読   書   日   記

私が日々目を通す書物に対して、私の今の視点と、了解できない観点を書き抜き、それをどのように理解すると、私の了解になるかを目的に日記風に綴っていきたいと思います。

−−−−−−−−2002年06月24日−−−−−−−−

「日本語論」への招待 池上嘉彦 講談社

第三部 日本語の主観性と主語の省略
アルゼンチン人であるドメニコ・ラガナがはじめて日本語の文学作品に接した時、見事につまずいてしまったと言う話しである。<この家に相違ないが、どこから入って良いか、勝手口が無かった>と言う文に出会った時、この文章から引き出した解釈は次の様だった。
「ある場所に一軒(あるいは数軒)在る。その家は現在では、何かべつのもの、恐らく別の家と相違していない。誰かが誰かに向かってこう質問する。誰かが、あるいは何かが、どこから入って良いか、と。」
日本人にとっては実に平明な文章である。ほとんど誰もつまづく事はあるまい。
−−この家に来る前に、その特定の家の事に付いて教えられていて、その知識が頭の中に入っているが、現に言われた家に来たが、中にはいる入り口である勝手口が見つからない状態であると言う事。つまり<この>と言う指示機能で、事前に教えられている特定の家であるというイメージができている。その特定されている家に前に来ているが、家の内部に入る、正式な入り口で無い、勝手口の有無が確認できず、家の前に佇んでいると言う事なのです。単に<ある家>と言う曖昧な言方では無くて事前に教えられている特定の家と言う事なのです。<この>と言う指示は、現に私の目の前のものを指し示しているが、無数にある家の内、特定の一軒の家を選択するのは、例えば事前に教えられている家に付いての知識であり、私の頭の中にある知識に照らし合わせて、<この家>と言う事になる。例えば、初めて歩いた町の家並みを見ている時、最初に目に入った家に付いて、<最初に目に入った>と言う知識に照らし合わせて、<この家>と言う選択がなされるのです。だから私がその文章を読んだ時、<この>と言う言葉で、指示されている特定の家に付いて、彼の頭の中に出来ているイメージがある事が読み取れるのであり、そのイメージが前後の文の中にそれが表現されていると言う事になるのです

ラガナ氏の「解釈」で気付くとおり彼のつまづきはの原因の一つに文の<主語>への強いこだわりがあった様に思える。書き出しの部分は<この家に相違ない>と言う所までで、確かに一つの<文>である。文であれば、西洋的な言語の常識で言えば<主語>があるはずである。
−−私達も<この家に相違ない>と言う文に接した時、<何が>この家に相違ないのか、と言う問を発するのです。しかし、<事前に彼から教えられている家は、この家に相違ない>と言う文の場合、<事前に彼から教えられている家は>と言う、所謂主語と呼ばれる文を入れなくとも、その家に来る前の他の文で表現されていれば、わざわざ表記しなくとも、文として成立しているのです。
主語の<省略>と言う事
西欧の言語であっても、主語を省略すると言う事はもちろん起こる。英語「Don`t known」(知らないよ)「Can`t remember」(思い出せないよ)ですますことはよくある。命令文では主語は殆ど規則的に省略されるし、又日記と言うジャンルでは、書き手を指し示す一人称単数の代名詞はいちいち明示されないですませる。
<主語>の問題
二種類の主語の区別と言う考え方。<文法上の主語>と<心理的な主語>
<文法上の主語>:文法上の(例えば、人称や数や性に関わる)一致の規則に従って、述語動詞の取る形を支配する様な語句に付いていわれる。Jhon runs.三人称単数「JHON」が<s>を取らせると言う規則。
<心理的な主語>:それについて何か述べられる−そういうものや事を表している語句
<太郎は、来なかった。><太郎は、見かけなかった>文法上、前者は、主語の太郎であり、後者は目的語の太郎である。
−−「私は、太郎を、見かけなかった。」「太郎は、見かけなかったと言っているよ」
「太郎は、私について、ごちゃごちゃ言っているけど、私は今日ここに居たのだから、太郎は、私をみかけるはずがないよ。」と私は言います。<ごちゃごちゃ言う><見かける>と言う動作の主体は、太郎である。<太郎は、見かけなかった>と言う文の<見かける>動作の主体が、私自身であれば、太郎は目的語になる。<太郎は、黒犬を見かけなかった>と言う文が、小説のなかに次の様に描かれているとする。<太郎は、外出する時、家の周りをうろうろしている黒犬を見かけなかった>
<私は、太郎は見かけなかった>と言う文は、動作の主体である私について、色々な動作があるのに、<見かける>と言う動作を特にとりあげ、目的として、他の人は見かけたが、太郎は見かけなかったと言う意味が込められている。<は>という助詞は、動作の主体につく場合には、その主体の特定の動作が取り上げられ、目的語につく場合には、特定の対象と言う意味合いで取り上げられる。個別的に取り上げられるのでは無く、特定性が取り上げられる。<は>について、主語となるものと一緒につかわれる事が在るから、英語の様に<主語>と言う構文規定が成立するのでは無い。日本語でも、動作に対して、動作の主体が在り、その主体に<は>が使用されるのだが、しかしその使用の<は>は、動作に対する主体の特性を表現する為に成立しているのです。

