読   書   日   記

私が日々目を通す書物に対して、私の今の視点と、了解できない観点を書き抜き、それをどのように理解すると、私の了解になるかを目的に日記風に綴っていきたいと思います。

−−−−−−−−2002年05月31日−−−−−−−−
−−−−−−−−2005年04月10日−−−−−−−−

日本語には主語はいらない−百年の誤診を正す 金谷武洋 講談社選書メチエ

第1章 日本語には人称代名詞と言う品詞はいらない。


代名詞とは何か。
英語の「Pronoun」である、「名詞・Noun」に代わる(Pro−)ものの直訳です。代名詞で特に重要なものは二つであり、ひつとが「これ、ある、それ、どれ」の指示代名詞、もう一つ「わたし、あなたかれ、などの人称代名詞」である。
「関係代名詞」はいらない。
   Here is the book WHICH you bought。
「買った所の本」と言う様に「ところの」を入れてこれを関係代名詞と命名するのです。そして日本語では「ところの」が省略されるのだと結論するのです。各言語において関係代名詞の省略可能なのは、英語だけなのである。フランス語、ドイツ語では省略されないのです。日本語には必要のないものなのに、あえて挿入しても成立ちそうなのは、日本語の構造によるのでしょう。
オッカムのかみそり<「存在者の数を不必要に増やしてはいけにい。」と言う原理>オッカムの原理は別名、単純性の原理ともいわれている。説明原理はできるだけ切り詰めるべきである、と言う原理です。
日本語では名詞と人称代名詞の構文的振舞いが全く同じと言う事実がある。英仏語などの「人称代名詞」には「名詞」と違う明らかな構文的特徴がある。
・違い「その1」
日本語:「昨日そこに行った私」などと、名詞修飾が可能である。「昨日買った机」の机と同じ一般名詞と同じ様に使える。これに対して英語の「I」はそうはいかない。強調形と呼ばれる<Me>、あるいは「再帰形」の<Myself>などの形に直さなくては「名詞修飾」が不可能である。
−−<I=私>と言う等式の翻訳は、一見ありそうであるが、「名詞修飾」と言う表現形態において日本語では<私>だけであるが、英語では<my、me、mine>と言う違いがあるのです。つまり<I>は、日本語での<私が><私は>と言う事であり、助詞との結合として成立しているのです。だから変な日本語である<Youは、meに来て欲しいの>で使用されている<You、me>と言う英語の語彙は、日本語では<貴方>であり<私>であるが、助詞との結合としての、<貴方は>であり<私に>であるのです。You(1)=You(2)+<は、に>と言う事なのです。1は英語であり、2はただ日本語の貴方なのです。つまり日本語では、英語の人称代名詞を<book=本>と同じ様に扱っているのです。日本語使用者である私達が、単なる名詞の扱いを、人称代名詞に対しても行ってしまうのは、日本語では、<名詞+助詞>と言う結合が基本であるから、そこに<名詞>を単独に考えてしまうからです。現実の話し言葉、書き言葉では両者の結合としてあるが、その言葉を分析すると、先ほどの<名詞+助詞>と言う結合をえるのです。英語の場合、その分析から人称代名詞が、他の一般名詞と違うと言う事で、<人称>と言う言葉で表し、その名詞が主語として立つ時に、述語が特定の語形として成立すると言う特徴を形成していると言う結論を得る事になったのです。
英語の人称代名詞は名詞の様な自立語的性格が弱いから、例えば川端康成の「美しい日本の私」と言うタイトルの中の「私」もそもそも<I>では訳せなかった。<Japan、the Beautiful、and Myself>と訳している。名詞修飾が出来るからこそ「私」は名詞なのだが、<I>はそのまま「名詞修飾」出来ないのだから「名詞」とは別の品詞として扱うべきだ。現に英仏語などはそうしている。それらが「名詞」とわざわざ別立てで呼ばれる「人称代名詞」なのである。
・違い「その2」
名詞は無限にあり、代名詞は、限定されている。日本語では「私・貴方・彼・彼女」は単なる名詞で、その為に場面に応じて使い分けが自由なのだが、英語では<I、You>と言う相互の区別だけであり、日本語の<あなた>と言う言方は、女性が使えば、単なる<YOU>ではないのです。
・違い「その3」
代名詞が使われると語順が変わってしまう場合だ。英仏語では、語順を変えずに名詞を代名詞で置き換えられない事がよくある。日本語ではそんな問題は全くない。仏語では、目的語に使われるのが名詞と代名詞とでは構文が大きく変わる。目的語が名詞であればそれらは動詞の後ろに来るが、目的語の名詞を代名詞で表すと、それは動詞を飛び越えて前におかれる。こうした語順変化は英語にさえ見られないものです。
「何故、英仏語など印欧語は人称代名詞を発達させたのか。」と言う重大な問題が出て来る。英語の観点からではなく、日本語や韓国語の観点から考えてみる。つまり、両言語では人称代名詞などと言うカテゴリーはいらないのに、なぜ英仏語などでは必要なのか、と問うてみるのです。その答えは、その基本構文によるのです。日本語には所謂「主語のない文」が少なく無い。

