言う商品は、個々の商品の事を考えているのであり、その個々のモノには価値などないが、関係を形成する事で、始めて相手に対する相対的価値が出て来るのだというのですが、その関係のどこから個々の商品の相対的価値が出て来るのかと言う事になる。何故人々は個々の商品に価値が内在していると考えるのかと言えば、個々の生産物に投下された労働が、生産物に凝固した労働が、交換関係によって、価値になると言う事を前提にすれば、価値はあくまでも交換関係によって生ずるのであって、その関係に入る個々の生産物の凝固された労働が、関係によって価値になるのです。べイリ−の考え方は、価値が関係において成立すると考えたが、商品の何が関係において価値になるかと言う事が述べられてはいないのです。<商品の諸関係の体系>は問題がないが、労働生産物とそれが商品である事の区別が出来ていないのです。個々の労働生産物が交換関係に入る事で、関係を担っている生産物を商品というのです。問題は交換関係に入る事を前提に生産されている生産物を普通商品を生産していると考えるのであり、生産された生産物が商品として売れると言う事では無いのであり、もし売れなければ、廃棄する以外に無いのです。そこで生産されている生産物は特定の使用価値としてなのであり、それが実現される事で結果として有効になるのです。天候が良かったのでとれすぎたリンゴを他者の野菜と交換に使うと言う事と他者の野菜との交換の為にリンゴを大量に生産する事の違いなのです。交換を前提に生産される生産物には<他者の為の使用価値>と言う規定が成立していて、所有者がその使用価値を実現すれば、他者の為の使用価値と言う条件を無視する事になり、商品では無くなるのです。この<他者の為の使用価値>と言う側面を、理屈として「使用価値」以外に「交換価値」と規定するのです。交換を前提に生産された生産物には、使用価値と交換価値の二つの面が成立していると言う事になるのです。

論理としては、実体が関係に中でも同一性としてあり、個々の別々の種類の労働生産物に対しては、投下された労働が、その実体としての規定を受けるのである。ただし、個々の種類の違った生産物に投下された労働ではなく、抽象的な、あるいは社会的労働と言う事になります。この抽象的と言う規定は、まだ論理としてだけであり、個々の具体的労働との繋がりが明らかにされる時、はじめて論理は、現実となるのです。この実体としての、投下された労働、凝固された労働が、関係から規定される事で、価値と言われるのです。
この関係と言う言葉で示す対象は、例えば交換関係の場合、個々の生産物がそれこそ見たり触ったりできるモノであるのと違い、生産物の相互の所有変更と言う運動を指示していて、<生産物>と<所有変更と言う運動>と言う区別と同一で捕らえた論理的概念を言葉として、<交換関係>として、表すのです。交換されるのは、見たり触ったり出来る諸労働生産物であり、その生産物が、実体と言う、諸労働生産物に共通するモノである投下された労働、凝固された労働を介する事で、始めて関係と言う言葉が成立したのです。つまり、労働生産物が所有を変更するのは<生産物Aを持つAと生産物Bを持つBとがいて、生産物BがAに、生産物AがBに移動する>のは、見た通りの活動なのだが、しかしその活動に対して、生産物Aと生産物Bと言う別々の違ったものが、どうして交換されるのかと考える時、答えの1つとして、AとBがそれぞれ相手の持っているものが欲しいと言う欲望があるからだと言うのは、相手から黙って持って来ても良いのであり、欲望は相手のモノを欲しいと言う事だけになってしまう。その欲望の上に相互に交換すると言う、違ったものを等置する構造が問われるのです。欲望はモノを手に入れると言う人間活動の原動力であり、その原動力によって行われる交換活動にたいして、違ったもの同志が、どの様な構造で成立するのかと言う事なのです。それはすでに欲望と言う舞台の上の配役同志の相互のあり方が問われているのに、相変わらず、舞台と言う台のあり方を云々すれば、済んでしまうと考えてしまう事なのです。

第二章 綜合の危機


古典経済学者はアダム・スミスは、商品とは使用価値と交換価値である、と言う。だが、どうしてそのように言えるのか。それは商品が首尾よく他の商品(貨幣)と交換された後である。アダム・スミスは事態を事後的に考えている。
−−ものを作る時、自分の使用の為にだけ作るのであれば、モノは単に使用される事で使用価値が実現されるのだが、自分の消費ではなく、他者に売る為に作れば、他人の為の使用価値として、交換価値をそこに入れる為に作るのです。豊作の為に余分に作れたのでは無くて、あくまでも他者の為に作るのであり、作った後に、他者の手に渡す方法を考えると言う事です。他人の為の使用価値とは自己の為にであれば、そこで使用されてしまうと言う事で如かないモノが、他者にとっては、まず私の所有から他者の所有になる事で、彼のてに渡り使用されると言う事です。そこにもし私の意志を無視して所有が変われば、それは窃盗と言う事になり、交換と言う事では無くなるのです。一着の上着に5000円と言う価格がつき、私が手持ちの貨幣5000円とその一着の上着を交換する事を、購入すると命名しているが、問題はそこでは、<一着の上着と貨幣が交換される>と言う事であり、私達は5000円と言う貨幣と一着の上着が交換されるのは、あくまでも一着の上着に5000円と言う価格がついているからだと判断しているが、一着の上着に付いている5000円と言う価格が、何を表しているのかと言う事を問うのです。それは5000円と言う貨幣と上着の5000円と言う価格との関係になります。たぶん一着の上着に含まれる何モノかが、貨幣としての5000円として表されると同時に、自身に5000円と言う価格として表されると言う事です。それは比喩的に言えば、個々の人々が存在して、彼等に山田和夫とか山田侑夏とか山田瑞季と言う文字があり、それらを名前と呼ぶ場合、個人に対して<山田和夫>と<固有名>と言う二つの面の使い方があり、後者が概念を表しているのに対して前者は概念の現実態と言う事になるのです。「山田和夫」も「固有名」もどちらも言葉として表されているのであり、後者が概念の表現であるのに対して前者は概念の現実態の表現であると言う事です。
日常的には「山田和夫さん! はい何ですか」と言う言葉として表されているのであり、それを分析して<山田和夫>と言う言葉は、<Aと言う個人−−山田和夫>と言う関係として成立している固有名詞であり、文字としてはあくまでもインクの跡としての<山田和夫>で在るが、<Aと言う個人−−山田和夫>と言う関係にあるインクの跡であり、その関係にあるインクの跡を固有名詞と言うのです。
関係なしにたんに<山田和夫>と言うインクの跡は、まさに単にインクの跡であるが、特定の文字と言う言葉としてのインクの跡になるのです。それが<Aと言う個人−−山田和夫>と言う二つのモノの間の関係なのです。間にある関係によって規定される<Aと言う個人>と同じくその関係によって規定される<山田和夫>と言う文字になり、前者がへ個人になり、後者が固有名詞と呼ばれるのです。
関係と言う言葉は、二つのモノの間に成立しているモノを指示しているが、空間的な間では、二つのモノが一定の距離として隔てられていて、その隔てられている空間を間と言う事であると言えるが、言葉の場合には、インクの跡と<Aと言う個人>との二つのモノの間では、空間と言う訳には行かないのです。では両者の間とは何であるのかと言う事に成ります。それは<山田和夫>と言う文字が、或個人を対象として成立している認識を表すことにより、その認識を介して<Aと言う個人−−山田和夫>と言う両者に関係が成立する事なのです。二つのモノとしての<Aと言う個人>と<山田和夫>とが、指示関係を結ぶとは、両者が認識を介していると言う事であり、<Aと言う個人>に対する認識とその認識の文字としての表現である<山田和夫>と言う文字であり、その文字としての<山田和夫>と言う文字が、札の様に<Aと言う個人>に付く時、その<付く事>を両者に指示関係が成立したと言うのです。