<心理的な主語>と呼んでいるものは、現代の言語学では、<話題>とか、<主題>と言われるのが普通である。ところで、一般に<話題>/<主題>に相当する部分は、文の冒頭に置かれる傾向が重なると文の冒頭には、<既出情報>を担った<心理的な主題>が来やすいことになる。
−−英語の主語は、構文の構造として成立しているのであり、主語が単数か複数化かで、述語の形態が変化するのです。主語の形態は、述語の形態と相互に規定しあうのであり、主語の省略をすれば、述語の形態が決まらないと言う事が、構文の構造であると言う事なのです。それに対して、日本語の述語の対象と成る、言葉以前の<動作>には当然<主体があり、目的がある>のだから、その主体や目的を言葉で表現するときの表現形態が明らかにされるのです。<心理的な主題>とは、動作とその主体、動作と目的物と言う関連を、動作を中心にして、どの様に作り出すのかと言う事を示している。心理と言う事で、何か感情とか、意思といった精神的なものを考えがちだが、事物の運動の脳細胞に成立している認識の事を示しているのです。
<太郎「は」、ここに来なかった。>と<太郎「は」、見なかった。>の文に対して、前者の「は」は太郎が主語である事を表し、<来る>と言う動作とその動作の主体としての<太郎>と言う構造になっている。動作の主体を表す言葉を、主語と規定する。後者の場合<見なかった>と言う動作の主体は私であり見られる目的物が、太郎になります。その見られる目的物に対して、<私は、太郎を見かけなかった>と言う場合の目的である、太郎は、「を」をともない、太郎が、他の人々の単に1人としての、個別的に取り扱われているのです。太郎に対して、個別的に扱うか、特定の対象として扱うかに在ります。その特定性とは、Aさんは来たけど、太郎は来ないといった、<来る、来ない>によって区別される対象であると言う事なのです。

「状況や文脈で解りきって居るからだ。解りきっているのを、殊更言うのは野暮だというわけです。省略の美学と言って良いだろう。」と言う日本語学者の説明に対して、韓国語の話者の立場から、「同じ主語なしの韓国語を話す人間には、そんな美意識などないのだ。主語ない文を、美意識とか美学とかに結び付け様とする心情が、非常に日本的な言語観の様に映り、興味深い。」と説明される。日本語における主語の省略の本質は、この点に対して説明を与える事の出来る様なものではなくてはならない。
−−西洋言語に構文に存在する「主語」に対して、それをそのまま日本語や韓国語に探し出そうとしてと見つからないのは、主語が省略されているからだと言う結論をすること。ここには、<どの言語にも主語というモノがある。>という前提が在り、日本語にその主語を探すと言う事なのである。日本語の中に主語を探そうとする事は、英語やフランス語などの他の言語から得られた<言語>に対する知識なのだが、しかしこの知識がはたして、全ての言語にあてはめるられるかどうかと言う事であり、<当てはまって居る>と言う事の知識が、その脇に立てられなければ成らぬのです。もし仮に日本語には<主語>と言う概念が必要で無ければ、日本語に主語を探す事はないのだし、省略されていると結論する事もないのです。英語と言う言語の<構文>における主語と言う概念が成立する事と、それを日本語に当てはめられる事の間には、どの言語にも当てはまる言語本質論があって、その本質論を介さずに、例えば主語と言う考え方を日本語に当てはめる事が問題なのです。その知識は、論理的には実体論的なものであり、それを本質論に高めずに、実体論的なままあてはめてしまうのです。