<毎朝、速く起きる。非常に速い。>日本の文法家までが、「主語の省略された文」などと称している。なるほどこれらの文を西洋語に翻訳する時に、何らかの「主語」を補う必要があるが、それは日本語とこれらの語との文の構造が違うからです。仏語では、主語が決まらない限り、動詞が決まらないのです。誰が食べるかで、<食べる>と言う動詞の形態が決まってくる。日本語のばあい「食べます」は、その行為者が誰なのかに全く左右されない。<英語は主語中心、日本語は述語中心>
「5年生」と名詞と「5年生です」と言う<です>という述語が入ると、日本人は文と理解するのです。

Did You see Mary? Yes、I did。
日本語では、<麻里を見ましたか。はい、みました。>となるが、それを「あなたは、麻里を見ましたか。はい、私は彼女をみました。」と言って言えない事はないが、前半のほうが、言葉としては座りがいいのです。
−−日本語では、私とか彼女とかが省略されても意味が通じると言う時、省略出来る事が構文的に許されるのであり、許されると言う事が重要であって、その省略を補充して、「あなたは、麻里を見ましたか。はい、私は彼女をみました。」と言い換えても、意味は通ずるが文としては、堅すぎると言うレベルであるにすぎない。英語の場合省略すれば、文として成立たないと言うレベルの問題なのです。つまり、省略出来るその構文の特性が明らかにされる事であるし、省略できない構文の特性が明らかにされるのです。だから<省略できる、省略出来ない>と言う事例を、提出する事は一つの現象であって、日本語は何故両方の文が成立つのかと問わなければ成らないのであり、単に<実は、省略されているのだ>と言って済ます事では無いのです。
構文的に必要なものを、あえて言わないとしたらそれを「省略」と言えよう。日本語においては多くが「初めからゼロ」の謂いである。日本語の人称代名詞は言わば「裸の王様」と同じで、着ているはずの服が見えないのでは無く、最初からスッポンポンの裸なのだ。
田中さんは、昨日そのお店で本を買いました。
この文でも「すべてのいみは明らかではない」、依然として英語やフランス語には100%の確信を持って訳せないのです。まず「田中さん」は男性か、女性か、女性なら既婚か未婚かは、わからない。
つぎに「本」だ。どうでも良い本か、何冊かったのか、これら一切の情報がこの文からだけでは解らない。英語では、冠詞、a、the、those、book(s)が特定される。つまり、「基本文の自律性」と「そこに盛られている情報」とは、別問題と謂う事だ。英語が主語を人称代名詞で明示するのは、そうしないと非分になる、何故なら主語なしでは動詞が選べないと言う英仏語の事情のせいにすぎない。日本語(など東アジアの言語)がそんな事情に合わせなくて行けない義務も義理も無い事を我々は堂々と主張すべきである。
「人称代名詞が日本語では省略される」と言う広くしんじられているが実は根拠のない「神話」であるのです。
人称代名詞と所有形容詞は双子の兄弟。
動詞に関わるのが、人称代名詞であり、名詞に関わるのが所有形容詞であり、このような文法上の機能分担をしているのであるから、英仏語で人称代名詞が多用されるのなら、所有形容詞も多用されるのは極あきらかである。

