読   書   日   記

私が日々目を通す書物に対して、私の今の視点と、了解できない観点を書き抜き、それ
をどのように理解すると、私の了解になるかを目的に日記風に綴っていきたいと思います。

−−−−−−−−2002年05月21日−−−−−−−−

日本語の意味の構造 野村玄良 文芸社

意味の解析
和語の意味構造の成り立ちを、新手法を用いて多面的に考察する。意味論が国語学で取り上げられていないのは、意味を持つ最小単位の形態素に対する研究に手が付けられる事がなく、未だに放置されたままであるからだ。例えば意味を持つ各階層の意味的紀号レベルで「意味」について考察を加えてみよう。
「やま・山・YaMa」の音声表象の最小レベルは「音素」で、「子音・Y」「母音・A」「子音・M」「母音・A」の四個の音韻によって構成されている事がわかる。しかしY、A、M、Aの四つには意味的要素を見い出す事がでない。
もう一つ上の「形態素=単語の構成要素」を考察する。「や・YA」と「ま・MA」の二つである。この二つにはどんな意味があるのだろうか。
−−この二つに意味があるのかどうかを調べるのに、初めに意味とは、<かくかくしかじか>のものであると言う事になっていて、その意味なるものを、いまの<YaMa>と言う語の何処かに探し出すと言う事であり、探し出したモノが、語の意味であると結論するのである。この様な考え方は、意味が前もって解っていて、語にどのような姿で隠れているのかを明らかにすると言う事なのです。その語特有の隠れ方が、<語の意味>であり、語を前にして、意味がある事が解るがしかしハッキリしないというのは、語特有の隠し方を明らかにする事で、その姿がはっきりするのです。つまり、語を前にしている時、それが語であり、決して紙のうえのインクのシミでないのが分かっている時、そこには、意味があると言う事が気付かれているからです。つまり、意味論と言う<論>の成立以前に、語の意味を実行していて、実践的に了解されていて、だからこそ言葉のやの取りが、中途半端であろうと、未完であろうと、実施されていて、私達の前にさらけ出されているのです。それを学のレベルで明らかにしようとしているのであり、これは私達の思惟のあるレベルと言う事であり、言葉に即して言えば言葉の構造が明らかにされると言う事なのです。
和語は、「一音節のCV構造」と言う明解でシンプルな音韻構成の言語である。母音で終わる、開音節の語であり、<子音(C)+母音(V)>の単純構造の言語である。和語の一音節は「形態素」である。
−−一音節の違いが、言葉の意味の違いとして現れていると言う事。
この形態素の意味を解きあかす為の重要な鍵が、上代特殊仮名遣いの「甲類・乙類」の使い分けの分析に秘められている。
和語の意味の構造
(1)「言語」の一般論:言語の実態は人間の脳内に存在し、それをロゴス(理性)と呼び、この理性の働きで実在する世界の森羅万象を秩序立て体系化したりする。「言葉」と「思考」は本来別々のモノであるという考え方。言葉がなくとも、知覚・直感・とっさの判断・推理などが可能であると言う。
−−話しをする時の、声帯の振動としての話し言葉、白い紙の上のインクの跡としての書き言葉にたいして、これらの現象は、実態としてある理性と言う脳内の存在の働きに依り、成立する。その働きにより、世界の森羅万象は、言葉の中に、秩序あり、体系化仕たモノとして存在するのです。つまり、世界を私達の頭脳が認識し、認識された世界のあり方が、言葉として表されたと言う事です。言葉での表し方とは、<前の言葉と、今の言葉と、次の言葉>のある特定の順序を、世界の秩序や世界の体系を表していると理解するのです。
(2)「思考」は「言葉」によってのみ組み立てられ論理化されると言う考え方。
−−言葉を使うのは、人間だけであると言う事であれば、動物も脳細胞の活動によつて生きているのであるから、彼等の脳細胞の多様な働きの中に、言語活動を司る脳細胞の働きがないと言う事になる。例えると、人間の脳細胞の世界を、10色で塗ってある白い紙とすれば、動物の脳細胞の世界は、9色で塗ってある白い紙であると言う事になり、一色の有無が、言葉を話しているかいないかであるということになる。動物に、人間の言葉を使うという脳細胞の働きがないからといつて、脳細胞一切働かないと言う事ではないのであり、生きて行く上で必要な働きがあり、それを判断と言っても、推理といってもいいのである。脳細胞のレベルではなく、相互の活動を見た時、動物も相互にコミュニケーションをしていて、そのコミュニケーションの中に人間の言葉に類したモノが見当たらなければ、彼等の脳細胞の働きには、言語を司る部分がないと言う事なのでしょう。
どちらが正しいのか、現段階では答えを出す事は困難である。
<言葉が、概念認識の表現されたモノである>と言う時、思惟とか判断とか推理といった思考に対して概念がどのような思考であるかを明らかにする事で、動物における思考(脳細胞の働きと言う側面をさしている)に概念的な側面のあるのかどうかがわかるのであり、さらに概念思考の特性によつて、その思考は 言語という表現形態を取るのである事が示されれば、<思考が言葉によって組み立てられる>と言う意味が明らかになるのでしょう。
ソシュールの記号理論における最も重要なテーゼである「言語記号の持つ恣意性」と言う特性を巡る解釈の不一致によって、「形態素=単語を構成する要素」の研究を、放棄したまま今日に至っているのです。
ソシュールの理論:言語記号と概念との関係は、恣意的であると言う時、この恣意は、一旦決定されてしまった後は、この記号はもはや個人が恣意的に変更したり決定したりする事の出来ない、社会的な規約の中に組み込まれたものであり、我々の生活はその枠組みの中に束縛されているのである。具体的な言語素材を外界の現実との相関において捉えようとしている。
−−この恣意性は、文字や話し言葉の、その形や音韻と、言葉が示す対象とに、形や色等に特定のつながりがないと言う事です。其のつながり、例えば、絵画とそこに描かれているモノとの間に、色とか形とか大きさと言った特定の関連が成立している事に対して、そのような関連ではないと言う意味で、恣意的と言う事なのです。ただ恣意的であるが、形がきまればそれが継続するのであり、沖縄の言葉と本土の言葉が、数千年前に同じ発音であつても、現代では別々の言葉のようであるのは、決定されたものでも、徐々に変化すると言う事なのです。ただ、その個々の語彙の順序はほとんど変化はないということなのです。
「言理学」は、言語実態の内的秩序を整理して、自立体系の樹立を目的としているもので、言語を厳密な論理体系下において分析記述するというものである。「言語は記号ではなく、それを構成する記号素ないし言語素から成立している。」と言う学説。言理学はソシュールの「実質」ではなく「形式」の記述に徹すべしと言う事で、それは言語の奥の内在されている「機能的秩序の解明」でなければならない。
−−<やま>と<あま>の意味の違いは、<や、あ>にあり、それぞれの語の機能が、個々の語の意味を作り出すと言う考え方。

