読   書   日   記

私が日々目を通す書物に対して、私の今の視点と、了解できない観点を書き抜き、それをどのように理解すると、私の了解になるかを目的に日記風に綴っていきたいと思います。

−−−−−−−−2002年06月16日−−−−−−−−
−−−−−−−−2005年03月02日−−−−−−−−

現代日本語講座 第5巻文法 飛田良文、佐藤武義・編 明示書院

森田良行 日本語の助詞・助動詞
1:助詞・助動詞の性格と日本語に占める位置
日本語では、ある思考内容を言語として叙述する時、個々の概念に相当する単語を構文規則によって順番に並べるのではなくて、それら客体的な意味内様の語彙に対して話者の把握認識の有り様を示す言葉を添えて、より複雑な内容の叙述形態へと発展させていく。
−−ある思考内容があり、それを言葉として叙述する事。私の頭の中にある思考が、思考のまま、他者に頭に中に入って行くなら、叙述としての言葉は成立していない。言葉としてインクの跡は、視知覚で、紙の上の凹凸なら、指に依る触覚として、音声なら耳に依る聴知覚されることで、はじめて他者の頭の中に入って行くのです。言葉とは、それぞれの頭の中にある思考を、五感が知覚出来る形態にして、他者の頭の中に入れる媒介なのです。問題は、私の頭の中にある思考と、咽の振動である音声やインクの跡、紙の上の凹凸である物体との関係がどうなっているかと言う事なのです。例えば頭の中の思考が、そのまま自ら姿を変えて、物体になると言う実体的イメージで考えると、物体を知覚する事は、同時に姿を変えた思考を知覚する事になるのです。言葉を目で読んだり、話し言葉を耳で聞いたり、指で点字を知覚したりする事で、そこにある言葉の意味を理解するのです。つまり、子供が言葉を覚え(同様な構造になっているのか、問われるだろう)自由に使える様になった時、そこで成立している構造を説明しようとして出されて来たのです。インク、咽の声帯、紙の凹凸という物質的なものに対して、それが言葉として意味を持っているのは、あるいは言葉として内容を持つのは、思考が自ら姿を変えているからであり、ものを知覚していても、思考の自身が姿を変えたものを知覚している事なのです。物の知覚が、姿を変えた思考の知覚であるという構造なのです。さてこの説明に対して、<思考自身が姿を変えてものになる>と言う実体的な考え方ではなく、他に何があるかと言えば、思考が自ら変化すると言う事では無く、あくまでも両者を関係として捕らえる事なのです。関係であるから、思考が変化してものになるのでは無い。関係すると言う事である。言葉における関係は、思考が概念として、物は種類と言う側面が対応する事で、始めて五感によって知覚されるものが、音楽や絵画では無く、言葉と言う事になります。インクの跡が特定の線や形であり、思考が概念と呼ばれる時、私達が経験している言葉の構造が説明されたと言う事になります。
三者ABCがいる。英語なら、A introduces B to C。となる。
それを日本語で表すと「A( )B( )C( )紹介した。( )の中には、「が、に、を」が入るのだか、何処に入っても文として成立つのです。括弧の部分に立つ語(挌助詞)は、それぞれの事物が文中の他の語の事物とどの様な関係で、意味的にどう関わっているかの、話者による認識把握をあらわしている。
−−英語でも、(1)introduces (2) to (3)。の括弧の中にABCがいれ変わる事で、9通りの表現が成立するのです。
日本語でも、(1)は、(2)を(3)に紹介した。この括弧に「ABC」入れれば、9通りの意味の文ができる。この両言語の違いは、日本語では、括弧に入る人称代名詞に対して、「は、が、を、に」の位置は、英語の様に一通りの仕方では無いと言う事です。英語のABC三者は、それが構文の入る位置によって意味がきまり、日本語の場合三者ABCにつく「はがをに」の助詞によって意味が決まり、述語に対して、前後の位置にとらわれないのです。英語の構文の場合括弧に入る三者は、客観的出来事における三者であるので、話者に関わらないとかんがえられる。それに対して、日本語の場合の「はがをに」は、第三者のような客観的なものでは無いと言う事がわかるので、後は、話者の心なるものが想定されるのです。それを、<話者による認識把握を表している>と表現している。しかし、日本語も英語も、三者ABCの関係を表している。英語は、三者ABCの関係を、「(1) INTRODUCE (2) TO (3) 」と言う構文の123の位置によって表現するのに対して、日本語はABCの三者の後に付く助詞(がはをに)によって表現されると言う事になる。構文の位置に依る表現と、助詞の添付による表現と言う事である。それに対して日本語の助詞の添付について、あえて<話者の認識把握を表している>と言うのは、英語の場合構文によっていて、構文と言う客観的形式にあるが、日本語の場合、助詞が付く事で表されているので、客観的なものに求めないとすれば、後は<話者の認識把握>になるのです。三者の紹介と言う関係に対して、その関係の方向性は、その関係の中にあるのだが、ただ三者ABCを知覚するのと違って、関係の方向性は、紹介の方向性として、三者の立場だけでは、紹介する者、紹介される者、と言う事になるが、その関係そのものの場合、助詞という表現を成立させるのです。