第二章 日本語に主語と言う概念はいらない。

−−主語に付いての一般的な考え方。S(主語)−O(目的)−V(述語)であるが、ただ主語が省略される事が多いのだと。つまり、構文としての、上記に対して、省略ばかりで成立っている日本文と言う理解は、仮に主語が省略されても、<意味>が通ずると言うると言う事が、省略の正統性を示すのでしょう。
英仏語の構文にある主語と述語の組み合わせを、日本語と言う言語にも当てはめるのであ。しかし英仏語の構文における<S(主語)−O(目的)−V(述語)>において、主語の省略が成立しているかどうかが問題であり、その英仏語の構文においては、構文を構成する主語や述語のつながりが強固であり、両者は一緒に現れるのです。つまり、英仏語の構文におけるSとVは、主語の特性によって、述語の形態が決まって来ると言う事なのです。だから主語の特性が明らかで無ければ、述語の形態も決まらないので、省略された文は成立しないのです。
「田中さんが主語であり、目的が本であり、買うが述語である」と言う言い方は、主体としての田中さんが、買うと言う活動をするのであり、その活動の対象が本になると言う事実に対しての言葉と言う事なのです。日本語の場合にはそのままの言葉で良いのだが、英仏語の場合、主語が<you><I><He>つまり、人称代名詞の違いによって、述語である<買う>の表示形態が変わると言う事なのです。<貴方、私、彼、彼女>と言う言葉は、<一人称、二人称、三人称>と言う区別として成立するのであり、単に事実としての呼称の表現形態でありながら、そして日本語ではそこで終わりなのだが、英仏語では、述語に位置する語彙の表現形態、語形に違いが出来てくるのです。
日本語でも英仏語でも、その言葉が表す現実の事物にあっては、主体とその活動、主体とその性質、つまり主体とその属性と言う事が成立しているが、その主体と属性を、主語と述語と言う形式で表現するかどうかと言う時点で、初めて英仏語と日本語の間に違いが出てくるのです。

言語学者アンドレ・マルチネス「言語学的機能としての主語とバスク語の分析」(1962年)
−−主語の定義は、主語の具体的振舞いにおいてのみ形成される。もし命令文、省略分以外で、ある要素が述語と不可分に現れるなら、それは主語である。この不可分性を持たないものは主語では無い。それは形(例えば語幹)や文中の位置がどうあれ、他の補語と同じく一つの補語にすぎない。
<お菓子を食べる。>と言う事実があって、その食べた時の美味しさの気持ちを言葉にあらわす。「おいしい!」と言う形容詞文をどう説明するだろうか。恐らく文としては完全ではなく「このお菓子はおいしい!」、或いは「これはおいしい!」の「主語」が省略されたものと考えるだろう。何故なら英語では「It is good!」であるから、日本語でも、<it>に見合ったものがあるのだが、ただ省略されているのであると言う考え方。
英語の<Good>の場合、これだけでは過去にも否定にも出来ない。いわゆる<Be>動詞の方を変え なくては行けないのだが、主語が決まらない限り、その<Be動詞>は形を持てない、と言う深刻な「一身上の都合」がある。だから英仏語の基文系第二目、<S−V−C>構文と成らざるえないのです。