黒色のビンに貼られているラベルが、中がどんな液体なのかを名称で表すと言う時、ビンに貼られているラベルは、そのビンに入っている液体を指示し、どんな液体かを、ラベルの文字で表すのです。ラベルがはがれていれば、個別的なモノにたいする指示が出来ないのであり、ラベルに書かれた文字が特定の液体の性質を表していても、現に私達の目の前にあるどの黒色のビンのなかの液体がラベルに書かれた名称の液体であるかは、再度液体自身を確認しなければ、分からないのです。つまり一度液体の性質が調べられた上で、その性質に付いての認識を言葉、アンモニアと表示したのであり、その調べた上で書かれた文字アンモニアをラベルとして、その液体の入っている黒色のビンに貼ったのです。アンモニアと書かれたラベルに対して、その名称が指示する液体の性質を、文字から理解するのであるが、その理解はしかし、ラベルが剥がされていて、どのビンのなかの液体がそうなのかを特定出来ないのです。
ラベルの文字のレベルでは、体験された液体の性質を理解されたモノが、書かれている。その<液体>の<性質>が化学的に調べられたり、指のぬめりとか臭いの刺激臭とかとして理解されていて、それをアンモニアと言う言葉で表すのです。いまはその調べられた液体や他の液体の入った黒色のビンが何本かありそれぞれに、その性質を調べて得た認識を書いた文字のラベルが貼って在ります。ラベルの糊がとれてラベルが剥がれてしまうと、ビンの見た目では、液体の性質を区別できません。それぞれの液体を再度調べる事で、個々のビンの中身を区別できる様になります。
ラベルの文字のレベルでは、その文字が、私達の身の回りにある特定の液体の性質を調べて得た認識を表しているのです。私達の身の回りにある特定の液体の性質の調べて得た知識は、あくまでも身の回りに或モノから得ているのです。その知識を書いた文字のラベルを今目の前の黒いビンに貼る事は、そのビンに入っている液体が、ラベルの文字が表す知識の個別的な対象である事を、表しているのです。目の前のこの黒いビンに入っている液体が、ラベルの文字が表している知識の対象である事を表しているのです。
今私の目の前に、聞いた事も見た事も無い文字で書かれた、ラベルが貼られている黒いビンが在ります。その文字とその液体に付いての研究から得られた知識とが統一されることで、ラベルの文字が特定の知識−−液体の性質に付いての知識−−を表していると言う事になります。ラベルの文字を読む事で、文字が瓶の中身の液体が<何であるか>を表す事になります。今私の目の前の瓶のラベルには<アンモニア>と表記されています。私はそのラベルの文字を<アンモニア>と読む事で、液体の性質から受けるつーんとした臭いとか、指の皮膚が感じるぬるぬる感を表象するのです。つまり実際に液体にふれた経験から得られている知識と<アンモニア>と言う文字とか統一されているのです。私の頭の中の知識は、皮膚や臭いや見た目等から得られているのであり、当然五感が向かっている対象としての液体があり、その液体についての知識と言う事なのです。今はその知識を表した言葉としての<アンモニア>と言う書き文字を、透明な液体が入った瓶にラベルとして貼る事で、その瓶の中の液体に付いての知識を表している事になるのです。
初めての人は、その瓶の中の液体の性質を直接経験する事で知覚するのであり、同時にその知覚から得た性質に付いての知識を<アンモニア>と言う文字と関連づけて覚えるので有り、その関連づけが記憶として頭の中に残れば、実際に液体に直接ふれてつーんとした臭いや指のぬるぬる感が生ずれば、これは<アンモニア>だと言う言葉としてつぶやかれるのです。問題は、液体にふれると言う経験から生まれた頭の中の知識と<アンモニア>と言う文字が関連づけて記憶される事に対して、個別としての現実に触れているこの液体やその液体が、知識の対象たる<性質>の現実形態として理解される所にあります。つまり知知識の対象としてある液体は、その液体が持つ<性質の現実形態>と言う規定となるのです。知識の対象たる液体ではなく、現実の物質としての液体では、それぞれの数量としての量が他の液体との混合で別の性質をしめすと言う事なのです。あるいは蜂に刺された時に刺された所の皮膚にその液体をつける事で腫れを防ぐのは、その液体の性質に依るのであるが、しかしあくまでもその性質をした液体が皮膚に触れることで生ずるのです。皮膚に触れるのはあくまでも液体であり、だから皮膚が濡れるのであり、ただ腫れを生じさせないのはその液体の性質と言う事なのです。私達が経験しているのは液体としての、そのものであり、水で薄めることで野草の繁殖をおさえたりと言う経験なのです。その経験は野草の成長に対する液体の性質の働きを特定するのであり、そこから同時に野草とは独立した液体自身の性質として抽出されるのです。
<アンモニア>という文字が表すその知識が、至る所にある液体の性質に付いての知識であるなら、この液体ばかりでなく、他のビンに入っている液体に付いても、その文字に表されている知識を得る事が出来るのです。しかし今特定の知識を表した文字のラベルを、目の前の黒いビンに貼れば、その目の前の黒いビンに入っている液体に付いても、ラベルの文字が表す知識を得る事が出来ると言う事なのです。黒いビンの中に入っている液体に特定の性質があって、それを調べれば具体的な性質が明らかにされるのであるが、貼られたラベルの文字が表す内容として、その液体を扱う事になるのです。つまり今アンモニアと書かれたラベルが貼られている黒いビンの液体を、その性質として使用する事で、アンモニアと表示される液体が示す現象を出すかどうかが分かるのであり、その現象についての理解の時点でアンモニアと言う文字が書かれたラベルが、いまの液体の性質を指示していると言う事なのです。その黒いビンに入っている液体の性質が、化学的に調べられて、他の液体と混合したときの色とか粘度とかの性質が現象形態として捉えられると言う経験の中から、ラベルの文字として言葉で表されるのです。その経験を踏まえて、目の前の黒いビンの液体を使用して他の液体と混合させると言う実験を行い、特定の現象形態から得られた知識は、その黒いビンのアンモニアと書かれて文字を呼んで理解した知識と統一されるのです。
ラベルを読んで理解した知識は、経験から得られた知識によって作られているが、今目の前にしているその黒いビンのラベルのアンモニアと言う文字から知った内容は、経験を思い浮かべる事で、<あ!アンモニアだな>と言う了解のレベルが成立するのです。それは言葉の理解から頭の中に経験が浮かんできたと言うことでしか無いが、しかしその浮かんでいる事に対して、そのビンの液体の臭いとか皮膚の感触を知覚する事で、この目の前の視知覚されているビンの液体が、<アンモニア>と言う言葉で了解するモノであるとなるのです。私の目の前にある黒いビンに入った液体は、五感のより臭いとか皮膚感等として知覚されるのであり、ラベルの文字により<アンモニア>と言う言葉に現れる概念として理解するのです。
