読   書   日   記

私が日々目を通す書物に対して、私の今の視点と、了解できない観点を書き抜き、それ
をどのように理解すると、私の了解になるかを目的に日記風に綴っていきたいと思います。

−−−−−−−−2002年05月01日−−−−−−−−

岩井克人 資本主義を語る 講談社
「貨幣論」を語る
今村仁司+岩井克人

貨幣の必然性を証明してしまったマルクス
マルクスの初期社会主義批判にある二つのポイント。階級構造の問題、貨幣の問題
マルクスのプルードン批判:商品経済は必ず、貨幣の媒介を必要としているのに、プルードンは貨幣をなくして商品経済だけを残しておこうとすると言う批判です。マルクス「貨幣のない社会があり得るか」と言う事を証明する為に、どうしてもプルードンと対決せざるを得ないのです。「貨幣無しの社会」を考えながら始められた「貨幣論」が、価値形態論を書いている内に、最初の意図に反して貨幣の必然性、「貨幣にない社会はあり得ない」ことを証明してしまったのです。貨幣とは、この世にあまねく存在している「媒介」と言うもののひとつの形態だと言う事です。
マルクスの「価値形態論」が証明してしまった貨幣の必然性と言う認識は、後のマルクス主義者が全く理解しなかった所だ思います。ワルラスは、膨大な数の商品を売り買いしている沢山の市場を同時に均衡させるような価格システムが存在し、しかもそれはある意味で安定的であると言う事を示す事で、市場経済の自己完結性を証明しようとしたと思います。−−生産者や消費者は、それぞれ市場で決定された価格を与件として、自分の利潤を最大化し、自分の効用を最大化する様に供給や需要を決定していると言う想定されている訳です。しかし、誰が価格を決定するのかと言う事になります。この問題について、結局ワルラスはアダム・スミスの思想を徹底化しえなかったのでしょう。ワルラスは「市場競り人」を想定したのです。
アダム・スミスには、しばしば言われますけれど、貨幣ベール説なるものがあって「貨幣」を道具主義的に考える。実際上考えているのは実物けいざいであって、貨幣はいらないのです。スミスの「道徳感情論」の世界は、公平な観察者というのを個人が内なる心に備えていると言う事で、本来「貨幣」が必要無い社会なのです。貨幣と言うのは、もうすでに交換可能な構造をもっている分業的な社会に、交換の効率性を高めるための単なる道具として導入されている。
我々が「貨幣」を交換する時に、何故それが根源的かと言うと、貨幣と言うのは価値をもったモノなのだと言う事です。逆説的だけれど、それ自体は商品としての価値を持っていないモノなのだけれど、それを貨幣として相手に手渡せばこの世のすべての商品を手に入れる事が出来ると誰も信じている訳です。
モノ的なもの、しかしこれはモノだけれどももっとパラドキシカルで、それ自体は一文の価値もない様な金属や紙、最近だったら例えば銀行等の金融機関のCDのようなコンピュータの信号であっても、それでも「貨幣」と認めれば、それでいいわけです。−−<認めること>に対して、そこに貨幣とする構造のある事が重要なのでしょう。貨幣を成立させる構造がある事で、その構造があるモノを、貨幣と認めるのです。そしてこの認めると言う事が、恣意的な事ではなく、社会的ルールとして成立させルと言う事なのです。だから社会が余りにもインフレになり、自国の貨幣が信用されなくなり、外国のタバコの方が交換のレートが一定しているので、そのタバコを一時的に貨幣のような交換手段とすると言う事もあり得るのです。ただタバコは、自体で喫煙欲求を満たしてしまえば、交換手段として成立しなくなり、時間が立って新鮮さがなくなれば喫煙する為の使用価値が半減し、交換手段としても喫煙手段としても役立たない事になるのです。本来の貨幣はその点をクリアしてきたのです。

普通「貨幣」の問題を出そうとする時によく使われる理論と言うのは、まず人間と人間の関係があって、その人間同士がお互いに交換活動を繰り返し行われて、そこからあるモノとモノとの価値が段々習慣的に成立していき、その価値を「抽象化」したものが「貨幣」になると言う事なのです。しかしこの理論は「貨幣論」としては、俗耳に入りやすいにすぎない。言葉も同様に考えられるのです。「言葉」もその媒介を、単にただの手段と考えるか、本源的な者と考えるかなのです。