英仏語における主語の必要性

日本語の視点から「英仏語などに主語と言う概念が必要なのは何故か」を問うのである。

(あ)基本文には不可欠の要素である。
(い)語順的には、ほとんどの場合、文頭にあらわれる。
(う)動詞に人称変化(つまり活用)をおこさせる。
(え)一定の各(主格)を持って現れる。

日本語に主語を認めると、無数の「主語無し文」に「省略」と言う別な説明を持ち込む必要がある。
「秋刀魚を三枚におろしますか」とか「電源が入っているか確かめる」には、省略されているはずの「主語」が見つからない。学校文法が主語とするものは、実は「意味上の主語」である事がおおい。
−−魚屋さんが、お客に、買った秋刀魚を三枚にするかどうか聞いているのであり、それに対して、<私が秋刀魚を三枚におろしますか>としたなら、私=魚屋であるから、そのように聞いている魚屋さんがおろす事にはま違い無いのであり、おろす事を実施する者が<私>と言う事を問うのでは無いはずだ。あくまでも買った<1本の秋刀魚>について、そのままなのか、三枚状態にするのかどうかがとわれているのであり、それを<私がするか、第三者がするか、お客がするか>が問われているのでは無い。つまり、日本語においては、<私が・・・>とか<私は・・・>とかを、英仏語の主語に強引に当てはめると、三枚おろしにするかどうかが問われているのに、誰がするのかと言う事になってしまうのです。つまり、私なる主語をつけると、<三枚おろし>と言う行為の主体が誰かと言う事になり、<三枚おろしにするかどうか>と言う事ではなくなってしまうのです。<私は、秋刀魚を三枚おろしにしますか>と言う文と<秋刀魚を三枚おろしにしますか>では、表現の意味が違うのです。魚屋さんで繰り広げられている事に対して何処に視点をおくかによって、表現がちがうのであり、だから<秋刀魚を三枚におろしますか>と言う文は、主語が省略してあるのではなく、主語などを<は><が>をつけて、<私は、秋刀魚を三枚おろしにしますか>と<私が、秋刀魚を三枚おろしにしますか>とでは、また表現の意味が違うのであると言う事なのです。省略されている主語とは、<三枚におろす>と言う行為の主体の事を言っているのであり、「行為があれば、その行為の主体と行為を受けるもの」の区別があると言う論理構造が示されているだけで、魚屋さんは、その論理構造を言っているので無く、お客である主婦に対してその場の出来事に付いての判断を示そうとしているのです。それが<三枚におろすかどうか>と言う事なのであり、その場合には述語だけの表現で完成しており、それに対して論理構造があるからと言って、主語を表現すると、言葉としては、別の意味になつてしまうのです。誰が三枚におろすのかと言う意味合いになっているのです。

三上章の構文論

挌助詞「が・を・に・と・で」(動詞との文法関係を示す)と係助詞「は」(動詞との文法関係を示していない)とを峻別する。主語と述語による主従関係と言うものは日本語にはない、と主張した。
「が」格の名詞句は主語になりえず、単なる「主格補語」にすぎない。補語は基本文の不可欠要素ではないから日本語の稀本文は「述語1本立て」だと言うのが三上の主張である。
−−この主張の内、<述語>と規定されているものは、正に<主語−述語>と言う構造で成立しているのであり、その関係の内、述語という規定だけを日本語に当てはめるのは、少なくとも英文法を借用しているのであり、文の構造を種類の側面から区分けしているのです。
<私は、今日学校へ行きます。>と言う文に対して、「<行く>と言う動作:述語」「その動作の主体である私:主語」「今日、学校へ:補語」と規定する。英文法では、述語に対する主体の在り方を主語と規定して、両者は同一の文の中で使用されなければならず、主語の在り方によって述語の形態が決まるのです。主語が、一人称か、二人称かによつて、述語の形態が決まるのです。それに対して日本語の場合、述語の形態が主語の在り方に依って決まると言う事は無いし、述語だけの文があり得るということなのです。
英文法のように<主語と述語>の同一の構文として成立って居る場合は、各々の在り方が、相手を規定するのであり、その相互の規定なしに<主語−述語>は考えられないと言う事なのです。とすると日本語で<行く>と言う動作が言葉で表されている事と、それが<述語>と規定される事とは次元が違うのです。そして、その動作を表す言葉例えば<行く>と言う言葉を、述語と規定するのは、英文法で作られた概念を、文法が学として成立していない日本語に当てはめられて、日本語の文法を考える手段として使われたからに他成らない。つまり、日本語の文法を考えようとする時に、どうしても英文法の概念を使わざるを得ないからです。英文話法の概念を、日本語に翻訳しているので、その翻訳日本語を使って区分しているにすぎないのです。