私の目の前の黒いビンに入っている液体には特定の性質があり、それが他の液体との混合によって出来る色合いとか蒸気とかを確認出来るのです。その様な液体の入っている黒いビンに<アンモニア>と言う文字のラベルを貼れば、それは液体自体にある性質に対して、私達の頭の中にその性質についての認識が成立しているモノが、言葉として表されているのです。その認識の表されている言葉が記された紙がラベルとしてビンに貼られる事で、貼られているビンの中の液体が、<性質についての認識>の表されている文字との指示関係を形成されることになる。この黒いビンに入っている液体が、その性質に付いての認識の表されている言葉である文字と指示関係を形成していると言う時、このビンの中の液体とラベルの文字との間にある<指示関係>は、瓶とラベルとの間に直接貼られている事で、物理的に成立している。もし糊が乾いてラベルが剥がれれば、指示関係を物理的にしているモノが無くなり、瓶の中の液体が何であるのかを知るには、直接調べなければならないと言う事なのです。瓶の中の液体を他の液体と混ぜ合わせる事で生ずる現象によりと特定の性質を知る事になるのです。とすると瓶に貼られたラベルの<アンモニア>と言う文字が表すモノは、あるいはその文字を読む事で理解するモノは、その瓶の中の液体が<アンモニア>と言う言葉で表されている認識が示す内容であるその液体の性質で有れば、他の液体と混合されることで表す現象の構造を、前もって予想する事が出来ると言う事なのです。<アンモニア>と言う言葉が理解できなければ、目の前の瓶の中の液体を他の液体と混合した時の結果を予想できないのであり、混合するその場所に予想を超えた出来事が出てくるかもしれないのです。つまり、瓶の中の液体の性質に対してその性質を知っている事により、他の液体と混合される時の状態を予想出来ると言う事なのです。この予想と言う思考は、事物の中で生きている私達が、事物に関わる時にその性質に依って関わり方の違いがあり、その違いを知っていることが、生きることの継続に影響するからこそ、身体として生きる為の頭脳と言う身体の働きと言う事なのです。
私達の目の前の棚に入っている黒い瓶の、貼られているラベルの文字は、その液体の性質についての、私達の認識を表していている。ラベルはこの瓶に貼られる事で、紙と言うレベルでは、ガラス製の黒い瓶との貼られる関係を形成するのであり、糊が乾いた場合には、剥がれてしまつて、その瓶とは無関係になってしまうのです。さらにその紙の上に記された<アンモニア>と言う文字は、瓶の中の液体に対する指示関係を形成するのです。そのマジックペンで書かれた文字<アンモニア>は、液体の性質についての私達の頭脳の中に成立している認識が媒介されている事で、液体と文字が指示関係にあると言う事なのです。つまりその文字は、黒い瓶を指示しているのではなく、黒い瓶の中の液体を指示しているのです。
そしてここからが重要なのだが、その文字を記されている紙がラベルとして貼られている事全体を考えるのである。文字が液体との指示関係であり、ラベルがその黒い瓶との関係であるなら、文字の記されている紙がラベルとして黒い瓶に貼られている事が解明されるのです。文字として表されている認識である<液体の性質>と言う認識内容の現実的形態として、この黒い瓶に入っている液体が成立しているのです。そのラベル−−紙と言う物質であり、インクの跡であり、糊によって貼られるのです−−の貼られている黒い瓶の中の液体が、私達の頭脳に成立している<液体の性質>と言う認識の現実形態であると言う事なのです。私達の頭の中に成立している認識は、物質としての液体の性質が脳の中での像として成立しているのであるが、ただその像は本人だけが頭脳の中に表象できるだけであり、だからこそその表象を外部のインクの跡と関係づける事で、他者もその関係を辿ることで、同一の表象を作ることになるのです。ラベルの文字が私達にとって関わるのは、そのラベルの文字に表されている認識が、その液体の性質についての認識として有り、その認識を介して、液体を取り扱う事により、その液体の性質による変化等を予想出来るのです。私達の頭の中で成立している、物質の性質についての認識は、<アンモニア>と言う文字よる表現をラベルと言う物質により、黒い瓶に貼ることで、その瓶のなかの液体が、その言葉に表されている認識、つまり液体の性質の現実形態となるのです。この瓶のなかの液体が、<アンモニア>と言う言葉が表す普遍的な性質の、現実としての液体であり、個別としてあるこの瓶の中の液体を、<種類>として扱っていると言う事なのです。ラベルを貼ろうが貼るまいが、特定の性質である事に変わりがないが、ただ私達は<種類>という扱が出来ないのです。液体の性質についての認識は、その液体の扱う私達の活動であるこの身体の中心として頭脳の働きが有るからです。私達の身体存在が能動的にも受動的にも関わる際のその関わり方を規定するのです。

この黒いビンの中の液体が、アンモニアと名指されると言う事は、その名前に表される認識が、液体の性質についての認識として成立している事です。私達がその液体の性質について認識を持っていると言う事はその液体を扱うときに性質を考えながら実施しなければ成らないのであり、例えば喧嘩をしていて後先を考えずに、棚にあった黒いビンを相手に投げつけてしまい、相手の目を失明させてしまったとすれば、彼がその黒いビンの中の液体の性質を知っているかどうかで、彼にその液体の性質がどんな結果を引き起こすかに、関わらざるを得ないのです。単にモノを相手に投げつけるのに手に持ちやすく、すぐ手にとれるものとし、棚の黒いビンで在ったとしたら、かれはラベルのアンモニアと言う文字の意味を、その時点で考えなかったと言う事なのです。彼がその液体の性質を全く知らなくて、と言う事はラベルのアンモニアと言う文字の意味も分からないと言う事だが、顔にかかった液体から目が開けられなくなった相手を見てどうして彼は目を開けられないのかと不思議がれば、それは彼が液体の性質が人間の目にどんな現象を引き起こすのかと言う事を知らないからなのです。
ラベルの<アンモニア>と言う文字が中の液体のどんな性質の認識を表しているかと言う事であり、私達がその文字を理解できる事は、その液体の性質を知っていると言うのであり、さらにここが重要なのだがその言葉が書かれている紙がラベルとして、黒いビンに貼られていると言う事は、文字がラベルとして黒いビンと言うまとまりと、一対一の対応関係があると言う事であり、その関係を指示関係と呼ぶのです。文字としての<アンモニア>は、その様な性質の液体があると言う事を表しているだけだが、それがラベルとして黒いビンに貼られれば、その液体が、まさにその<アンモニア>と言う言葉に表される、対象であると言う事なのです。<アンモニア>と言う文字は、ある液体の性質についての認識をあらわしているが、その文字を記した紙をラベルとして黒い瓶に貼れば、その黒い瓶のなかの液体自体が、その性質の具体的形態であると言う事で、指示対象となるのです。液体の特定の性質が対象なのではない、あくまでも液体自体が指示の対象であるが、ただ液体自体は、その性質の現実形態と言う事なのです。液体の属性が<アンモニア>と言う事ではない。この液体自体が<アンモニア>と言う言葉で表される認識の対象である性質の具体的あり方なのです。<アンモニア>と言う言葉として表されている、その言葉をラベルとして、その液体Xの入った黒い瓶に貼られる事で、その貼られるラベルの関係の内で、性質の現実形態としての液体Xと言う事になるのです。その関係の内部にあっては、液体はそれ自体と属性としての性質と言う区別ではなく、属性としての性質の現実形態と言う事なのです。思考の上での主体と属性と言う区別は、文字と対象との間の指示関係における、文字の表している性質が、指示されている液体自体を、現実形態としていると言う構造を、ただ区別として捉えているだけで、形態という同一性を無視している事なのです。つまりその区別は問題ないが、同時に同一性を明らかにしなければならず、それがここでは形態と言う事なのです。形態は単に認識とその対象と言う関係からは生まれないのです。文字とその文字が指示する関係は、ラベルに書かれたインクの跡としての文字と、液体の入った黒い瓶に糊で貼られていると言う関係であり、文字が表す認識とその認識が対象とするモノとの間にある、文字と対象との関係なのです。糊が乾いてラベルが剥がれてしまうのは、文字と液体の入った瓶とが、恣意的なつながりで有り、