音声と意味の関係 「頭」:<カ・シ・ラ>の各一音節ごとに意味が存在していて、その意味と意味の結合との結果、それぞれの語彙を温存し活かしたまま「頭」の意味を構築しているのか。三語の意味が「文の組み合わせ方の法則」に従うならば、必然的に「人体の頭部」を表現する言葉になって仕舞うと言う、語構成(造語のメカニズム)の因果律が存在しているのかどうかと言う事になってしまうのです。
言葉は抽象概念の「意味」を「音声」に貼付けて表した人間の文化的な意思表示の信号である。
−−意味と音声の関係、あるいは意味とインクの跡の関係を考え、意味がインクの跡に貼付けられていると言う事なのだが、しかし両者を貼付ける<糊>が必要になり、言葉と意味の場合、その糊の構造はどうなっているのかが問われるのです。<糊>は、比喩であっても、<結び付けられている>と言う両者の間の関係を明らかにする、一歩なのだと言うのです。しかし、問題は、<両者を結び付ける>と言うイメージによって、意味と音声が同格に扱われてしまうと言う弊害がある事なのだ。音声の特定の現れ方に対して、脳の中の概念思考が対応する時、その対応関係を<音声の特定の現れ方>から見た時に、意味と言うのです。<音声があり、概念思考がある>と言うだけでは、意味は出て来ない。両者が特定の関係にある事で、関係を形成する音声と概念のその関係を、意味と言うのです。両者は意味を形成する実体ではあるが、概念が意味ではなく、また特定の音声が意味なのではなく、その関係が意味なのです。
現に話をし文字を読むという活動にあって、音声と概念思考とを関係概念で把握しようと言う事は、イメージとしては、<音声と思考を考え、その両者の間>に関係があると言う像を作るのです。しかしこれはあくまでも、実体的な段階の思考であって、関係を概念として捉えなければならないのであり、それは過程的なものとして規定する事なのです。そこで、関係を形成する実体としての両者に対して、関係概念の方向にいかずに、実体である音声の特定の側面を、機能として取り出し、その機能で、意味を規定しようと言うのが、まさに<機能主義的な発想な他ならないのです。>