日本語は叙述すべき事柄を請け負う語彙の一つ一つに、話者の認識を助詞の形で添えて確かめながら先へ先へと進めていく表現方式を取る。そして、助詞の部分こそ話者個人の主観が込められ、全体としての叙述内容が支えられているのです。
−−この話者個人の主観とは、誰でもみな自分の頭脳細胞を働かせて考えるのであり、例えばTV・CMの様に、朝日新聞の受け売りであつても、それの内容を頭の中に入れるのは、録音機のテープに話しを録音するのとは違うのであり、日本語が理解出来る事で始めてなされるのであり、皆自分の頭でかんがえるのです。それは三者ABCの認識も、皆自分の頭で考えるのであり、三者のあり方も自分の頭で考えるのです。あり方とは関係概念であって、関係である限り、まず三者ABCの存在とその三者の間と言う構造になっているのです。三者の存在は、知覚されるのだが、同時に<間>に成立している関係は、正に概念としてしか認識されないのです。三者の存在は、ABCと言う事で表現するが、関係は、概念である為に三者の存在のあり方として、助詞で表しているのです。関係と言う概念は、例えば私が他者に対して<こちらは、私の兄です>と紹介する時、他者は彼の目で私の兄を見ていて、知覚しているが、この知覚はあくまでも個体としての1人の人間についてであり、その知覚の中に<兄>という判断をする事は、私と彼とが、同一の親から産まれて来て、彼の方が先に産まれて来たという判断がなされているからです。

助詞と言われる一群の語彙は、表現形式を視野に置く置かないは別として、表現内容を形成するのあたって、話者の認識判断の味付けを加えて行く重要な働きをしている訳です。
−−言葉の内側に、話者の認識判断があると言うのは、テープレコーダーから流れる言葉は、言葉であっても、レコーダーの内部に認識が存在すると言う事では無いが、人間が話す言葉は、その内部に認識が成立していると言う事なのです。私達が言葉を発する時、或いは白紙に向かって文字を記すとき、私達の頭の中には認識が成立していると言う事なのです。しかし一旦発せられた言葉がテープに記録されると