日本語に主語がいらない事をどの様に理解させたらいいのか。

−−日本語でも英語でもロシア語でも、言語であれば文法があり、<主語−述語>と言う関係が捕らえられているので、日本語の文法に、英文法の<主語−述語>関係を当てはめてしまう事になる。その概念から日本語を見ていて、さらに<主語のない>と言うその概念から外れた事を考えるからこそ、主語の省略と言う事を結論せざるを得ないのです。しかし<主語−述語>と言う関係は、表現としての言語のレベルの出来事であり、どんな言語にもあるのは、その<主語−述語>の関係ではなく、<主体−属性>と言う構造であり、私と言う言葉で名指される対象を主体とし、その主体の活動を述語として表しているのです。しかしこれは<主語−述語>の一般論であり、英語では、主語の人称の違い<一人称、二人称、三人称>が 述語の形態としての語形の違いとして規定されるのです。とすると日本語には、その後者が無いのであり、単に<主体−属性>と言う関係において、英仏語と同一であると言う事で、日本語にも<主語−述語>の関係があると結論しているだけです。

主語の概念と明治維新

本居宣長、本居春庭、富士谷成章などの国学者には、一切「主語」と言う概念はないのです。
本居宣長<言葉の玉緒(1779年)>:「は、も」が終止形を求める事は、「係り結び」の一部なのです。宣長はこれら係助詞と述語間の文法関係を一切論じていないのです。
富士谷成章<あゆひ抄>:助詞「は」の提題性を主張している。彼は助詞<てにをは>をまとめて「あゆひ=脚結」と呼んだ。そして「は」は、題を受けるべきあゆひなりと結論している。
日本語にとっての「主語」は、ある日突然、明治維新と並行する形で導入されるのです。

第三章 助詞「は」をめぐる誤解

一体どういう理由で「は」と「が」とばかり比べられるのだろうか。係助詞「は」は、文法関係を表さない。文法関係を表すのは、格助詞(が、を、で、に、へ、と、まで、から)である。両者の比較だけが取り上げられるのは主語のせいなのです。この発想は最終的に<ウナギ論争>や<総主論争>としておわるのです。
三上文法では、「は」をピリオド越え、コンマ越えとして理解するのです。
吾輩は、−−猫である。
    −−名前はまだない。
    −−何処で生まれたか噸と見当が
    −−何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。
「は」の働きは文を飛び越えて、少なくとも段落レベル、談話レベルで考察しなくてはいけないのです。