貨幣が持つ価値は何処からくるか。
マルクスは労働価値説と言うのをまず徹底的に信じて、どんな社会でも社会的な生産が行われれば、その 生産に投入された抽象的な労働の大きさによって価値が決定される訳です。そうすると、この人間労働こ そ超歴史的な価値の「実体」であり、歴史とともに変化しうるのは、その「形態」でしかないということ になる。
−−この考え方が問われなければならない。歴史的と超歴史的と言う区分は、論理的な区別であり、超歴史的なものが、歴史的なものの背後に潜んでいると言うようなモノではないのです。変化するモノと変化しないモノと言う二つのモノがあるのではない。例えば、液体としての水、固体としての氷、気体としての水蒸気は、形態の違いであり、液体から固体への変化、気体から液体への変化、固体から液体への変化が、形態の変化であり、この変化のなかで、変化せずにあるモノとは、各形態を構成する分子H2Oのことであり、H2O分子の運動の違いが、形態の違いと言う事なのです。そこで、水があったり、氷があったり、水蒸気があったりしている事に対して、分子H2Oはその内部でも、背後でもなく、また彼岸でもなく、水と別にあるのでもなく、あくまでも、水の所にあり、氷の所にあり、水蒸気の所なのであって、あえてい言えば、<在るのは>は分子としてのH2Oであり、その在るモノであるH2Oの運動の違いが、各形態なのです。実体たるH2O分子は、その運動の主体として規定する事で成立するのであり、主体と運動を、実体と形態と言う論理概念で再構成したのです。社会的労働が、実体としてあるのは、どんな形態にあっても、それらの主体が、社会的労働であると言う事を言っているのにすぎないのです。
さらに言えば、分子H2Oを実体と規定するのは、形態に対してであり、その分子が原子HとOに分離す るのであり、原子HとOの結合運動のひとつがH2O分子であり、重水分子H2O2と言う事なのです。 実体H、O原子に対してひとつの形態が水分子H2Oとなるのです。この原子のレベルから見ると、実体 としてのH2O分子は、原子H、Oの、ひとつの形態になると言う事なのです。これが論理的な規定とい うのです。

資本主義社会では、社会的生産が生み出す、価値と言うものは、商品の交換価値と言う形態を持たざるを得ない。すると、超歴史的な価値の「実体」が資本主義において、どのようにして商品の交換価値という「形態」として表現されるのか、と言う問いが発せられることになる。−−別々にある個々の商品の価値が、それが交換関係において、交換価値と言う形態を取るのは何故かと言う疑問は、問が逆なのだ。交換と言う現場を前にして、その交換に入っている商品に対して、交換価値が在るから交換されるという、交換と言う現象を説明する為に提出されたのが、交換価値と言う事であり、その交換価値は、リンゴ2個と衣服1着という、両者の量的な比率として現れているのです。その量的比率の時、両者は、同一の交換価値を持つと言う事になるのです。 そして、ここから、同一の交換価値に対して、その交換に入る個々の商品リンゴに在るとされる価値なるモノが、2個のリンゴ分で、交換価値となると言うその過程が問われるのです。あるいは、リンゴの商品価値は、交換される諸商品に対して、各々の量比としての交換価値としてあらわれるのは何故かと言う問なのです。だから、個々の商品の「価値」が、交換の際にリンゴ2個分の交換価値で、5個分のミカンの交換価値と等価である時の、価値と交換価値の関連が問われるのです。
そして、この価値形態論において、マルクスは商品の交換価値は必ず貨幣と言う媒介を必要とする形態を取らざるを得ないと言う事を示した訳です。
現在では、商品は各々の貨幣に依る価格という表示をかいして、買われたり、売られたりするのであり、2個200円のリンゴと、5個200円のミカンとは、200と言う同一の価格をかいして、同一の交換価値を示すと言うのです。リンゴ1個とミカン1個では、リンゴの方が価値は高いと規定するのです。つまり、両商品の数量比として現れている交換価値に対して、1個のリンゴの場合の交換価値を特に価値と規定するのです。1個のリンゴの価値が二つと、1個のミカンの価値が5個とで、交換価値が等価になると言うのです。この1個と言う区分が、交換に入る前に成立している価値なるモノであり、その価値なるモノが、2個合わさって、5個のミカンと交換される事で、リンゴとミカンの交換価値が成立するのです。
あるひとつのモノが価値を持つのは、貨幣に依って買われるからです。それに対して、では貨幣はどうして価値を持つかと言えば、