日本語の視点 言葉を創る日本人の発想・(株)創拓社

第一章 日本語の主語、「は」と「が」の使い分け
電車が名古屋駅に到着しようとしている。車内電光掲示板に<もまなく名古屋です>と、まず日本語でついて英語で<we will soon make a brief stop at Nagoya>と表示されるのです。英語では<we・・>とまず主語を示す。その<we>なる人々が、やがてどんな状況を得る事になるか、を以下で述べるのです。
ここでの言葉は<まもなく名古屋です>と言う電光掲示板の表示だけであり、それ以外の言葉は、その表示に伴う周りの状況似ついての説明です。説明も確かに言葉であるが、ビデオの映像で有れば、電光掲示板の表示と状況の映像だけで済んでいるのです。それがここでの文章が、全て言葉であるために、表示や状況も言葉で置き換えているのです。電光掲示板の上の表示に対して、この<まもなく名古屋です>と言う言葉は、このコンピューターの上の<オーサカフォント>で書かれているコトバなのです。<もまなく名古屋です>と言うコトバに対して、それの特定の説明として有るのが、「電光掲示板の上の表示」と言うコトバであるが、その説明はコトバの内容を説明しているのではなく、コトバの形態を説明しているのです。毛筆で書かれた文字とか、ペンキで書かれた文字とか、ディスプレーの光の点滅とか、砂に書いた文字とかと言うレベルでの説明であり、それに対してコトバの内容から説明すれば、「電車が名古屋駅に到着する事を乗客に知らせる表示だ」と言う事になる。到着の時間に対して、まもなくであり、到着の場所が名古屋駅であるのです。
日本語では、「私は・・」とか「我々は・・」とか言った語は全く現れない。ただ「まもなく名古屋です」と、実際に乗客に身に起こる現象を端的に示すに止まるのです。車中の自分が今、「やがて名古屋なんだ」と感じるそのままが、文字になって現れたと言った感覚である。
日本語:ボタンが取れちゃった。
英 語:I`ve lostabutton.
日本語でも「私」は常に表現の背後にあって、ボタンの取れた事実を我が目で眺め、「あ!ボタンが無い」と詠嘆的に把握する。日本語は表現・理解すべてにおいて、話し手・聞き手が常に「自分」と言う言葉のやり取りの主体者となって影の様につきまとっているが、話の中身には入っていかない。英語は話の中に入っていって、対象化された文中の登場人物になるのです。
行動とその主体と言うレベルで言えば、名古屋駅に到達するのは、電車であり、ただ特定の乗客からすれば、その客の乗った電車が到達すると言う事なのです。車内の電光掲示板を見るのは、その電車に乗っている人々なのだから、電光掲示板が示すモノは、あくまでもその電車の乗客に対してであって、人々が電光掲示板の表示から読みとるモノは、自分たちに関係有るモノと言う事なのです。
<まもなく名古屋です>と言う表示は、電車が到達する駅名を表しているのであり、当人はその電車に乗車しているのであるから、名古屋駅に到着する事は、彼に関係有るのです。以上がそこで生じている状況 であるのに対して、その中で現れている言葉は、日本語と英語では違うと言う事なのです。
それぞれの表現によって、読むヒトに理解されると言う事なのです。<まもなく、この電車は、名古屋駅に到着します。>と言うアナウンスは、この電車に乗っている人に取っては、自分たちは、名古屋駅に着くのだと考えるのだし、私が見ているテレビ画面に映されている映像の中での言葉であれば、今写っている電車が名古屋駅に到着するのだと、私は考える事なのです。
例えば、東京駅を出発して30分ぐらいしたら、急にアナウンスが<まもなく名古屋です>と言っているのを聞いた乗客が、驚くのは、その言葉に誤りがあると判断できるからであり、何を急に言い出すのだと断定するからです。そのアナウンスの言葉の出所を確認したら、アナウンスの発声練習をしている時、スピーカーの音声スイッチが入っているのに気がつかなかったからと分かったのです。その言葉が日本語として理解できているが、韓国語で言われればちんぷんかんぷんであるが、個々の語彙の意味に対して今の時点で使用する事の誤りに気がつくのです。<まもなく>とは、その通りの意味だが、しかし30分の時点で使用することの誤りに気がつくのです。