「この本は僕も呼んだが、大変おもしろかったから、君も是非読んでみたまえ。」
この本は、−−僕もよんだが、
     −−大変面白かったから、
     −−君も是非読んでみたまえ。
<この本>に対して、読む主体としての<僕>と<他者>がいて、他者がまず読んでいるので、次に僕が読めばそれは、僕<も>と言う事になる。読む者の連続性を捉えて、そのつながりを<も>で表すのです。さらにこの本に対して、<大変面白かった>と判断するのは、私の思考であり、私の思考の中に成立している感性を「面白い」と言葉にしているのです。しかしその感性の成立は、その本自体が持つ表現における特性によって、私の中に生まれているのです。この過程の中で、私の中に生まれているモノを<面白い>と言葉に表す時、そのモノを生み出す本自体にある特性を、<面白いモノ>と言葉にするのです。本に<面白い>特性があるから、私の頭の中に<面白い>と言う感性が生まれると考える事になったのです。ただこの考え方からすると、その本にある内容の特性が<面白さ>であり、その面白さが、読むことで私達の頭の中にはいり、そこではじめて<面白さ>と言う感性が成立するのだと言う事になります。と言う事は、その本の中に既に<面白さ>があるのだから、それを読んで<面白さ>の感性を作れないのは、それを読む者の能力に係っているのです。ただこれは、その本の中に<面白さ>があると言う事は、読んだ結果として、私達の結論として成立しているのです。本のなかに<面白さ>があるにしても、その存在を私達が発見しなければ、私達にとっては、頭の中の認識としても、結論としても成立しないのです。つまり事実として本のなかに<面白さ>があるにしても、それを<事実として存在する>と認識するのは、その本を読む事の出来る私達人間の問題であり、特に認識としての頭脳の内部の問題なのです。
この本に対しては、まず読まれなければ、その特性が知覚出来ないのであり、だからまず<讀む>事が実践されるのです。読まれながらその言葉に表されている内容が、頭の中に入ってくるのであり、そこで内容が知覚され事により、<面白い>と言う判断が同時に形成されるのです。内容にある特性が<面白さ>であり、その内容自体が読む事で頭の中に知覚されるのは、一つの事実でしかないが、しかしさらに特性を<面白さ>と判断する事が成立しているのです。とすると判断として成立している感性が、本の内容が持つ特性に対して生み出されるにしても、私達が頭の中に形成する<本の中の内容の特性を面白さ>と言う思いは、読まれた本に向かった後に初めて成立するのです。つまり、まず<面白い>と言う感性が成立していて、その成立の過程を明らかにしようとした時、はじめて本の内容にある特性が、元であり、その元を<面白さ>として知覚しているのだと言う事なのです。もつと厳密に言えば、本のもつ内容が知覚され、同時に<面白さ>として判断されると言う事なのです。誰でも言葉が理解できていれば、それを読む事で内容を知覚しているが、ただ<面白さ>として判断さるかどうかは、また別の働きであると言う事なのです。
<この本は、大変面白い。>とは、本を読むと<面白い>と感ずる事ができると言う事実を言葉にしています。ただ<この本>に対して、その諸特性としてあるモノに中に面白さと言う特性があると言う事を<は>で、表しているのです。つまり、本の持つ諸特性の中の一つの特性を、面白いと判断している事に対して、本の属性としての特性−−当然五感により知覚されて頭の中に認知されているのです−−とそれについての判断としての<面白さ>と言う事を言葉として表している。
<は>は、この本の諸特性を取り上げる。
僕も(他者が読んでいるからこそ、もなのだが)、僕が、この本を読んだ。−−−>僕が、この本は読んだ。
この本を読む主体があり、その一人として僕も入っているのです。僕という人間は、本を読む主体として規定されるのであり、<読む者=僕>と言う実体のレベルでの同一性なのです。僕には色々な性質、属性があると言うのに対して、この本を読むと言う属性が、僕と言う存在のレベルで実体化して、僕自体が<この本を読む者>となるのです。つまり、僕を<本を読む>と言う視点から実体化すると言う事であり、当然<僕>と言う言葉が出てくる以前に、まず<本を読む>と言う事が取り上げられているので有り、それが例えば、<誰かこの中で、この本を読む者はいないか>と言う様な言葉があり、その応答として<僕がこの本を読みます>と言う言葉が出てくるのです。