「形態素」のレベルは、言葉をこれ以上意味的に分解できない究極の所まで分解して取り出す方法である。 −−<分解出来る所まで分解する>その限度を条件付けるものは、意味とは何かと言う事が、実践的に分かっているからである。<際限ない分解>と言う考え方は、ゼノンの運動論である<アキレスと亀>のパラドックスの様に、その半分、その半分の半分の半分の半分・・・と言う無限に続く事でうまれる考え方を対極に持っているのです。運動論の場合、何処で<その半分>をとめるかは、規定がなく、だから何処までも、続くので運動は不可能でと言う事になる。運動論の場合、現実のアキレスが亀を追いこして行くと言う事なのだから、<その半分、その半分>は何処かで止められるのであり、止められた時点でアキレスは亀と同位置に並び、そして越して行くのです。半分の半分と言う論理に対しては、論理自体からは止める条件は成立しないということなのです。それに対して言葉の場合話している言葉の全体、文と言ったまとまったモノの経験から、意味の理解とか、齟齬とかがあり、それを前提に伝達としての言葉を分解して行って、形態素に行き着く事で、これ以上分解すると<意味>が無くなる事が理解できれば、分解は終了するのてす。
<カ+ガ+ミ>と言う「ラング」の同一のレベルが、「鏡」、「屈み」と言うパロールと言う具体性において、別々の意味が成立する。
「鏡・カガミ」と「屈み・カガミ」は全く同じ音節構造である。しかし文法上では鏡は名詞であり、屈みは「かが」の語幹に連用形「ミ」がついた動詞であるり、全く別々の使われ方をする別の語である。
「カ」「ガ」「ミ」の付く言葉を調べる
「ガ+ミ・ム」<あがむ・いがむ・おがむ・しがむ・せがむ・とがむ・ながむ・ひがむ>
全て「濁音」で身体の動きや体形が力の入り具合がやや抑え気味にした感じの表現となつていることが解る。これらの語は何れも「前方へ身体が屈曲した状態」の意味を含む言葉である。
−−身体のある状態にたいして、<ガ+ム・ミ>と言う音を当てはめる事は、恣意的であるが、その身体の状態を含む、他の身体活動に対して言葉を使う時、<ガ+ム・ミ>と別の音を組み合わせる事で、新たな言葉を作り出すのです。最初の言葉は恣意的だが、次の言葉は身体のある状態が関わっている限り、恣意的な言葉を必要とするのであり、その必要は確定的だと言う事になる。
<恣意的である>と言うレベルと、その恣意的である語を中心にして、増えていった語は、一意的な存在であると言う事なのです。ただしその一意的とは、身体の特定の動きAと言う認識を表す最初の語があれば、その動きAと関係を持つ動きB、C、D、・・・についての認識を表現する時、全く新しい言葉を作るのではなく、Aについての認識を表した語を部分として使いながら、別の語をつくるのです。この考え方は、言語学と言う本質論に対して、日本語の個々の語彙の関連の解明と言う具体的な言葉の解明がなされていると言う事なのです。とすると、Aを中心にB、C、D・・・と言う言葉が出来ている事が解明されたとしても、それはA、B、C、D、E・・・が一意的な関係にあるから、言語は恣意的な所で成立っていると考えてはならないのである。現象的にA、B、C、D、E・・が一意的な関係にあるからと言って、それをそのまま本質のレベルまで広げて、言語は恣意的ではないと言う事になれば間違いになつてしま。つまり、本質論が何故成立しているのかが分かっていないと言う事なのです。