文字としての<アンモニア>は、液体の特定の性質についての認識を表している。それは対象の種類と言う側面を概念とした認識を表していて、論理として<外廷と内包>として成立しているモノなのです。モノとしては、過去にあったモノ、現代あるモノ、未来に或モノと言うことであり、それらのどれにも当てはまるモノなのです。それを言葉に表し、ラベルとしてビンに貼られれば、ラベルとビンとの対応関係として指示するものと指示されるモノになり、これがまさに概念の現実形態となるのです。一般的概念が個別的概念になるのです。概念が自ら変化して個別に成ったのではない。個別としてある個々のビン対してラベルが指示として現れる事で、ラベルの文字に表されている概念が、個別となったと言うのです。指示された目の前のビンの中の液体が、<アンモニア>と言う言葉に表されている概念−−液体の種類という側面の認識−−の、個別としての現実態と言う事なのです。

もし或モノが交換される事に失敗したら、其れは使用価値すらもたない。単に廃棄されるだけである。ところが、其の事を事後的に見たスミスは、其れを事前的に投射し、あらかじめ商品には交換価値が含まれていると考えた。
ヘーゲルにとって、イエスが神である事は、以後キリスト教が拡大したと言う歴史的結果によって証明されるが、キルケゴールは「同時代的に」、つまり、事前において其れを知る事ができるかどうかと問う。いまここで、みすぼらしい人間イエスを神とみる事は「命がけの飛躍」としての信仰である。
事後的に見れば、商品は使用価値と交換価値の「綜合」であるが、事前において、それは存在しない。其れを実現する為には、他の商品(等価物)と交換されなければ成らないのです。古典派は諸商品の等置と言う結果から出発したので、其の商品が他人にとって使用価値(効用)を持つかどうかはどうでもよかったのです。それらが等置される以上、共通の本質として投下された労働がふくまれていると考えた。

「人間が彼等の労働生産物を互いに価値として関連させるのは、これらの労働生産物が、彼等にとって同種の人間労働の単なる物的な外皮と見なされるからでは無い。逆である。彼等は彼等の異種の生産物を互いに交換において価値として等置させることによって、彼等の様々な労働を互いに人間労働として等置させるのだ。」
Aさんの労働も、Bさんの労働も、どちらも人間労働であるから、その労働の投下された生産物を相互に等置するのではなく、別々の種類の労働の投下された生産物を、相互に等置することで、別々の種類の労働が、同一の人間労働として等置されるのです。Aさんの織物労働の成果であるリンネルとBさんの縫製労働の成果である上着とが、相手のモノを欲しいとと言う欲求により交換がなされる時、その別々の労働が、共通の抽象的人間労働に還元されるのです。交換活動が、リンネルと上着に投下された具体的労働を、抽象的人間労働に還元するのです。「問題は、交換活動が具体性を抽象性に還元する」と言う事が、いったいどういう事なのかと言う事になります。さしあたって交換活動により還元された抽象的人間労働が、外部に表現されたモノが貨幣と言う事なのです。交換活動から、貨幣が生まれて来たと言うありふれた事を言っているのです。ただ<リンネルや上着に共通するものとしての抽象的人間労働があるから交換が成立する>と言う様に、抽象的人間労働の内在が交換を作り出すと言う<原因−結果>と言う考え方では無いのです。交換は相互に相手が所有しているモノがとても有用であると評判であるから、自分もそれを使用したいと想っているので、まず手に入れたいという想いからなされると言う事なのです。とても有用であるからと言っても、窃盗して手に入れたので有れば、交換は成立しないのです。その有用性により欲しいと想っている事と、相互の交換による手に入れると言う事の次元の違いなのです。相手の所有物を欲しいと想っていると相手が恵んでくれれば、それで自分のモノになるので有れば、交換など考えなくても良いのです。有用であるからその有用性を実現した状況を体験したいと想っていると時には、まだ頭の中の表象だけであるが、その表象の実現に為には、相手の所有しているモノをまず自分の所有にしなければならないのです。この所有の変更こそが譲渡であったり、略奪であったり、交換であったりと言う事なのです。そして今は交換と言う事なのです。
<欲しいと言う想い>により活動がなされるのに対して、ここでは交換がなされるのであり、交換されるモノ同志に等価な関係があると言う事なのです。相手の20エレのリンネルを手に入れる為に、その20エレのリンネルとの交換に値するものとしての一着の上着が提出されると言う事なのです。この一着の上着の<交換に値するモノ>と言う規定を交換価値とすれば、その交換価値は20エレのリンネルに対する交換価値と言う事なのです。一着の上着が20エレのリンネルに対して示すモノが交換価値と言う事になる。私が相手の20エレのリンネルを手に入れたいと想う事に対して、その想いの現実化として実際に手に入れる為に自分の所有の上着を交換に提出するのです。この交換に提出される一着の上着に<交換に値するモノ>と言う規定が無ければ、20エレのリンネルを手に入れるのに対するモノとして一着の上着が提出されることは無いはずです。相手の所有のリンネルの有用性を自分でも実現したいと言う想いがあり、その想いの実現の為には、相手の所有から私の所有に変えなければならないと言う事なのです。想いは私達の頭の中の思考や判断として成立しているだけであるが、<想いの実現>になると別であり、そこには<想いの実現>に伴う客観的過程として所有の変更と言う事が成立しているのです。交換によって上着の所有からリンネルの所有になるのです。この交換の後になって初めてその使用価値の実現がなされるのです。すこしばかりよけいに考えると、リンネルが相手の所有で有る時点でも、相手に黙ってリンネルを裁縫する事が出来るが、ただ制裁をうけると言う事だけなのです。使用価値には限度がないのであり、猫は魚屋のケースからサンマをとって食べるのであり、熊は畑のさつまいもを掘り出して食べるのです。その使用価値の実現に対して限定をするのが、使用価値としての上着やリンネルの所有と言う事なのです。どんな上着も着用すれば保温や着心地が確認されるのであるが、他者の上着を着用する事が出来ないのはその所有と言う事が関わっているからなのです。<どんな上着も>と言う訳にはいかなくなるのです。使用価値−−着用する事で成立する保温性や着心地−−としての上着に限定性を加えるのは、その所有と言う事です。両者が相互に所有を変更する事で、私はリンネルを自由に裁縫するのであり、相手も上着を着用するのです。相互に所有を変更する時の構造が次の様になっている。私が相手のリンネルを20エレ欲しいと想い、その欲しい想いを実現するには、と言う事はリンネル20エレを自分のモノにするには、<交換として>私の一着の上着を提出すると言う事なのです。私にとって相手の20エレのリンネルが「手に入れるのに値する、手に入れたいと想う−その使用価値の実現が作り出す新しいモノに対する欲望が生まれている所から芽吹き出し始めたモノ−」のは、そのリンネルの使用価値に依るのであるが、交換として提出する上着一着は「手に入れる為の交換に値するモノ」となるのです。当然相手からすれば、私の一着の上着をその使用価値の上で手に入れたいと想っていて、その想いを実現するのに交換として自分の20エレのリンネルを提出しているのです。使用価値としては相手の所有物であるリンネルであり、リンネルとの交換に値するモノとしては私の上着一着であると言う事なのです。