主題を示す「は」

「は」で示される主語は主題の提示と言われる。日本語では、何かについて(春について)述べる時、「春は・・」と相手に投げ込まなければならない。話題とする事柄、つまり題目を、「〜は」の形で出し共通の話題の場面さえ作れば、後は話し手の自由な意見をそれに加える訳であるから、はっきり言って、何を述べても構わないのです。この様な、題目とそれへの話し手の意見・判断と言う関係から、論理的に見たら全く筋の通らない関係でも、「・・は〜〜だ」の形で表せるのが、日本語なのです。
会場は裏の地図をご覧下さい。会場と裏の地図を見ることは決してイコールの関係ではない。
行為と主体と言う現実の関係に対して、言葉の上での主語と述語の関係であり、「主体−>主語、行為−>述語」と言う対応関係を規定する。「私(主体・主語)は、社会人です(行為・述語)」「車(主体・主語)は走る(行為・述語)」となります。しかし「会場は、裏の地図をご覧下さい。」と言う文章に対して、現実の関係で考えると、<ご覧下さい>と言う行為にあって、見る対象物は、地図であり、見る主体は会場に行くヒトになります。
会場の場所について知りたいヒトは、用紙の裏の地図に表示してあるので、その地図を見て下さいと主催者が述べているのです。
主催者が下さいというのです。来場者が、用紙の裏面の地図に表示してある場所の位置をみるのです。これが現実の出来事の説明です。<会場は、裏の地図をご覧下さい>と言う言葉は、主催者が配布した用紙の表面に表示してあるのです。この時<主催者は、表示します>とは表記しません。英語の場合には<It>と言う主語ではじまります。
<会場が、裏の地図に「表記してあります、表記されています」>・・・(1)
<主催者は、会場を、裏の地図に表記しています。>・・・(2)
<会場は、裏の地図に「表記してあります、表記されています」>・・・(3)
今回の講演の案内チラシの表面に表記してある文章の内容です。(3)は、会場の<位置>と言う内部構造を問題にしていて、これが<会場の位置は、・・>となると、会場の内部構造でも位置や大きさ、収容人数等と言う細部が問われるのです。(1)の場合、講演に関わるモノの集まりを「会場、費用、人数等 」の個別として把握するのです。<料金が・・><席順が・・>となります。(2)は、表記しているのは、主催者であり、その主催者が、あるいは主催者は、会場の位置を、裏の地図に表記したのです。
(2)が、行為(する)と主体(主催者)と言う関係に一番近いのであり、<会場>は、表記の対象物としてあるのです。ただ<いる><ある>の違いが出ているのであり、<表記してある><表記されている>の前者は、表記すると言う行為によって生み出された結果として、地図の上にある印と言う事で、後者はその行為が、地図の上の印として表れていると言う受け身として表されているのです。

リンゴは果物だ。
この文は、りんご=果物で、まさに定義づけとも言うべき、すなわち判断です。
リンゴ(下位概念)=果物(上位概念)であるから、下位概念の語なら「は」で始まる文も出来るが、逆の場合、<果物はリンゴだ>は理屈として成り立たない。しかし現実に日本語ではこの様な言い方は、幾らでもある。「デザートの果物は何?」の質問に対して、「果物は、リンゴです」と普通に答えるのです。「どなたが日本人ですが」の答えとして「日本人はわたしです」となるのです。下位概念であろうと上位概念であろうと、一旦共通話題として了解済みであれば(場面や文脈から何が話題になっているかがはつきりしていれば)その話題をAに立て「Aのおいては、厳密に言えば、Bである」と言う極めて情意的な表現となる。
日本語は主語をいちいち立てなくともいい言語だと言うのは、あるべき主語を文字化しない(省略)と言うだけではなく、もともと主語に当たる事柄が、文や話題の前提とならない表現があると言う事の証であるのです。
主語を立てなくても言い言語であり、主語にあたる事柄が、文や話題の前提とならない表現であると言う事で結論すると、英語のように主語を立てる言語との共通が見あたらなくなり、英語の様に論理的な言語であるのに対して、日本語には主語がないから論理的に成らない言語であるとなるのです。英語の表現形態における<主語−述語>と言うあり方は、あくまでも英語の形態であり、日本語には見たとおりの形態があると言う事なのです。問題はそのそれぞれの形態に表れる内的なモノを明らかにすることです。
日本語では、<詞と辞>と言う形態として表れていて、主体的表現と客体的表現の媒介的、つまり別々の語彙として表れているモノの組み合わせとして、統一されているのです。英語の場合その主体的表現と客体的表現が直接的に統一されているのです。例えば、日本語では<私は、私が>と言う<私>と<が、は>の組み合わせは英語では<I>一文字で表されるのです。つまり、<私=I>と言う理解ではダメだと言う事です。<my=私の>となるのです。日本語では<客体的表現=私>+<主体的表現=の>と言う組み合わせだが、英語では<i、my、me、mine>と言う一つの文字として表されるのです。ただ英語の一文字に、両表現が統一されていると言えるためには、日本語のような言語の解明があってはじめて、私達に理解できる様になったのです。対象についての概念認識が頭の中に成立し、その概念を文字や音声として、頭の外に表す事を、言語表現というのです。これは一般論であり、その認識としての概念は対象の内容を持つ客観的認識とその認識が、人々の頭の中に成立すると言う主体的認識との統一としてあるのです。<私>と言う言葉は、その対象の客観的人認識があらわされ、<私は>と言う様に<客観的認識+主体的認識>の表現として表れるのです。英語の場合は、「主体的、客観的」であっても<me>と言う一つの語彙として統一されて表現されるのです。