<音韻と音声の違い>
人が声帯を振動させる事により、空気を媒介として音波が空中を伝わり耳で感知できる、その波動を「音韻」と言うが、狭義的には、「心理的・観念的要素」の存在を無視した、一回ごとに発音される物理的な 音そのものであると考える。広義の音韻は、人が発音できる音の中から有限の数の音を選んで、言葉として相互の意思疎通の用具として使っているその「音のそれぞれの違いを系統的に調べて物理的な音の単位を規定したもの」と言う事である。
「サ・SA」:「S」の子音(音韻)にも「A」の母音にもなんら「心理的・観念的要素」は付与されていない。日本語においては、「サ・SA」は「前方斜下方向へ進む意・笹の葉形状」の心理的・観念的要素をふよされているので、子音(S)母音(A)に分ける事は成立しない。
日本語においては、音韻と意味との関係が、言葉の最小単位である一音節の音韻である「あいうえお・・」 四十七音と古語十三音、及び濁音全てに各々異なる概念が特定されているのです。しかし例外があり「辞=助詞・助動詞」には「働き」と「働きの概念」があるが、意味(シニフィエ)はない。
−−<ヤマ>と言う音韻が、<YA、MA>と言うアルファベットで表記なされる事で、日本語表記では見えなかった、子音、母音と言う区別と統一が明らかにされるのです。その表記の以前には、母音は<あいうえお>だけは取り出されるが、子音だけをとりだして、表示できないのです。 この<子音だけを取り出す>と言う発想は、自分達の発声している言葉を、単に言語コミュニケーションに使用する事だけに対して、その<構造>を解明しようとして、なされるのです。英語の場合には、アルファベットは、一覧表を作成する事で、子音、母音の区別がはっきり示されるのであり子音が独立していて、それを<T、H、K、M・・・>と言う様に表示できているからです。日本語も英語も、その特性があり、音韻としては、日本語は<子音+母音>と言う組み合わせなのだか、しかしこの様な事が解るのは、英語の様な分離した構造があって、その知識があるから<Y+A、M+A>と言う表示が可能となったのです。しかし日本語としては、<や>も<ま>も、一音であり、子音と母音の構成であっても子音だけが表示されると言う事はないのです。つまり、英語も日本語もその音韻構成は、<子音、母音>によってできているが、日本語の場合母音は<あいうえお>として独立しているが、子音は、<ん>と言う音を除いて母音と統一されて、<かきくけこ・・・・・>として表示される。英語の場合母音は<A(四種類の発音)、i、e、o、u>は、日本語のような子音との直接的統一ではなく、分離されたもの同志の統一であり、<YA>と言う様になり、日本語では<や>であるが、<YA>は、日本語的に発音すると<やあ>と言う事になるのです。つまり、<YA>と<や>とは、別の表現であり、<や>の発音を構成する子音と母音の直接的統一の母音を際立たせる為に、母音を二つ発音する事で、<YAA>を成立させるのですが、しかしこの時にも日本語としては、<Y>と言う子音だけが出て来る訳ではなくて、<や>以外にありえないのです。
この「辞」の働きの研究は充実されているいるが、「辞」の本源的な観念は脳内にある「ロゴス」によるかもしれない。
−−詞が、外的な物体や、イメージを<対象>にしているのに対して、辞には、調べても<対象>が無い様にみえる。無い様に見えるのであと何処かと探せば、精神とか心とか言った観念的なものをであり、その観念の働きが、<辞>として表されていると考えるのです。<個々の語彙としての詞と、その語彙を繋ぐ辞と言われるもの>と言う素朴な発想は、辞が精神とか観念といった実体的な規定であれば間違いだが、対象が、概念として認識されれば、その概念が、詞と辞の統一として構造化されると言う事なのです。つまり、概念が脳細胞の働きとしてあれば、精神とか心とかの働きであるのは確かだが、実体としての個々の概念が、関係として規定される時、実体が詞として、関係が辞として表現されているのが、言葉なのでしょう。所謂心とか精神と言ったものでは無く、ましてはその働きと言ったものでは無くて、その働きが作り出すものと考えるべきなのです。機能は、例えば脳細胞の働きと言う事で理解出来るが、働き自体ではなく、その働き結果出来上がつたものが重要なのです。<働き>は結果を持つのであり、その結果によって、単なる抽象的な<働き>と言う言葉が、特定の大きさと質を作る<働き>となるのです。