これはそれぞれの所有物の視点からみたモノであるが、両者を同時に俯瞰する神の視点から見た時、上着とリンネルとが位置を変更しているだけに見えるのです。上着とリンネルが対峙しているのであり、両者とも<使用価値>と<交換の値するモノ>と言う規定を備えている事になるのです。この神の俯瞰の視点は、私がその使用価値から相手のリンネルに興味を抱き、相手がその使用価値から私の上着に興味を持つ事で、両者の間に交換が成り立つと言う事が前提になっている。俯瞰からみれば上着にもリンネルにも使用価値があり、また交換に値するモノがあると言う事なのです。
この神の視点としての俯瞰は、どうして成り立つのでしょうか。私の所有の上着は、相手から見ればその使用価値に興味があり、私からは交換の為のモノと言う事なのです。上着を私が所有していると言う事だでは、その使用価値を私が実現してしまえば、つまり上着を着用してしまえば、もう交換に提出するわけには行かないのです。それに対して私の所有の上着が、相手にとって使用価値として興味が有れば、その興味を実現する為にはまず相手は手にいれなければならず、手に入れるのに使用価値としての上着に対して交換に値するモノとしてのリンネルを提出すると言う関係になるのです。つまり、俯瞰から見られる上着とリンネルであっても、所有者の位置からは相手のモノは<使用価値>であり、自分のモノは<交換に値するモノ>と言う働きなのです。
所有者の欲望からみれば、その使用価値の実現から得られる成果がうらやましくて自分も求めるのであり欲しいのは相手の使用価値としての所有物であり、自分の所有物は交換の為のモノと言う事なのです。それに対して俯瞰としての神の位置からは、両所有者にある使用価値にたいする欲望と交換手段としての所有物と言う視点でなのです。所有者次元では両者の<欲求の二重の一致>による交換の成立に対して、神は上着にもリンネルにも<使用価値>と<交換に値するモノ>と言う二つの面があると捉えるのです。神のその把握は、人間の欲求の実現である交換活動で成り立っている構造と言う論理的認識を指示しているのです。その論理的認識はリンネルにも上着にも二重の面があるから<交換>がなされると言う様な事では無いのです。研究者が神の視点としての俯瞰から眺めるのは、枠組みの中に立つ事なのです。その枠組みの中に立つと言っても、母鳥から卵が生まれる様に、別に枠組みから何かが生まれると言う事ではなくて、交換活動で出合うモノにたいする研究の方向性を示し、交換活動で出合うモノを振り分けるだけなのです。交換活動がまずあり、使用価値上着と使用価値リンネルとが交換されていると把握するのです。ただしこの把握は、神の視点からの俯瞰であり、上着もリンネルも同一の働きをしているのです。そらに交換を可能ならしめている上着にもリンネルにもある価値があり、その価値と使用価値との二重性として成立しているのが、商品としての上着でありリンネルであると考えるのです。これは商品と言う言葉が表す概念に他ならないのです。ただしこの概念は例えば上着が商品と呼ばれる事を示し、私がいま目の前のこの一着の上着を指示して<商品>であると言う言葉で呼ぶのに対して、しかしその上着が商品として現実化される、つまり売れると言う事とは別の事であり、売れなければ商品にもならないと言う事なのです。商品と言う言葉が表す概念が現実化するのではない。商品として売れたと言う結果から、上着が商品になる過程を考えるのであり、その過程を認識した内容が使用価値と価値の二重性と言う言葉で表されているのです。
その有用なモノ交換活動にあってリンネルや上着に投下された具体的労働が抽象的人間労働に還元される事で、その還元された抽象的人間労働が外部に表現されることで、貨幣が成立すると言う事なのです。 つまり貨幣とは、リンネルと上着との交換活動に萌芽があると言う事であり、その萌芽の姿が、価値形態と言う姿と言う事なのです。
私が相手の所有している上着が欲しいのは、その上着が私の身体を保温すると言う事が分かっているからです。彼の所有の上着は、いま私達が着ている上着と繋がっているのであり、ただ実際に着てみなければその保温性とか着心地は分からないと言う意味で、試着だけでは使用価値の実現は理解できないと言う事があり、継続的に着るためにはまず手に入れなければならないのです。ただ手に入れたのは良いが、あまり良くなかったと言う事にもなりかね無いのです。自分の所有にした後の着用と試着とは区別されると言う事なのです。彼の裁縫した上着を、他者が欲しいと言う想いは、その上着を着た人々の感想など影響されて生まれているからなのだが、しかし私の場合保温性と着心地にたいする想いは人々の感想に影響されて生まれていても、実際に着てみる事で生まれる感想を持って初めて私の感想であり、その想いが裏切られる事もあるのです。上着を着る事で生まれる想いは、実際に上着を着用する事で生まれるのです。さらに着用の為にはそれを手に入れるので有り、手に入れた後に期待が裏切られ−−あまり保温も着心地も良くなかったと言う事になる−−無駄な所有になるのです。上着Aに対する評判は、その上着が他者の所有であろうと無かろうと成立す。その評判を前提に上着Aを欲しいと想って正当な手続きで手に入れて着用すれば、そこに私の感想が生まれるのです。私の感想が評判の通りだったか評判を裏切るものだったのかと言う事になります。上着の着心地や保温性によりその着心地や保温性を感じたいので着用しようと考えるのです。しかし着用する為にはその上着を自分のモノにしなければならず、そこで手に入れようと考えるのです。さらに手に入れる方法が考えられ、窃盗ではなく交換を実行するのです。交換はあくまでも相手のモノを手に入れると言う事であり、手に入れた後で初めてその使用価値の実現され、保温性と着心地が実感される事になるのです。私達の中に生まれる想いとその実現にあって、その実現には物質の客観的な過程が成立しているのであり、窃盗による所有、交換による所有と言う事なのです。
一着の上着があり、それを着用する事で保温と着心地が確認されるのです。この時私達が現実に着用する事で知覚している内容は、上着が形成している有用性たる使用価値により私達の内部に成立しているのであり、その上着は人間の身体性による規定されている為に、誰もが知覚するで有ろうと言う事なのです。つまり上着の使用価値とは上着の素材の自然性による身体の保温と着心地を形成していると言う事なのです。その上着に対して着用する事で使用価値が実現されると言う事であり、自然素材であるから有用であると言う事ではない。その自然素材が身体に対して経験される事で、特定の素材が選択されたのであり私達の着用と言う経験が選択した自然素材の事を有用性、あるいは使用価値と規定しているのです。