古池や蛙飛び込む水の音(芭蕉)
芭蕉の目には古池と水に飛び込む蛙とが見え、耳にはその水の音が聞こえたに過ぎない。芭蕉(話者)が外界の場面から話材を見つけ、自己との関係でそれらを受動的に受けとめるからです。俳句はもっとも言葉を制限した省略の文学である。表現の現実の場の中で、話者が五感で捉えた事物を直接言葉に換える自己の立場を中心にしているからに他ならない。これをいちいち「私は」と自己の立場を対象化していては俳句はうまれない。
古池<や>・・単に古池全体を眺めているのであり、その古池からモノが落ちた音が聞こえてくるのです。その聞こえて来る音から、蛙の飛び込む姿を想像しているのです。飛び込む姿を見て、さらにその時の飛び込み音を聞くと言う事では無いのです。つまり、古池と言う場所に対して、蛙との方向を表す<に>や<へ>と言う助詞を使用すれば、古池と言う場所を含む広い場所があり、そこ二いる蛙と古池の方向性により<に><へ>と言う助詞を選択せざるを得ないのでする
古池<に>・・蛙の方から古池を眺めている時、蛙の動きは古池に向かって飛び込んでいくのです。
古池<へ>・・古池の方から蛙を眺めている時、古池に向かって蛙が飛び込んでくるのです。
<に><へ>も、古池と蛙の位置を俯瞰しているのであり、<や>の様に古池の前に立ち止まって全体を眺めているのとは違った、客観的な見方に成っているのです。

