読   書   日   記

私が日々目を通す書物に対して、私の今の視点と、了解できない観点を書き抜き、それ
をどのように理解すると、私の了解になるかを目的に日記風に綴っていきたいと思います。

−−−−−−−−2002年05月15日−−−−−−−−

カ ン ト 辞 典  弘文堂

<カテゴリー>
アリストテレスに由来し、存在者に関する述定の普遍的形式を意味し、実体、量、性質、関係、場所、時間、位置、状態、能動、受動 の10個のカテゴリーがある。
認識=「感性と悟性」「直感と思惟」の基本の上に、時空が感性的直感の形式であるのに対して、カテゴリーは悟性による思惟の形式であり、純粋悟性概念と呼ばれている。アリストテレスのカテゴリー表は<枚挙の原理>を欠くので体系的でないと判断し、カントは一般論理学の判断表から導出する。どんな思惟も判断によって表されるから判断表から導出すれば、カテゴリー表は包括的かつ体系的になると思われるからである。 カテゴリーと思惟の普遍的論理機能との一致を示す事に依り、カテゴリーのアプリオリな起原を証明するのが、カテゴリーの「形而上学的演繹」である。これに対して、カントは判断表を観察しそれからカテゴリーをただ経験的に取り出しただけで、諸カテゴリーを思惟そのもの・自己意識の統一から必然的に導出し発展させなかったと言うヘーゲルの批判。
問題は、一つの統一的な時空の体系において相互に関係する一定の対象について、概念を述定し、かつ真偽を規定できる様な経験的判断が可能だとすれば、対象は一般にどのようなものであり、対象世界について何が真でなければならないか、こりの解明である。
デカルト、イギリス経験論と同じく意識内在主義をとり、心のなかの観念(表象)だけに定位してこれを解明しようとするだけに困難は一層ます。いかにして、有限な人間は自ら創造したのでないばかりか、現存の為にそれに依存しさえする存在者を前もって踏み越え(超越し)認識できるか、と言う事に等しいと言うヘーゲルの批判がある。しかし事物認識と自己認識あるいは自己反省との区別を無視しており、超越論哲学が日常的意味では経験を積み重ねつつその可能性を哲学的に反省するものである点を見ていない。
カテゴリーはそれ自身、思惟の対象が何であれ思惟一般の形式にすぎない。問題は、いかにしてこれが時空を通じて受容される経験の対象一般の思惟形式となるか。対象側から言えば、そもそも対象はいかにして本質・必然的にカテゴリーに依って思惟されねばならぬものとして受容されるかである。
−−日々経験する対象を、<リンゴ>と言う言葉で、呼ぶ様になった時、皮を剥いて食べるものが、言葉の対象になるのです。時空を通じて受容されるものは、生き物にとってその生存を助けるものとしてありそれが思惟の対象になる時、思惟の側は、形式というカテゴリーとして思惟され、対象側は、思惟の内容と規定されるのです。ただ問題は、生き物にとってその生存を助けるものである諸物が、頭脳に細胞の働きとしての思惟活動の思惟の内容に、どのようにしてなるのかと言う事になる。諸物が、自力によつて脳細胞の中に入り込み、それが思惟の内容になるのだと言う訳ではない。光とか匂いとか、所謂感覚が知覚している、<光、色、匂い、音、肌触り、味>が、知覚器官とは別の所から、入って来ると言う事を、頷くとして、それがそのまま思惟の内容であると言う事ではない。感覚知覚は、<目、耳、鼻、皮膚、舌>と言う専用の入り口から入り、何段階かの変換を経て、脳細胞の所定の場所に到達すると、その到達したものを素材にして、言葉としての<光、色、匂い、音、肌触り、味>と表現の構造化がなされるのです。その構造化を、別の言葉で言えば、カテゴリーと言う事であり、思惟の形式と言うのです。感覚知覚の場合、外部から入力されるものがあり、内部に入って来ると言う事を考える事が出来るが、それをそのまま思惟のレベルに当てはめると、感覚知覚したモノが、そのまま思惟の内容になるかの様に考えられてしまうのです。論理的に言えば、感覚知覚したモノは、思惟の内容を形成する実体として成立するが、そのままで、思惟の内容なのではないのです。