とすると上着を着用する事で、上着の使用価値を実現するのは、上着が私の側に有ることなのだが、しかし私には上着が無く相手が所有していれば、私の所有しているリンネルと交換するのです。この時、その交換を二つの商品の交換関係と規定するとき、身体を保温する有用性としての使用価値の上着と布としての有用性としの使用価値のリンネルと言う視点に対してそれとは別の視点として価値を想定するのです。ただしこの価値は、私の所有している上着の使用価値が、相手に対してのみ実現されると言う事であり、私が着用してしまえば、けっして相手の為の使用価値にはならないのです。つまり交換の為に成立しなくなったのです。この<相手の為の使用価値>と言う言い方は、使用価値の規定から生まれているのではない。上着は着用されることで有用性が実現されると言う事だけで有り、その形や材質により、身体の大きさが限定される、つまり子供用、大人用と言う規定ぐらいしかないのです。その、着用する事で実現される上着の使用価値には、誰が着用するのかと言う事で、はじめて所有と言う限定が出て来るのです。
上着の使用価値は、私でも相手でも着用する事で実現されるのだが、いまは所有者である私が実現してはならず、相手が実現するべきモノであり、その相手が実現するのには、その前に交換によって相手に所有が変わっていなければならないと言う事なのです。 この価値の実体として抽象的人間労働を考えるのです。しかしこの使用価値と価値と言う視点は、交換を二つの商品の関係として捉えた時の関係を形成する構造を示しているのです。これを交換が実行されるのは、商品のなかに抽象的人間労働が投下されているからだと言う考え方は、交換行為が人間の必要行為であり、意志をともなった行為だと言う事なのです。つまり欲しいと言う欲求を伴う行為と言う事は、私にとっては、相手の上着が使用価値として実現できるから、身体を保温するから欲しいのであり、そこで交換が行われるのです。その交換行為が物質的構造に則ってなされる

抽象的労働、あるいは「社会的」労働時間は、こうした交換(等置)によって事後的に見い出されるすぎない。「社会的」関係とは「意識されない」関係なのである。
−−社会的と言う事で人間相互の関係なのに、人間関係は、労働の投下された生産物相互の関係として現れている為、生産物についての意識しか現れないので、社会的関係は後ろに隠れてしまい、意識されなくなるのです。
価値形態−−−−−
「資本論」が其れ以前の著作と決定的に異なるのは、そこに価値形態論が出現することである。マルクスが価値形態論を論ずるきっかけとなったのはサムエル・ベイリーのリカード批判を読んだことだと言って間違い無い。
リカード:全ての商品には内在的価値があり、それは投下労働時間によって決定される。その場合貨幣も金である為に、金商品の価値は、その生産に要する労働時間によって決定される。
古典派は生産物と商品を区別しなかった。それは生産物が交換されなくとも労働によって作られただけで価値があり、その価値が貨幣で表示されると考える訳である。重農主義者ケネーは利潤の源泉を土地の自然力に求めた。富の源泉を自然の生産力(自然の贈与)に求めた。古典派は基本的にはケネーに線に従いただそれを人間の分業による生産力に言い換えたのである。価値を形成するのは人間の労働だけだと言う考えなのです。
このリカードに対する批判:商品の価値は、他の商品の使用価値によって相対的に表現されるのであり、それを超えた「絶対的価値」はない。
リカードの価値実体=投下労働説によっていたマルクスが、ベイリーの懐疑に震撼させられて、価値形態論を実行し出したのです。使用価値と価値の間に、それらを派生させるような「価値形態」を見い出したのです。マルクスが「資本論」で「価値形態」として論じたのは一商品は他の商品と交換される事によってしか価値たりえないと言うことである。
古典派は生産物と商品を区別しなかった。それは生産物が交換されなくとも労働によって作られただけで価値があり、その価値が貨幣で表されると言う考え方なのです。重商主義を最初に否定したのが重農主義者ケネーである事に注目すべきである。かれは利潤の源泉を土地の自然力に求めた。富の源泉を自然の生産力(自然の贈与)に求めた。古典派は自然の生産力から人間の分業による生産力に言い換えたのです。この言い換えには価値を形成するのは人間の労働だけだと言う考えがある。
古典派も重農主義者も価値の生産と物の生産を同一視したのである。古典派経済学が労働を重視した事は確かに画期的な事であった。しかしそれは「交換」の困難がもたらす貨幣と信用の世界の次元を軽視させる事になっただけでなく、社会的交換を透過的に見る事が出来るかの様な錯覚を与えたのである。それは貨幣を通して表現される社会的な分業と、工場内の分業を同一化する事である。この事が全社会を一つの工場の様に計画的に統御する社会主義に帰結する。古典派経済学は何故交換が貨幣なしになされないのかと言う問題を、マルクスの様に深刻に考えなかった。
−−価値は、二つの商品の間の関係であり、その関係の所にしかないと言う事なのだが、その関係を離れた、単独の労働生産物ABであるかぎり、そこには価値などないということなのです。単独のリンネルや上着が関係に入る事で、はじめて価値が成立すると言う事です。<関係が価値を作り出す>かの様に見えるのだが、しかし交換関係は、私と相手がそれぞれの相手の所有物の使用価値を実現したいと願うから交換が始まるのであり、その交換行為を、思考の対象とする事で、交換構造の分析がなされるのです。その思考の対象は、現に成立している交換活動であり、思考の内容として頭の中で構成されるのです。思考において認識として構成されるとき、現実の交換行為は相変わらず継続しているのです。とすると現実の交換活動と思考の上での構成とが、何処で接触するのかと言う事に成ります。現実の交換行為が、私達の意志活動として、相互に相手の所有物を欲しいと思う欲求により成立しているのであり、その意志による交換活動における客観的構造の分析が、思考として成立するのです。お互いの所有物を変更する交換活動はそれぞれ相手のものを欲しいという欲求によって成立するが、私は相手の所有物を窃盗によって手に入れるのではなく、自分の所有物との交換によって成立させると言うことであり、その交換の構造が問われることに成っているのです。
生きる為に貨幣で物を購入し、その購入した物を食べ、着て、眠ってと言う様にして生活していくのだがただこれらは人間が生きるための誰者の行為であるのに対して、それらの活動にある構造の分析は、誰もがする訳ではないと言う事です。
古典派経済学では交換に入る以前のこれは同じ事を別々の視点で語っているのです。二つのモノが<関係>を結ぶ時、その関係の所にしか価値は無いと言う事と、単独では関係はないと言う事なのです。二つのモノに内在している<何モノか>があり、それが共通と成る事で、両者は関係が成立するのです。<何モノ>が問題ではなく、それが共通である事で、はじめて関係であるのです。労働生産物が、交換関係を結ぶ時、各生産物に投下された労働が、共通化される事で、生産物は価値として、商品として成立する。裁縫労働、織物労働と言う別々の使用価値を作り出す労働が、共通として規定されるのだが、ただ規定される事で成立する抽象的労働は突然新顔として表れたのではない。具体的労働である裁縫労働や織物労働が、そのまま具体性自体ではなく共通性としての規定される事を、抽象的と言うのです。まず具体の否定として示されるのが抽象であり、具体でありながら、他の具体ともに捨象されたものとして抽象であり、それが共通性としての規定されるのです。生産物に投下された労働は、労働生産物が形成する商品関係の間にある価値を形成する実体として役割をはたすのであり、だから価値は、関係の間にしか無いというのは、確かであるが関係の間に、突如価値が生まれて来たのでは無いのです。投下された労働が、関係を形成する実体としてあるのです。労働価値論は、その実体的な形成のレベルを定式化したのでありこの定式化がないかぎり、価値論は完成しないのです。