日本語の主語、<は>と<が>の使い分け

「が」主語文の表現性
日本語は、自分を取り巻く様々な事柄が自己の目に映るままに、それを受け身的に捉えて言葉に表す言葉だと言える。その、目に捉えられた事柄をどの様に言葉に載せるかに依って二つの表現形式に分かれる。一つは、目に映り心に響くありのままを、一つの事態として言葉に載せる方式、現象文と言う。
もう一つは、その捉えられた事柄を題目に据えて、それについて判断を加える表現形式で、これを判断文と呼ばれる。
現象文:<あ! 雨が降ってきた。> この様な表現形式は、新しい事に気づき、新たに起こる心象風景が文に成ったモノであるから、単発的で、それまでも話の流れや文脈に関係ない、新たな事態の提示である。現象文は、<今><ここで>と言う時間・空間の制約を持つ。あくまでも当人の心に映る、その時点における外界の姿に過ぎない。外界の事象そのものではなく、あくまでもそこから受け取った話者の心象を綴る言表に過ぎない。
判断を表す「は」
日本語には同じ主語の文であっても、「は」と「が」の二つのタイプがあって、使い分けする。これは話し手の心理がそれに依って発揮されるのです。
菜の花や月「は」東に日「は」西に
この月と日の扱いを考えるのです。現象文の中の<月、日>と同じ様に、作者の外の存在であるが、しかしそれはあくまでも素材としての対象の問題であり、それを表現としてどう捉え、どう扱うかの問題は又別の事なのです。<が>は、日や月を「現象として」扱い、<は>は、日や月を「判断の対象とする」のです。
日が東にある。・・・下の様な判断が加わらずに、ただ対象の存在が捉えられるだけです。
日は東にある。・・・話者の判断や意向が加わる。この判断は、話者と聞き手の両者に共通していると言う判断です。
「〜は」の判断文は、「は」の前に主題を置き、以下にそれに対する判断を綴る。判断であるから、どの様な内容であろうと、何でも構わないのです。
私はアメリカに行きますが、あなたは?
の答えとして 僕は中国だ
と言った時、これは決して「僕は中国に行きます」の略ではない。「貴方は・・」の質問に対して「僕は・・」と言って、後は何でもいい、となかく解決しさえすればいいのです。だから、この「中国」は「あなたの行き先はアメリカだが、縛の場合は中国だ」ぐらいの気持ちで問いかけられた主題の解決を図っている訳です。
今の場合、「は」が表す<僕>については、その特殊性のレベルの僕であり、その僕の特殊性を規定するのは、その前の問いかけの文に規定されている<私は、アメリカに行きますが、貴方は>と規定されている<貴方>と呼びかけられているこの<僕>であり、どこかに出かける主体としての<僕>なのです。僕の中の多様な側面の内、どこかに出かける側面を持つ<僕>であり、だから<僕は中国です>と言う文が、どこかに出かける者としての僕であるなら、出かける所は中国なのだと言う事になるのです。<僕は中国に行きます>と言う文が省略されているのだと考えるのは、<行きます>と言う行為の主体が<僕>であると言う論理を、そのまま文章の構造に直結しているからなのです。つまり、対象としては<行為(行く)と主体(僕)>であっても、その認識を言葉に表す時、その認識は、主体である<僕>に、特定の側面として規定を与えるのであり、その特定性を与えられた事が<は>と言う助詞として表されているのです。その特定性が、問の文の中にあり、単に男の話者が自分を支持する言葉としての<僕>で有るだけなのに特定の規定を受ける僕となるのです。それが<どこかへ行く者>と言う事なのです。
<僕>は、話者が自己を指示する言葉である。相手から名指された者としてのA氏は、当然単に指で指されたと言う事ではなくて、<私はアメリカに行きますが、貴方は>と言う言葉の内容として指示されているのであり、指示されたA氏は、自分を名指す時に使う<僕>が、単なる自己指示を中心として、<どこかに行く者>としての自己であると言う事なのです。ソシュールのラングはその単なる自己関係を言い当てているだけであり、その自己関係を形成している本人自身が、<どこかに行く者>と言う規定がある事で<僕>の領域が広がっている事を知らなければならないのです。自己関係と言う時、自身が自身を指示する関係と言う事なのだが、しかしこの自身とは一つの生命体であり、親子4人の中の男として父親氏としてと言う個体としてあるのです。個体が形成する関係を、<自己>と表すが、しかしそこには個体が存在しているのです。自己とは、個体が自己を指示することであり、指示される個体と指示する個体とがあり、その両者の間の関係を<自己>と言う言葉に表しているのです。この関係の概念では、個体は思考の抽象化されているのであり、個体の具体性は消え、単なる関係を形成する実体となってしまうのです。A氏が自己と言う言葉を使えば、彼自身に対する自己指示の言葉となるが、けへそのときA氏自身がどんな特性に有るかは、自己関係では表れないと言う事です。<私>に対して、<私は・・><私が・・><私に・><私を・><私から>と言う特定性が成立するのは、その<私>と呼ばれている人間が他者との関係によって規定されると言う事なのです。<私>と言う言葉で名指される個体が、他者と関係するのであり、<私>が他者と関係するのではない。他者との多様な関係は、個体にあり、ただその個体に自己関係を<私>と言葉にしているだけなのです。

「〜は・・・だ」の判断文で主題「〜は」にどの様な語を立てるかは、決まっていない。
鈴木は社長だ。(A)・・・鈴木が現代社長の地位にある事をのべている。
社長は鈴木だ。(B)・・・社長の立場にある人は現代は鈴木氏である。 Aは、鈴木が社長の指示する範囲の中のひとつと言う、いわば下位語の関係にあるが、Bは上位概念である社長にあたるのは、特に鈴木であると言う、鈴木を取り立てて社長の代表とする強い意識が働いている。
お父さん<が>起きた時、(別の主体が)体操します。・・(C)
お父さん<は>起きた時、(お父さんは)体操します。・・(D)
<時>により、起きた事と体操する事が関連づけられている。時間の経過として<起きた事>と<体操する事>が関連づけられているのです。<が>は、お父さんの存在を個別化して表しているが、それは一個の身体としての個別だけではなく、<起きた時>と言う行為の時間を個別化しているのです。
<が>が表す概念は、個別としての概念です。<起きた>と言う行為の主体としての<お父さん>の個別化であるが、当然身体としての一個の人間として個別化が前提に成っていて、その個が眠っていた状態から目覚めたと言う行為の主体としての個別化であり、更に<起きた>と言う行為と<体操をする>と言う行為が、時間の経過における継続として関連したのです。
「お父さん<が>起きた。お母さんが起きた。」と言う二つの文の場合、ただ個としての父と個としての母の起きると言う行為を述べているだけです。両者の関連は取り上げられていません。それに対して、<時>と言う言葉が入ることで、文が継続すると、起きた事と体操する事は、単に時間的継続として関連している事をのべているのです。ニュートンの絶対時間のように、静止している物体を素通りして流れていく時間ではなく、物体の運動が次々と生起する事としてある時間なのです。
お父さん<が>起きた時は、私が体操します。
この文は、お父さんの寝ている所を確認出来ている子供がいて、そのお父さんが目覚めから起床したことを確認したら、遠くでも分かるように体操をして、合図を送って下さいと言う様な意味として理解されるのです。<時は>の<は>が表すのは、単に時間の継続としての個別である<お父さんの目覚め>と言う行為が問われているのでなく、<お父さんの目覚めの時>が問われているのです。時間の経過の中で起床と言う時間が、次の行為として体操する事に関連する時間でもある言う事なのです。
<は>によって表される<時の概念>は、「お父さんの起床の時だけ、私が体操する」とかの様に、体操と起床の連続性を時間として規定する事なのです。起床と体操は全くの別々の個別的行動であるが、その両者が特定の関連としての時間の連続性を持つと言う事なのです。