文の<新出情報>を担って居る表現の部分は省略する訳にはいかない。これに対して<既出情報>を担ている部分は、話し手と聞き手の間で何を<話題>にしているのかについて共通の認識があれば、<叙述>の部分を表現として言うだけでも、十分話しが通じ合う訳である。この可能性がどの程度実現されるのかは、言語によって異なって来る。日本語のような場合だと、この方向での処理がかなり自由に行われる。相手にも十分諒解ずみの事であるならば、いちいち言語化しないで済ますと言うやりかたである。
一方、英語の様に文の構造の基本的骨格となる部分については、出さないで済ますと言う事をそれ程自由に許容しない言語の場合、諒解ずみの情報を担う部分についても言語化しなくてはならないと言う事が起こり得る。<人称代名詞>は、その既知の対象に特に新しい情報を付け加えることはないが、既知である事で言語化されない事によって生ずる構文上の穴を埋めると言う役割を果たしていると考えればよい。この意味では、既知の情報に関わる部分の言語化に関して、日本語における<省略>と言う処理の仕方と英語のおける<人称代名詞>による処理の仕方とは、一応は機能的に対応していると考えて良い訳です。

<省略>の現象について、言語学はどの様に扱っているか。
1):統語構造的アプローチの方法
どのような構成要素が省略の対象となっているかを確認すると言うやり方。例えば「嬉しい」と言ったとすると、この話者は同じ状況で「私は愉しいと言っても言い訳だから、一人称単数の主語が省略されている」と考えるのです。
−−「このゲームはとても、愉しいね」と言う文に対して、<愉し>と言う心の状態を規定されるのは、私であったり貴方であったりするが、同時にその心の愉しみを作り出すモノがゲームの中にあると言う事を表現している。そこで、<私>と言う主語が省略されていると考えたとして、しかし日本語の場合の主語は、<私が、・・>か<私は、・・>と成るのであり、<が、は>の違いに依って、文の意味合いが違ってくるのです。文の意味合いが違っていても、<愉しいね>と言う文だけで、意味が通じると言う事なのです。しかし、今の文は、愉しい気持ちを持つのは私であり、その愉しみをつくりだすのがゲームであると言う構造を表している。とすると、<このゲーム>と<愉しみ>の関係は、ゲームにより、私の心に愉しみが産まれて来たと言う事であり、<私は、愉しい>と言う事と<ゲームは、愉しい>とは、<は>の観点からすれば、同じ様に思えるが、全く別の意味合いの文なのです。では構文的に同一であるのは、<愉しみ>が、私の中にも、ゲームの中にもあるという判断が成立している。ただそこにいるだけで、心が通じるからと言って、二人の間に言葉が省略されていると言う事には成らない。言葉に依るコミュニケ−ションだけではない他のコミュニケ−ションが成立している事を、言葉が省略されているとは結論しないのです。<愉しいね>と<私は、愉しい>と言う二つの文は、前者が後者の私が省略されていると考えるのでは無くて、全く別々のいみで表現されているのです。事実として、ゲームをする私の心が、ゲームによって愉しくなるのであるが、その事実に対して、前者は私の心の中の状態を言語として表現しているのであり、後者は、他の人はどうかしら無いが、私にとっては、愉しいと言う他者との区別を表しているのです。