そこにリンネルと上着と言う生産物があり、それぞれの所有を交換によって変更する事になる。その交換活動を構造として分析するのです。そこで構造の分析によって得られたモノを定式化すると次の様に成るのです。相互に交換されるリンネルと上着に対して、リンネルや上着と言うそれぞれの材質が作りだす使用価値とリンネルと上着との二つの生産物の間に交換関係を想定するのです。つまり実際に交換されたいると言う事実に対して、交換された二つの、リンネルと上着とに間に関係を規定するのです。それが、次の様に成ります。
   20エレのリンネル=一着の上着
この交換を等置関係として規定する事は、布としてのリンネルと衣服としての上着とが、その特性に依ってではなく、特性とは別のモノによって関係する事なのです。リンネルにも上着にもあるモノを仮にAとすれば、リンネルと上着は、その内部のモノを共通することで、リンネル(A)=上着(A) と言う等置関係を形成するのです。ただしこの関係にあってはAはカッコで隠されているのであり、見えるモノは上着とリンネルと言う現物なのです。その現物であるリンネルと上着とか交換される事に対して、使用価値とし別々のものであるリンネルと上着とがあり、それらに使用価値とは別の価値Aが有ることで、等置関係にあると定義するのです。<このAは等置関係のなかにしか成立しない>と言う言い方は、上着とリンネルの交換を、リンネルと上着との間の関係と定義すると言う事であり、そこにはじめて共通のAたる価値を見いだすのです。つまり交換を論理として把握する時、それはリンネルと上着の間の等置関係と捉えのであり、両者ともに内在するAがあり、それらが共通性としてあると言う事なのです。ただしリンネルも上着もその内在するモノたるAは、自然的素材としての布や衣服をどう眺め回しても見つけられるモノではなく、私達人間の身体的活動による、つまり労働による成果としてのリンネルであり上着であると言う把握なのです。 価値論の完成に依り、A商品=B商品 と言う交換関係は、商品Aが自らの価値を、交換関係にある商品Bの使用価値で表すと言う事は、等置関係が、単に両商品A、Bに共通のモノとしての価値があるからと言う次元で終わってしま事に対して、新たな方向として生まれたのです。つまり、関係概念では、両商品における共通なものとしての価値、A商品(a使用価値・共通なもの価値)=B商品(b使用価値・共通なもの価値) が得られるだけであるが、そしてこの関係と共通なものとしての実体とは、同一なものとしての一つのもの対する別々の視点で成り立っていると言う事なのでしかないが、対象を関係で捕らえると言う事は、関係の両端にあるものに共通するモノを捕らえると言う事なのだが、その新しい方向は、A商品にある価値を、B商品の使用価値で表すと言う構造である事を理解する事なのです。関係を、形態の観点で見直すと言う事なのです。A商品にある価値とは、交換関係抜きには得られないのであるし、さらに、交換関係における両商品に共通なものとして、労働の投下されたものものであり、別々の種類の違った労働が、別々の種類の労働生産物として投下されるのに対して、共通なものとしては、抽象的、人間労働の投下ということが判断されたのです。実体的把握−>関係的把握−>形態的把握 という論理過程が成立しているのです。関係では、別々なものに、共通なものがあり、その共通なものを介して、別々なものが関係を結ぶのです。それが例えば、商品の場合、共通なものが価値としてあり、両者に価値があるから交換関係が形成されると考えるのです。ここには、関係と関係を形成している共通なもの(実体)とが構造としてあるのに、共通があるから、関係が成立すると言う生成が捕らえられてしまっているのです。<二つの商品には、それぞれ価値があるから、交換される>という考え方になってしまうのです。これが関係概念の行き着く所なのです。とすると関係概念は、誤りなのだと結論して良いのだろうか。そうでは無い。交換関係とは、現実に成立した交換に対して、その交換の成立した構造を説明しようとしてなされた、説明方法なのです。各商品には、皆共通の価値があるから、交換関係に入ると言う理解は、共通なものが持っている何らかの力、交換力によつて、別々のモノが交換されると言う理解なのです。しかし、これは物事を、<実体>の段階でなされた思考法法であって、関係を<実体>でストップさせた思考なのです。関係を前提にしながら、商品Aにある共通なものとしての価値は、それ自身の何らかの<力>などがあるのでは無い。商品Aの価値は、関係の他方にある商品Bの使用価値で表されると言う事であり、これが関係論を踏まえた形態論の成立である。現実の交換を関係論で捕らえて得た<価値、使用価値>と言う概念を踏まえなければ、形態論も成立して無いのです。
私が所有するリンネルと相手が所有する上着があり、私が相手の一着の上着を手に入れようとする時、私はその一着の上着を、今着ている着古した上着の替わりに使おうとして欲しいと思っているのです。その欲しいと言う思いを実現すると言う意志は、相手の一着の上着の価値に等しいモノとしての、私の20エレのリンネルを交換に提出する事で実現するのです。その意志の実現は、例えば窃盗によって手に入れても実現するのであるが、ここでは交換と言う形態によって実現されるのです。そしてまさにこの交換の構造が問われているのです。私も相手も含めた交換を高見から見おろす視点が、交換関係と言う概念でありこの概念では、20エレのリンネル=一着の上着 と言う関係として表され、両者に内在する価値と言う共通項で、関係が成立していると理解するのです。その概念を前提にして、私の視点でも、相手の視点でもいいのだか、その視点から交換を考える事が始められるのです。私は相手の上着が着るために必要であり、それは上着の使用価値と言うレベルでの事であるが、しかしその必要に対して、相手の一着の上着が交換に際して持つ価値に等しいモノを、こちら側から提出するのであり、私が提出した20エレのリンネルは、まさにその等価に値するモノと言う事になるのです。相手の一着の上着は、そのままで使用価値として欲しいモノであり、同時に交換に際してそれが持つ価値に対して、私は等価である20エレのリンネルを提出するのです。私の20エレのリンネルは、その姿のまま、使用価値で、一着の上着の価値に等価で有ることを示しているのです。私の20エレのリンネルは、そのままで有れば本来なら使用価値の実現されることで、上着になったりするのだが、しかし交換に有っては、その使用価値のままが、一着の上着の価値の等価で有るのです。そこで同時に20エレのリンネルが、リンネル自身の内実の価値の現実的姿と言う事になるのです。リンネルに価値があっても、相手の一着の上着の価値に等価である20エレのリンネルである事で、はじめて自身も価値であると言う事になるのです。この自身の価値を、相手の価値の等価である自身の姿で表す事を、交換価値と言う。
相手の一着の上着を手にいれるのに、私の20エレのリンネルが交換価値であるから、交換できると言う言葉は、交換の現場で成立している20エレのリンネルと言う数量分が、相手の一着の上着の価値に等価であると言う事を、交換以前のリンネルに当てはめたのにすぎない。それは20エレのリンネルが生まれたままの数量であるために、リンネルが生産された事ですでに交換価値があると言う事になったのです。抽象的人間労働とは、具体的裁縫労働が、社会的となることで、その具体性が捨象されていると言う事を表しているのです。具体的労働が、価値の現象形態と成ることで、その具体性のまま、価値のあらわれと言う側面になってしまうのです。