Dの「は」の主語は修飾部分を飛び越えて文末述語に係る性質が有るからです。
しかし <小型車は通れる吊り橋をかける>
にあっては、主語小型車は述語通れるに係るだけであり、<架ける>と言う述語の主語は、自治体とか国とかと言う事が当てはまるのです。<国は、小型車は通れる吊り橋をかける>になる。この「は」は、対比強調を表すからです。もともと、<大型車は通れないが、小型車は通れる>と言う対比の文だからです。
K市は、小型車は通れる吊り橋を架ける。
K市は、小型車が通れる吊り橋を架ける。
「主語・K市−−述語・架ける−−目的語・橋−−修飾語・小型車の通れる」と言う構造になっています。
<小型車は・>と言う場合、<通れる>と言う述語に対応している。その<小型車・主体・主語>と<通れる・行為・述語>との関係になる。その関係は、前者は<は>であり、後者は<が>によって特定化されているのです。というより、その関係の特定性を<は>や<が>で表しているのです。
<は>の場合、通行するのは、小型車のみで、大型車は通行出来ないと言う様に、色々な型の車があっても、ただ小型車に限定されるのです。一台一台と言う様にある車が、種類としては小型車、中型車、大型車と言う様に個別化されていても、ただ一台一台が、小型車としてあると言う事なのです。車種に関係なく、一台一台という数量であるが、ただそれぞれが小型車や大型車と言う種類に分けられると言うことであり、種類と言うレベルで見る限り、一台一台に対しての分類と言うことでしかない。一台一台の車に対して、それぞれの特性を<小型車>や<大型車>と言う種類として表す時、一台一台と言う個体として確認できる車に対して、その共通性として小型車と言う種類が取り上げられているのです。その一台一台を抜きにして、小型車も大型車も無いのであり、さらに5台の車の内の3台が小型車そのものだと言うことなのです。その3台について、メーカーも色も作りも違うのに、どれも小型車であると言う時、その3台に対して、どれにも共通するものがあり、その共通するモノを種類として持つ一台一台の車の事を、小型車であると規定するのです。
最初から考えると、5台あるモノが、どれも皆<車>と呼ばれるのは、5台のモノに共通するモノが有るからで、その共通のモノをもっているで、5台のモノは、皆<車>と言う名前で呼ばれるのです。ここで短絡してはいけないのは、5台のモノに<共通するモノ>が、車と呼ばれているのでなく、共通するモノを持つそれぞれの一台一台を<車>とよぶのです。これは、5台のモノに有る<共通するモノ>の認知を表した<車>と言う言葉を、5台のそれぞれを指示する事で、<車>と言う言葉が、名前として一台一台につくのであり、その名前の媒介によって、単に共通性として有るモノが、一台一台そのものが、共通性の実体化されたモノとして、<車>となるのです。私達の目の前にあるモノに、<その車体を構成している車輪の、回転によって地上を移動すると言う性質がある>と言う事なのです。その性質の事を、他のモノにも同一の性質がある時に、共通性と言う事に成るのです。
認識としては、実在するモノのに対して、共通性以外は切り捨てられる事で、共通性のものが認識されている。この認識の世界にいるか切り、共通性として認識されているモノと切り捨てたモノとが、どの様に結合すると認識の対象である実在のモノになるのかと言う問が生まれて来るのです。一台の車のフロントガラスが無くなっても相変わらず<車>に変わりがないとか、車輪が一つパンクしても、やはり<車>に変わりがないとか、諸部品の結合から車が出来ている事に対して、部品のどのくらいの有無が、<車>と呼ぶ時の基準になるのかと言う事なのです。
認識の物質的実践としての言語表現は、認識の対象に名前として関わる事で、単に一つの性質を持っている事ではなく、対象自体が性質として認識されたモノの実体として成立するのです。つまり対象は、一つの性質を持つのではなく、対象自体が性質の実体となるのです。つまり、目の前のモノは、<車>と呼ばれる性質を持つのではなく、モノ自体が<車>と呼ばれるのです。対象の特定の性質の認識が<車>として表されているが、その表された言葉・<車>を対象の指示として、名前として使用する事で、指示される対象、名付けられている対象は、特定の性質の認識の現実形態となるのです。車と言う言葉に表されている概念が、指示される対象と言う具体的形態となるのです。それは概念が個別として成立したと言う事なのです。
大型者のグループ、中型車のグループ、大型車のグループの様にグループ事に個別化されていて、その個別の一つとしての扱いが、<小型車が・・>となるのです。沢山の小型車が通れるのでもいいし、一台の小型車が通れるのでもいいのだが、通れる車として小型車が選択されるのです。
その幾つかのグループの中で、小型車のグループであるか、その一台であるかは別にして、小型車である事の理由、小型車で有ることの特定性によって、通れるものとなるのが、<小型車は・>と言う事なのです。<が>の場合、小型車の<通行>の問題であり、<は>の場合は、通行出来る条件に合う<小型車>の問題なのです。前者は個別としての小型車であるが、後者は色々な条件を持った個別としての小型車なのです。その条件に依っては、別の条件が対立したりするのです。