「脳内にあるロゴス」が言葉と一体となって音声を操つて仕事をする。
−−言葉は、一種の道具になつている。脳内のロゴスがあり、それが言葉と言う道具を使用して仕事をする。<仕事:他人とのコミュニケーション>と言う事である。事実としてでは無く、論理的な関係のイメージとして、脳内のロゴスという、感情や直感とは区別されたものが捉えられ、そのロゴスが頭のなかから、自ら飛び出して、他者の前に出るのであれば、言葉はいらないが、ロゴスが言葉を使って他者とコミュニケーションであるなら、ロゴスは働きであり、働きの成果が、言葉の創出なのである。ロゴスの働きで、始めてそこに言葉がうまれるのでは無く、彼を取り巻く社会の中に彼以前から言葉があり、そのある言葉を使うと言う意味で、一種の道具と考えられたのです。彼以前にある言葉とは規範としての言葉であり、規範は彼以前の人々の現実の言葉のなかにある言葉の約束事と言う事になる。この規範は、現実に話されている言葉の上にあり、言葉は、彼の思いを伝えるものであり、同時に規範と言う約束事でもあるのです。両者の直接的統一なのである。

人間はこのロゴスの働きによってカオスであるこの世の現実世界の事象を、整理された秩序立てられた思惟(理性)に基づいて言語化している。
−−思惟は、現実の世界を秩序として認識し、その世界の秩序についての認識を整理して、言語として表現するのです。渾沌である世界が、思惟によつて秩序を与えられるのでは無い。人間にとって、世界に秩序があつても、そのまま秩序の認識が産まれるのでは無い。世界に働きかけながら、秩序の階層を認識して行く事で、世界の秩序と言う認識が出来上がるのです。世界にそれ自体秩序があっても、それだけで認識に関わるのでは無い。認識は世界に働きかける事で、自分の世界に世界の秩序の内容を形成するのであり、その世界で成立している内容から、<世界に秩序がある>と言う認識が成立する。思惟が、現実世界に秩序を与えている訳では無い。思惟が得ている秩序内容によって、思惟自身が、世界には、<これこれの>秩序があるのだと判断すると言う事なのです。人間は、この現実の世界の中で生きて行くとき、世界に働きかけ、働きかけの成果に対自する事とで、そこに一定の法則性がある事をしり、秩序がある事を理解して行くのです。だから私達が<世界には秩序がある>と言う時、世界の渾沌に秩序を与えたのでは無くて、秩序と言う認識が成立したと言う事なのです。その認識は、人間の実践に目的性を与える事で、実践が、世界の秩序に合ったものとなるのです。

言語を構成する単位的要素として「語彙」が絶対的に必要になる。この初発の語彙を生み出す為の要因は脳内に蓄積された体験や遺伝情報の中に存在する理性のメカニカルな動機によって、個別的に語彙の選択が成し遂げられていくものと考えられる。日本語の「枠組み」は「CV」構造と言う一音節の枠の中に意味(抽象概念)を付与し、その「CV形態素=素語」の組み合わせによって語彙群を構築していくのです。 −−抽象概念は、意味を形成する実体としてあるが、その抽象概念自体が意味なのではないと言う事です。語彙における意味とは、語に意味があるとは、抽象概念が、語の音声と言う側面と形成する<関係>の事を指しているのです。意味は関係概念なのです。抽象概念や、話し言葉の音声と言う側面は、その関係を形成する<実体>という位置にあるのです。

和語研究の歴史:
大伴家持の万葉集歌詞の注記に「て・に・を・は」の「辞」の考察が研究の始まりである。
鎌倉時代歌学者仙覚律師は万葉仮名の分類をして正しい読みや注釈を行い「万葉集注釈」を世に出した。
富士谷成章「かざし抄」「あゆひ抄」:言葉の位の名称で三つの分類を実施(かざし・よそひ・あゆひ)し、「名」を特別扱いとした。
<かざし:代名詞、副詞、接続詞、感動詞など、他の語の上にカンザシの様にこの語を置く事から命名されたものである。>
<あゆひ:人の足の様に「あゆむ」所から語の下について動きをあらわす、助詞・助動詞と接尾語もこれにあてる。>
<よそひ・装:用語の活用を説いたもの。本=語幹、末=終止形、ひきなびき=連体形、ましかた・往=連用形、目の前・目=命令形、来=未然形、なびきふし=巳然形、伏目=形容語尾>