第五章 日本語の自動詞/他動詞をめぐる誤解

両者の区別についての常識論:直接目的語である「〜を」取るモノが他動詞、他が自動詞と言う事になる。
この説明は歴史的過ちを犯している。自他の区別は、後述するように、本居春庭の「詞通路」をその代表とする江戸時代の国学から始まっている。
反例(1):「を」をとる自動詞
義経が安宅の関を通った。自動詞:通る、他動詞:通す
夏夫はすぐにアパートを出た。自動詞:出る、他動詞:出す。
フランス語を春子に教わった。自動詞:教わる、他動詞:教える。
橋本先生は学校を変わった。自動詞:変わる、他動詞:変える。

<夏夫はすぐにアパートを出た。>とは、アパートと言う建物の内部から外に移動したと言う事と、アパートから引っ越したと言う意味も持っている。
それに対して<夏夫はすぐにアパートを出した>と言い言えば、アパートと言う賃貸の建物を経営する様になったと言う意味を持つ。これらを前提に、両方とも<を>を伴う、つまり自動詞でも<を>を使用するのです。とすると前提である<を>がつくモノを他動詞、それ以外を自動詞と言う区別は、正しくないのです。例外では説明出来ないのです。<私は学校を変えた>と<私は学校を変わった>との違いは、<を>で示す目的語の学校に対する視点の違いなのです。<変える>の場合、主体たる私のその活動に意思が含まれているのであり、<変わった>と言う場合、主体の活動による状態の変化を示している。前者が自動詞と言われるのは、主体の意思による活動と言う事であり、後者が他動詞と言われるのは、主体の活動による状態の変化に視点が向けられているからです。つまりA学校からB学校と言う様に、目的の学校に視点が注がれている。
俯瞰すれば、橋本先生の行動に対して、A学校へ行っていたのが、B学校に行くようになったと言う事を、主体の活動とするのが自動詞で、活動を受ける目的としての学校に視点を置くのが他動詞となる。

英文法から全く脱出したところに、形態的にも、意味的にも日本語の自動詞/他動詞のシステムが見えてくる。日本語の自動詞/他動詞は、英文法や仏文法とは違い、目的語との共起や受け身の可能性などは、一切没交渉です。日本語は、語彙そのものに自/他動詞の対立/区別があるのです。英語や仏語ではほとんどの場合、動詞そのものに対立が無いのです。だから他の所に違いを求めなければならないのです。
He wakes up.自動詞・・・He wakes up Mary. 他動詞
英仏語では、動詞の形に自他同形である場合が多く、どうしても目的語を明示する必要があるのです。
日本語では、動詞そのものが自他の対応を持っているのだから、目的語に関する制約はないのです。
He wakes up。・・(1)
が日本語では単に彼が起きると言う彼自身の出来事であるなら
He wakes up Mari。・・(2)
は、彼が麻里を起こすと言う彼が麻里の起床に働きかける者だと言う事なのです。(2)は<Mari>と言う目的語が無ければ、全く別の意味になってしまうのです。それに対して日本語では<起こす>と言う言葉は、誰かや何かを起こすのであり、その誰を明確にするために目的語が添えられるのです。英語では、(1)はあくまでも自動詞であり、自分が起きるなら、<Wake up>であり、誰かを起こすなら、(2)の様になり、その誰かを目的語として添えなければ成らないのです。目的語を添えなければ、それは自分が起きる事であるのに、日本語では<起きる>と<起こす>と言う様に区別されているために、<起こす>と言う動詞には、誰かを起こすと言う意味が含まれているのであり、ただ後はその誰をと規定するのに目的語を添えると言う事なのです。