マルクスは、商品の価値は他の商品との関係にしかない、それゆえ、商品に内在する労働価値成るものを仮象でしかない、と言うベイリーの批判に直面したのです。

−−商品Aと商品Bとの間にある関係にしか、商品の価値はない。間とは、幾何学的には、二つの物体があり、その二つのモノを囲む空間のなかで、物体を包むある巾の空間のうち、物体と物体に挟まれている所をいうのです。関係が間にあると言う時、商品の場合、空間的的なものを考える訳にはいかないのである。二つの商品に各々内在するものが、共通性あるものと捕らえられる事で、はじめて二つの商品に<間>が成立し、そこに関係が存在するようになる。つまり、二つの商品に内在するモノが、両者の共通性あると把握される時、二つの商品は、その共通性を媒介する存在と成る事を、関係が成立すると言う事なのです。その共通性あるモノの事を、論理として実体と規定するのです。共通性ヲ捕らえるだけでは、対象を実体的に把握しているだけであり、その実体を介した二つの商品が規定される事で、関係の世界に入り出すのです。この関係は、二つの商品における共通性とそれぞれ違う違う側面が、一つの商品において統一されていることで、別々のものが、共通性で関係すると言う事になるのです。
「商品Aの価値が、商品Bの使用価値で表される」と言う時、価値が商品Aの所にあるのは、関係の間にしか無いはずである事に反するのではないかと考えたとすれば、本質論のレベルでは、価値は関係の間にしかないが、実体論のレベルでは、商品A労働生産物に投下された労働が、価値の実体であり、その実体が、商品Bである生産物に投下された労働で、表されると理解するのです。この商品Aに投下された労働は、労働生産物Aの具体的労働では無い抽象的労働と規定されているのであるが、しかしこの抽象的、社会的労働が、労働生産物Bの具体的労働で表される事で、始めて抽象的労働が、交換関係にある労働生産物Bの具体的労働という姿としてあると規定されるのです。商品Bに投下された具体的労働が、そのまま社会的労働である事を示すのです。

単純な価値形態:商品A(相対的価値形態)=商品B(等価形態)
拡大された価値形態:
一般的価値形態:
貨幣形態:
この形態の変化、発展はより発展した貨幣形態が覆い隠しているものを超越論的=系譜学的な遡行によって見い出しているのである。つまり、「単純な価値形態」に貨幣の謎が潜んでいる事を。
この等式が示すのは、商品Aは、自らに価値があると言う事が出来ず、他の商品Bと等置されたあとで、始めてその自然形態によって価値を示されるほかない、と言う事である。一方商品Bは、いつでも商品Aと交換出来る位置にいる。等価形態が、商品Bをあたかもそれ自身に中に交換価値(直接的交換可能性)が内在しているかの様に見えさせるのです。
−−商品Aに内在する価値なるものが、仮に実体としてあっても、それだけである。内在しているものは自らの能力で表に現れるとしない限り、価値がある事で、交換が成立つと言う事には成らない。しかし、交換を内在の価値をからめて説明するとすれば、それは商品Aの価値は、商品Bの使用価値で表す事で、内在する価値は、商品Bの使用価値の姿として現れている事になる。商品Bの使用価値は、使用価値でありながら、例えば1着の上着の使用価値は、着る事で実現されているが、ここでは商品Aの価値の現実的な姿として規定されるのです。商品Bの使用価値は、使用される事で実現されるのに、使用価値=交換価値である様になるのです。
単純な価値形態では、どちらの商品でも、自らの価値を相手の使用価値で表しても良いのである。しかしこの場合も、各商品は、自らの価値を相手の使用価値で表す事は、同時に相手から見れば、相手も自分の価値を他者の使用価値で表すから、各商品は、相対的価値形態であると共に、等価形態にあるはずだと結論し、貨幣と言う商品は、両形態を備えたものだと言う事になったのです。しかし、形態は非対称的であり、自分の方から見たものと、相手の方から見たものと言う区別は、二つの商品を高みから見おろす立場から言える事である為に両者は対等なものなのだが、しかし自らの価値を表す=相対的価値形態、他者の価値を自らの使用価値で表す材料としてある=等価形態、と言う規定は、対等ではなくて、商品Aに使用価値と価値の両方があっても、自らの価値は、他者の使用価値で表すと言う事が重要な事なのです。
A)単純な価値形態とは、どの商品も相手に対して、相手の価値を表す材料と成りうるが。
B)全体的価値形態とは、ある一つの商品Aが自らの価値を、多数の商品B、C、D、E、F・・・の使   用価値であらわす。商品Aの価値は、あらゆる姿で表せるので、これと言った姿がある訳では無い
C)一般的価値形態とは、多数の商品BCDEF・・が、それぞれ自らの価値を、一つの商品Aの使用価   値で表す事で、多数の商品は、商品Aの使用価値と言う同一の価値表現を示す事になる。各商品は、   自らの価値を唯一の商品Aの使用価値で表すのに、商品Aに使用価値=価値があるから、他の商品は、   商品Aと交換されると考えてしまう。
D)貨幣形態とは、等価形態にある商品Aと言う無数の商品の中の一つであるモノが、金という特定の商   品に固定された時、初めて生まれて来たのです。その金が大きさとか量で、数量化される事で貨幣が   成立する。貨幣は金と言うその物質的あり方が価値の表現であるのに、その自然性がそのまま価値で   あると言う実体的な結論がなされるのです。金貨幣は、その自然性の為に貨幣であるので、どの商品   も交換されるという考えに成ってしまうのです。

リカードの考えでは、商品には交換価値が内在し、貨幣はそれを表示するものである。古典経済学が各商品に労働価値が含まれると考えるのは、諸しょう

古典経済学者にとっては、「貨幣の魔力」は消えている。商品の内在的な価値(労働時間)を表示すね尺度であり、流通手段にすぎなかった。したがって彼等は、市場による財・サービスの生産と交換の調整を重視する。しかしこのことは、自己増殖する貨幣としての資本の「神秘」を、あるいは資本主義の根本的な動力を見逃す事になる。さらに、それは買う立場にある資本と、労働力商品を売る他無い賃労働者の非対称的な階級関係を見失う。

第三章 価値形態と剰余価値−−−−
資本の自己増殖は、「G−W−G”」と言う過程にあっていかにして可能か
単純に言えば、安く買って高く売ると言う事によってである。古典派はそれを商人資本の特徴として否定し、産業資本における利潤が、流通過程ではなく生産過程に有る事を協調した。彼等が労働価値説をとったのはその為である。古典派は、産業資本の利潤が等価交換による事、従ってそれは生産過程に有る事つまり分業と協業による生産力の上昇にある事を主張した。
古典派の労働価値説は基本的には単一のシステムにおいて考えられている。その為に彼等は複数の異なる生産部門においてそれぞれ平均利潤を確保する様な生産価格を説明する時、労働価値説を撤回、あるいいは修正せねばならなかった。
新古典派は、労働価値説を否定し、効用・使用価値から価値・価格を考えようとした。彼等は限界効用と言う概念によって、需要と供給の均衡点を見いだした。しかし古典派経済学が労働価値説を言ったのは彼等も市場における価格均衡を想定したからである。彼等は個々の生産や交換が「事後的」に一つの均衡状態に落ちつくと言うメカニズムに注目したのである。こうした均衡理論はどれほど数学的に精緻であろうと、結局単一体系においてしか考えられないのである。