述語に見られる特色

「〜は」・「〜が」文と表現の性格
    国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。
    信号所に汽車がとまった。
(国境の長い)トンネルと言う目的語、汽車と言う主語・主体、抜けると言う述語・行為
<抜けた所=雪国>と言う判断をするのは、作者であり、作者が託した汽車に乗っている主人公であると言う事です。トンネルに入る前は、褐色の世界であり、トンネルを抜けた所が目に入って来た時、真っ白な世界としての雪国であると判断するのです。客観的には、遥かな高見から俯瞰すれば、山を挟んで雪のない世界と雪のある世界が有る事は、明らかだで、トンネルを抜けようが抜けまいが、白い世界はあるのです。しかし私達は神の位置にいるわけではなく、ここや、そこや、と言う様に個別的な場所の連続として有るだけで、その個別的な場所に対する視知覚による認識が、その都度行われるだけなのです。そこで褐色の世界にいる時の視知覚による判断から、雪のある世界に入る事で視知覚の判断が行われ、<ここは、雪国である>と言う言葉になったのです。トンネルを抜けと所の場所は、真っ白な白銀の世界としての雪国であると言う判断をするのです。トンネルの中汽車の室内灯の下の世界を見ている目が、トンネルを抜けた後の世界を見た時に白銀の世界が見える事になるのです。その主人公の目に映っているモノを言葉に表しているのです。

小説「雪国」の冒頭は、そこが雪国である事を知る場面として、まず「国境の長いトンネルを抜ける」と言う現象を経験する。その結果、作者はそこが雪国であると言う発見に行き当たる。トンネルの現象もそこが雪国であると言う事実も、結局は今汽車に身をまかせている作者自身の、自分を取り巻く場面や状況から受けとめた認識としてしか言葉にできないのです。自己の外の世界として傍観者の目でもって、突き放して客観的に叙述する言語ではないのです。
主語とは、話し手が外界から見いだした客観的な対象で、その対象が「何であるか」「どんなであるか」「どうしているか」と説明する手段として、言葉に表す文法形式である。