「名」は意味を持つ名詞或いは語幹であるが、助詞や活用語尾には働きや現代過去未来・観念を表す「ロゴス・理・ことわり」だけが存在して意味は無く、「辞」と喝破している。辞は単独では文の成分にならないもので、「形式的な概念」を表し、また概念の過程を踏まない単なる形式だけを持つごである。
−−この考え方こそが、一番問われることなのです。「概念の過程」と言う事で、名詞や形容詞や動詞を考えていて、辞である助詞や助動詞は、前者のような言葉ではないとちいうことで、だから辞は「概念の過程」を経ていないのだと言う結論になる。前者を詞とすれば、詞と辞の違いは、概念の過程を経ているかどうかにあると言う事になります。辞について<概念の過程>を経ないと言う事であるなら、ではなにかと言えば、観念の直接表現であると言う事なのです。それを<働きや現代過去未来・観念を表す>とするなら、現実の言葉において、経験的にある<私は会社に行く>と<私は会社にいった>の違いに対して語尾の変化としての<た>が、その観念を表していると言う結論になるのです。<私><会社><行く><いった>に対して、<私>と<会社>の関係は同じだが、私の行動の時間的規定が、<行く>と言う行動を表す語彙の語尾の変化として示されるのです。時間の流れは客観的存在であり、それを過去、現在、未来と言う<詞>で表す事と、時間の中の行動でしめすのが<た>と言う語彙なのです。同じ対象を詞として表すと、<過去>という辞としては<・・・た>というとになる。とすると、詞としての<過去>と辞としての<・・た>は、同一の対象にたいして、認識のあり方の違いが、両方向に現れていると結論して良いのでしょう。<山>と言う詞は、私の目の前の向う側にあり、<・・た>は、観念を示していると言う考え方は、論理としては、バラバラな捕らえ方をしているのであり、<対象−認識−表現>と言う過定論が無いことから生ずる不統一なのでしょう。

日本語の特性として、そんなに多く無い一音節ないしニ音節の意味世界を豊かに広げ、言語機能を高めるために「動詞・助動詞・助詞」を発達させた。助詞は、「関係付け」を行う辞である。体言と体言を関係付ける語を=連体助詞、体言と用言を=格助詞、副助詞、係助詞 文と文=接続助詞、文の終わりでその文全部を相手に持ちかける=終助詞
−−助詞が語彙と語彙(体言、用言等)との間の関係を表す。<助詞が、語彙と語彙との間を関係づける>と言う時、それは、助詞に対する機能付けと言う発想なのです。助詞には関係づけの働きがあると言う事なのです。<山がある>と<山はある>と言う文における違いが、助詞<は、が>によって成立していて、<山がある>と言う文に対して<が>を<は>に置き換えると、<山はある>と言う別の意味の文になるのは、<は>に依るのだと言う考え方は、出来上がった文を変化させる働きが、<は>にあると言う事にってしまう。しかしこの考え方は、はじめから<山_ある>という格助詞の無いぶんがあり、ある働きをする格助詞を挿入する事で、その働きで文に新しい意味が出来上がると言う発想なのです。まず、出来合いの文<山_ある>と言う不定形な文があり、格助詞<は、が>を挿入することで、各々の機能によって特定の文が成立すると言う発想です。これが機能主義的な発想です。つまり、文の成立を考えずに、成立してしまった後の文に対して、その違いを格助詞の違いで理解しているのですが、これは文の成立に対する本質論がないからであり、<思想を表現する>という、表現の段階を言葉というのであり、だから文の違いが、格助詞の違いであっても、思想の違いを、格助詞という表現の違いとして表していると考えるべきなのです。