自動詞、他動詞、受け身、使役が乗る連続線

熊が太郎を殺した。・・・(3)
太郎が熊に殺された。・・(4)
この文についての、間違った考え:
(1)基本的なのは能動文で、その構文的変形規則によって受け身が作られる。
(2)能動文と受動文の意味は基本的に同じで、主語が行為者か被行為者かの視点の違いだけである。
(3)日英仏語、全てに共通である。
(1)だけが正しく、それ以外は間違いなのです。
日本語の受身は、「尊敬、可能、自発」の三つの用法がある。「ある行為者が人間のコントロールを越えた所でなされる」と言う事なのです。
(4)は、単に(3)の視点を変えたものではなく、熊が太郎を殺した事実の他に「その状況下では太郎は無力であった」と言う意味が加わっているのです。日本語では「ある状況における制御不可能性」こそ受身・可能・尊敬自発に共通の意味なのだから、能動文が他動詞文である制約は不要です。
,p> 朝の三時に冬彦に来られた。−−−(能動文)朝の三時に冬彦が来た。
この両者は同じ客観的事実を扱っている事が分かる。その事実は能動文が端的に示す様に
誰が来たか(=冬彦)
いつ来たか(=朝の三時)
この二つの情報からなっている。所が「朝の三時に冬彦に来られた」はこれらの二つの事実情報に、さらに何か別な情報を加えたものです。話し手の主観的情報と言う事になる。この場合「迷惑だ/困った」と言う被害者の立場に自分をおいたニュアンスが込められている。その逆に話者が冬彦が来た事を喜んでいるなら、明らかに違った文になるのです。
「朝の三時に冬彦に来てもらった。」「朝の三時に冬彦が来てくれた」の様な文になるのです。
<あいつは酒を飲んでいるのでなく、酒に飲まれているんだ>は日本語の受身の真の機能があると言える。
日本語の受動文は能動文と視点はかわるが意味は同じとは、とても言えないのは明らかだろう。

<ジャンが私の足を踏みました>−−><私の足がジャンに踏まれました>これは英語の受身文の「変形規則」を日本語にあてはめた結果です。この文は、日本語としては<私は、足をジャンに踏まれた>となるのです。日本語では踏まれて困るのは、足ではなくて私自身であり、「足」と「私」を切り離した方がいいのです。
せっかく出かけたのに、雨に降られた。
大事な時に、電話に鳴られた。−−−せっかく寝ていたのに、電話のベルに起こされた。
日本語の受身は、有用性と切り放せないものです。

自/他動詞の機能対立

日本語の自動詞と他動詞の機能の差は何なのか。そこで浮かび上がるのがリサイクルされた動詞の本来の意味だ。自動詞には存在/出現を示す「ある(有る)/在る/生る)」が使われている。英語の<There is,>日本語の「ある」は「人間のコントロールの利かない自然の勢いと状態」を表現する。
他動詞は自動詞と反対に「人間の人為的、意図的な行為」を表す。忘れてならないのは、両者は常にペアとしてきのうするのです。我々が自動詞「通る」の意味を見なくてはいけないのは、自他の対立においてである。この状況下でコントロールを持っているのは、他者であって、通る者ではない。
<橋本先生は、学校を変わった>:転勤になったと言う意味でかんがえられる。
<橋本先生は、学校を変えた> :学校の雰囲気を変えたと言う意図的なものを意味している。
日本語の自/他動詞の機能対立は、平安時代からすでに正しく理解されている。一方に人為的な、意図的な他動詞があり、もう一方には自然の勢いを表す自動詞がある。自動詞の機能とは行為者・動作主としての人間をあえて表現しないへ事なのです。それは「ドイツ語が分からない」とか「車がとまる」などと言う表現を考えれば明らかだろう。行為者としての人は意図をもって消されている。そうする事で「おのずから生起、出来する出来事」として言語化するのが日本語の自動詞の本来の機能であり、また日本人はこうした表現を偏愛する事は既にしばしば指摘されてきた事実です。
本居宣長:<とく紐と言えば、紐を人のとく事、とくる紐と言えば、紐おのづから解くる事也>:玉あられ

この<おのずから>が<みずから>へと変更したものが、現代の自動詞に他ならない。自分という積極的行為者が入り込んでしまったのです。行為者が消されるはずの本来の自動詞文に、主語としての行為者がいつも存在する様になったら、自/他動詞の基本的な機能差が見えなくなるのは時間の問題である。