言葉はどの様に作られたのか、その作られる過程を「生成文法」という新たな方式で解きあかそうとしている。しかし日本語の「素語」を分析すると、一音節事に抽象概念が賦与されている事実が浮かびあがって来た。ラ行四段の活用辞が一音節素語に付くと動詞になり、意味展開の鎖が八方へ伸びて言葉のバリエーションを広げるのである。
ソシュールは言語は差異の体形、関係の体形であると規定した。言葉の成立を考える時、外界は客観的に存在しているだけであるが、人はそれを自分の理性で客体化して「言語」の世界を作り出す。そして最初に「恣意的に」音声と意味との関係を合体させ、まるで一枚の紙の様に、意味と音声を裏と表に印刷したのである。一旦貼り付いた意味と音声の関係は、もはや決して剥ぎ取る事の出来ないシー二ョである。
−−音声は咽の声帯の振動であるが、奇声では無く、言葉と言う音韻規則のある音声であると言う事なのであり、母音と子音とに区別されるものの組み合わせなのです。そのような組み合わせから成る音声が、心的なものとの関係を形成する時、その心的なものが、意味なのでは無く、あくまでも、その関係が、意味なのであり、心的なものの段階で、心的なものを意味とするから音声と意味との二つのモノが、<貼付けられる>と言うイメージになってしまうのです。この<貼付ける>と言う考えは、関係を形成する<音声と心的なもの>だけを考える所から生ずるのであり、論理的には「対象の実体的把握」と言う事になる。その実体的なものが形成する「関係」が把握されるのである。ただ関係は実体とは別のものでは無く、「実体がその特性によって形成する」と言う論理が理解されなければ、結局実体で止まってしまい、両実体が貼付けられると言うイメージで終わってしまうのです。ただこのイメージも、自分の言いたい事を表していると言う事である限り、特別間違いではなく、意味と音声とが一体と成っている事を言おうとしているのだからです。意識的に何が言いたいのかと言う事と、無自覚に陥ってしまっている事をこそ、明らかにするのが批判と言う事なのです。

体系化された秩序立てられた脳内にある心的実在、つまりDNAに書き込まれた遺伝子情報の中の言語構築能力をソシュ−ル葉「ランが−ジュ=潜在能力」と呼び、この力によって具体的な音声を、抽象的な別のカテゴリーに分類整理したものを「ラング=言語」と呼び、形相としてのラング(関係の体系)が社会の認知を受けて「規範としてのラング」が実現されこれが「パロール」と言う個人的具体発現となると考えた。パロールはラングの規制にはめられて勝手に発現できない。
−−<規制がある・・勝手にできる>と言う区別、パロールと言う発言は、個人個人の発言ではあるが、相互に発言する事で、その相互性が、両者の共通性を確立するのであり、その共通性が無ければ、相互に発言が出来ないと言う事になる。個人個人の思いがあって、それを相互に言葉を介して伝達する時、その言葉を介する事が、すでに一つの規制を受けているかの様にイメージされるのは、各々の思いがあって、それが他者に直接伝達されるのでなく言葉と言う間接を介するから、間接的になる事を規制と言っているのです。しかし問題はここにある。それは、個人個人にある<思い>なるものを他者に伝達すると言う時、この言方のレベルでは、<思い>は、まだ一般論的であり、言語に表現される<思い>は、概念化された<思い>と言う事であり、概念化された思いは、言語と言う表現形態を取る以外は無いと言う事なのです。概念化された思いに、音やインクの跡やコンピュータの画面の点滅を対応づけることで、その<音やインクの跡>が誰の耳にも目にも知覚される事で、その知覚を介して自分の概念化された思いが、他者の前に提出できるのです。私達が自分の目や耳で知覚しているのは、音やインクの跡なのだが、同時にそこで成立している対応関係があって、音やインクの跡の知覚が成立する時同時に、粗の関係似ついての認識も成立しているのであり、その成立の事を<言葉>を理解するということなのです。私はここで、<音やインクの跡>の知覚が成立する時、特定の観念が同時に成立すると言う事を言っているのではない。現象的には、音等の知覚意外に、意味なるものが頭の中に成立するので、言葉が解るのである様にみえるけれど、私達の頭の中の脳細胞の働きとして成立するものはあくまでも、<関係>というレベルの事であり、その関係を形成するものが、音でありインクの跡であれば、他方に概念的思惟であると言う事なのです。さらにこの関係を形成している両者は、私達の周りにある音やインクの跡で、頭の中にある概念的思惟であると短絡されてしまうが、私達の周りにある音やインクの跡は、私達にとっては、知覚されている対象としてあり、その知覚の内容が、音声表象や形の表象として脳細胞に出来ているのです。言語表現のばあい、そこで成立している表象は、種類と側面から捉えられた表象であって、文字も特定の形であって、この特定の形の表象と概念的思惟との対応関係と言うレベルになるのです。その特定の形が、恣意的に、英語の文字や日本語の文字、韓国文字の形がそれぞれあるように決まると、例えば日本語の体系の中では、他の文字の形は相互に規定しあっていくことになるのです。

この項目一応終了<2002.06.11>